立川銀座でスタイリスト西ゆり子展、実戦的ファッションも

【銀座新聞ニュース=2017年10月20日】ブラインドの最大手メーカー、立川ブラインド工業(港区三田3-1-12、03-5484-6100)の銀座ショールーム(中央区銀座8-8-15、03-3571-1373)地下1階「タチカワ銀座スペース Atte」は10月25日から29日まで西ゆり子さんによる「FASHION STYLING RECORD-女性を彩るスタイリストの仕事」を開く。

立川ブラインド銀座ショールームで10月25日から29日まで開かれる西ゆり子さんの「ファッション・スタイリング・レコード(FASHION STYLING RECORD)-女性を彩るスタイリストの仕事」に出品されるパネル。

テレビのスタイリングの草分け的存在として、テレビドラマを中心に数多くの女優、俳優のスタイリングを担当してきたスタイリストの西ゆり子(にし・ゆりこ)さんの仕事を紹介する展示会で、およそ40年にわたる活動で手掛けたテレビドラマのコーディネートのパネルなど約20点を展示する。

実在しない登場人物のキャラクターをファッションで表現し、魅せるという、いわゆる洋服を紹介するための「雑誌」とは違った、スタイリングの世界を紹介し、明日から使えるシーン別「女性を輝かせる」コーディネートファッション(トルソ展示)なども提案する。

西ゆり子さんは1950年生まれ、1974年にスタイリストとして独立し、雑誌「ミス(MISS)」や「ノンノ(non-no)」などや広告のスタイリングを手がけ、日本テレビ系「11PM」や「なるほど!ザ・ワールド」を皮切りにテレビの分野に進出し、テレビ番組におけるスタイリングの草分け的存在となった。
現在もテレビドラマを中心にバラエティ、歌番組、CM、映画とジャンルを問わず手掛け、近年、手掛けた番組としてはNHK「セカンドバージン」、フジテレビ「ファーストクラス」や「リーガル・ハイ」などがあり、担当した番組数は100点を超える。

また、企業の社員研修や講演活動で、着こなしやファッションをテーマにして取り組んでいる。2014年に渋谷で開かれたスタイリストが参画する「スタイリスト・ストア(THE STYLIST STORE)」の監修、プロデュースを務めている。

現在、スタイリスト事務所「コンテンポラリー・コーポレーション(CONTEMPORARY CORPORATION)」の代表兼チーフスタイリスト、杉野学園ドレスメーカー学院の講師を務めている。

26日から29日の4日間、毎日11時30分から西ゆり子さんによる「みんなで考えるテーマ別『ファッションスタイリング』」と題したワークショップを開く。西ゆり子さんが季節やシーン、ファッションアイテム(帽子、スカーフの使い方)などのテーマを想定し、ファションが相手にどんな印象を与えるか、実際にアドバイスしながら参加者とともに考える。

26日16時から西ゆり子さんとゲストによる「クリエイターズトークセッション(Creators’TALK SESSION)」を開く。ドラマスタッフやファション関係者をゲストに招き、ドラマや映画の中でファションが果たす役割や効果について話し合う。

開場時間は10時(初日は15時)から18時(最終日は15時)まで。入場は無料。月曜日は休み。ワークショップは予約不要

永谷商事が田辺一邑と歩く井伊直虎ゆかりの地、観泉寺、東女等

【銀座新聞ニュース=2017年10月20日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は10月26日に田辺一邑さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が10月26日に開く「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で、「NHK大河2017『おんな城主直虎』ゆかりの地」を案内する田辺一邑さん。

「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」は永谷商事が毎月2、3回程度定期的に開いている、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は「NHK大河2017『おんな城主直虎』ゆかりの地3」と題して、真打の講談師の田辺一邑(たなべ・いちゆう)さんが「観泉寺(かんせんじ、今川家の菩提寺)」(杉並区今川2-16-1)、「井草八幡宮」(杉並区善福寺1-33-1)、「善福寺公園」(杉並区善福寺2丁目、3丁目)、「東京女子大学」(杉並区善福寺2-6-1)を歩いて、その後、お江戸日本橋亭に移動して昼食後に「お江戸寄席」を観賞する。

ウイキペディアによると、「おんな城主直虎」は戦国時代、後に「徳川四天王」の一人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政(いい・なおまさ、1561-1602)を育てた遠州井伊谷の女領主・井伊直虎(いい・なおとら、生年不詳-1582)を主人公とした物語だ。

遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛(いい・なおもり、1506?-1560?)の娘として誕生し、母は新野親矩の妹・祐椿尼(ゆうちんに、生年不詳-1578)で、生年は定かではないが、1536(天文5)年前後に誕生したとされている。

幼名は不明。父・直盛に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親(いい・なおちか、1536-1563)を婿養子に迎える予定だったが、1544(天文13)年に今川氏与力の小野政直(おの・まさなお、生年不詳-1554)の讒言(ざんげん)により、直親の父・井伊直満(いい・なおみつ、生年不詳-1545)が弟と共に今川義元(いまがわ・よしもと、1519-1560)への謀反の疑いをかけられて自害させられた。

直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡し、井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。直親の許嫁であった直虎は龍泰寺(後の龍潭寺)で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせた)という出家名を名乗った。直親は1555(弘治元)年に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に一族の奥山朝利(おくやま・ともとし、生年不詳-1561)の娘・おひよ(生年不詳-1585)を正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸すことになったとされる。

1560(永禄3)年の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親も1562(永禄5)年に小野道好(政直の子、おの・みちよし、生年不詳-1569)の讒言によって今川氏真(いまがわ・うじざね、1538-1615)に殺された。1563(永禄6)年に曾祖父の井伊直平(いい・なおひら、1479-1563)が天野氏の犬居城攻めの最中に急死し、1564(永禄7)年には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて重臣や家中を支えていた者たちも失った。井伊家の菩提寺である龍潭寺住職により、直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。

1565(永禄8)年に次郎法師は還俗し直虎と名を変え井伊氏の当主となった。「直虎」は仮名であって、本当の名前ではなく、直親の死去により、次郎法師しか後継者がいなかったため、女性地頭が誕生した。「女地頭」とも呼ばれたが、この時代の「地頭」は鎌倉時代の意味ではなく、領主の意味として使用されていた。

1565年9月15日、龍潭寺への寄進状に直虎が黒印を捺して寺領を確認した。自分の家の菩提寺ではあるが、公的な印判状を出し、領主として領域支配に取り組んでいた。1566年、今川氏真は井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、2年間実行されなかった。これは直虎が氏真の徳政をはねつけたためだが、1568(永禄11)年11月9日、徳政令の発動にふみきらざるをえなくなった。

小野道好の専横は続き、1568(永禄11)年には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷に三河国の徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、家康は道好の直親への讒言を咎め処刑した。

しかし、1572(元亀3)年に井伊谷城は武田家臣に明け渡し、その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦い(1573年)や野田城の戦い(1573年)まで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れ、1573年4月に撤退し、直虎は3度井伊谷城を奪還した。その間、直虎は直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、1575(天正3)年に直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、その際に直政は300石を与えられた。

晩年は、母が落飾後に過ごした龍譚寺の松岳院で過ごしたとも、自耕庵で過ごしたともいわれる。1582(天正10)年8月26日に死去し、家督は直政が継いだ。

「観泉寺」は曹洞宗の寺院で、山号は宝珠山。戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺で、境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されている。ほかに枝垂桜、紅葉などの名所としても知られている。1597(慶長2)年9月に中野にある成願寺の住職によって、多摩郡下井草に創建された。当初は観音寺と称していた。

1619(元和5)年に大友義親(おおとも・よしちか、1593-1619)が没し、義親には子がなく大友家は断絶となり、その妻は実家に戻ったのち剃髪して観音寺に仕えた。1645(正保2)年に彼女の弟にあたる今川直房(いまがわ・なおふさ、1594-1662)は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって1645(正保2)年に徳川家光(とくがわ・いえみつ、1604-1651)から井草村を含む新たな知行地を与えられ、以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続いた。

直房は観音寺を上井草村の現在地に移転して伽藍を建立し、寺領を寄進し、寺の名を観泉寺と改めた。1649(慶安2)年に幕府より観泉寺に朱印状が与えられ、10石の寺領に関する年貢・諸役を免除されている。

1662(寛文2)年に直房は市谷田町の万昌院が牛込に移転するのに際し、万昌院にあった祖父の今川氏真と母の墓を観泉寺に移し、今川氏真を観泉寺の開基とした。1763年に本堂などが焼失したが、本堂は1764年に再建された。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。今川氏は明治時代に断絶したが、現在の当地の地名「今川」の由来となっている。

「井草八幡宮」は神社で、青梅街道沿い、早稲田通り沿いにあり、都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は「遅野井」とも称され、明治期までは「遅野井八幡宮」とも呼ばれていた。源頼朝(みなもとの・よりとも、1147-1199)が1189(文治5)年に起請して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40メートル)があったが、1973年に枯れてしまった。現在その樹根の一部が回廊に飾られている。

縄文期から人々が生活していたこの地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年、春日社を末社として奉斎するようになった。徳川家光は、寺社奉行の井上正利(いのうえ・まさとし、1606-1675)に社殿を造営させ、1649(慶安2)年に朱印領六石を寄進している。

以降、幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があり、その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。

「善福寺公園」は東京都建設局所轄の都立公園で、善福寺池を中心に、遊具・遊歩道が整備されている。善福寺池は善福寺川の水源にもなっており、東京都水道局杉並浄水所の水源にもなっている。北と南に2つの池がある。公園としては1961年6月16日に開園し、井の頭池(井の頭恩賜公園)、三宝寺池(石神井公園)と並び「武蔵野三大湧水池」として知られる。

善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られ、まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源であった。善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、江戸時代に廃寺となっている。また、近辺に「善福寺」という名の寺が現在もあるものの、これは「福寿庵」という元々違う名前だった寺で、後年、地名をとって改名した。湧水量も多く、近辺には武蔵野の雑木林を思わせる木々も多くあり、野鳥や草花も豊富で、都内でも数少ない自然豊かな公園である。

「東京女子大学」は1948年に設置されたキリスト教主義に基づく私立大学で、そのはじまりは1918年に専門学校令に基づき、東京府豊多摩郡淀橋町字角筈(現新宿)にて開学した。初代学長は新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862-1933)、学監が安井てつ(やすい・てつ、1870-1945)で、同年に東洋英和女学校高等科と合併、1920年に女子学院高等科と合併、1923年に安井てつが2代学長に就任、1924年に豊多摩郡井荻村(現杉並区善福寺)へ移転し、1948年に新制東京女子大学として発足、文学部(哲学科、国文学科、英文学科)を設置した。

1950年に短期大学部を併置し、1971年に大学院修士課程を設置し、1992年に短期大学部を廃止し、2005年に大学院博士後期課程を設置し、2012年に大学院博士前期課程を設置している。現在、学生数は約4000人、教員が約380人となっている。

田辺一邑さんは1961年静岡県浜松市生まれ、1984年に横浜市立大学文理学部文科独語独文学専攻を卒業、日航情報開発などで10年以上システムエンジニアとして勤め、1997年に田辺一鶴(たなべ・いっかく、1929-2009)に入門して前座名が「一邑」、2000年に「二ツ目」、2009年に「真打」に昇進、2010年10月に静岡県浜松市「やらまいか大使」に就任した。

時間は10時から16時で、10時に西武新宿線上井草駅前に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で田辺一邑さんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からお江戸寄席は前座に続いて、二ツ目の立川吉笑(たてかわ・きっしょう)さん、田辺一邑さん、真打の三遊亭金遊(さんゆうてい・きんゆう)さん、漫談のミスター梅助(みすたー・うめすけ)さん、真打の三遊亭楽之介(さんゆうてい・らくのすけ)さんが出演する予定。

主人公のサングラスに意味を持たせた「アウトレイジ最終章」(224)

【ケイシーの映画冗報=2017年10月19日】小さいながらも武闘派として組を率いていたヤクザの大友(おおとも、演じるのはビートたけし)は、旧知の間柄である韓国系実業家の長(チャン、演じるのは金田時男=かねだ・ときお)会長のほどこしで、韓国のリゾート地である済州島(ちぇじゅとう)で隠居同然の生活を送っていました。

現在、一般公開中の「アウトレイジ 最終章」((C)2017「アウトレイジ 最終章」製作委員会)。日本ではワーナー・ブラザース映画が配給しているが、アメリカでは2011年に設立されたアンナプルナ・ピクチャーズが英語版を配給している。

そんなおり、関西系で巨大暴力団「花菱組」の構成員がトラブルを招いてしまいます。長会長の配下が殺されたことから、長グループと花菱との対立は深刻化し、長会長がヒットマンに狙われてしまいます。

恩人の危機に責任を感じた大友は、弟分の市川(いちかわ、演じるのは大森南朋=おおもり・なお)らと日本へもどり、花菱会に暴力で挑んでいくことになります。その花菱会でも、内部で権力争いが勃発していました。

新参の2代目会長の野村(のむら、演じるのは大杉漣=おおすぎ・れん)と古参の幹部である西野(演じるのは西田敏行=にしだ・としゆき)らが、長グループとの抗争と並行して花菱会の主導権を争っていたのです。

本作「アウトレイジ 最終章」は2010年の「アウトレイジ」、2012年の「アウトレイジ ビヨンド」ににつづく3作目で、表題の通りの完結編となっています。

「アウトレイジ」では関東の巨大暴力団「山王会」の内部の熾烈な権力闘争、2作目では大きくなりすぎて組織にほころびの出た「山王会」と、そこに付け入る関西の大手「花菱会」の暗躍を描いています。

2作目のラストで、勢力を減じた「山王会」は、関西を本拠地とする「花菱会」の配下となります。自分を裏切った組織に“ケジメ”をつけ、自分を利用するだけ利用した刑事に銃弾を撃ち込むことで決着をつけた大友に闘う理由は無くなり、「全員悪人完結。」というキャッチコピーどおりの作品となっていましたが、結果的には、こうして3部作としての成立となったわけです。

シリーズを通して感じるのは、膨張した組織が崩れていってしまう“栄枯盛衰”のおもむきです。1作目で裏切りと下克上によってトップが変わり、勢力を強めた「山王会」は、2作目で他のヤクザ組織の配下となるという苦渋の選択を迫られますし、下克上で成り上がった幹部のヤクザには大友がキッチリと“落とし前”をつけているのです。

そして、「山王会」を納めた「花菱会」もこの3作目では、先代会長の娘婿であるというだけでトップに立つ野村が、会長という立場で高圧的に振る舞うのですが、古参の幹部連中からはまったく人望がなく、組織としての規律にゆるみが生じてしまっています。

こうした事例は、ヤクザのような裏社会だけでなく、一般的にも珍しいことではありません。会社間の買収や売却、子会社化や吸収合併といった報道はしょっちゅうですし、なかには齟齬(そご)があったり、組織同志のかみ合わせに不具合が出たりといったことも、表面化しているよりもずっと多く存在しているはずです。

ヤクザ世界のように暴力や銃弾をともなわないだけで、揉めごとが存在するのは当然です。そして、地位や立場が変わった瞬間、それまでとはガラッと豹変してしまう人物も奇異ではありません。

本シリーズでも、成り上がった瞬間、物言いがガラッと代わってしまう人物が幾人も登場します。出世や金銭によって変化するのか、それとも下地が出てくるのは、さだかでないのですが。

監督、脚本、編集の北野武(きたの・たけし=ビートたけし)は、自身が演じ、また演出した大友という人物をこう表現しています。
「単純な男だよね。頭の悪い昔気質のヤクザ、(中略)要するに馬鹿なんだな」(「映画秘宝」2017年11月号)

シリーズを通じて「ヤクザにも守んなきゃいけない道理があんだよ」(「アウトレイジ ビヨンド」)というセリフ通りの行動をとる大友は、組織間の抗争に巻きこまれながらも一本気を地でいく人物で、たしかにシリーズ中でも変化の少ない単純なキャラクターです。

そんな大友ですが、本作では多くのシーンでサングラスをかけています。不要なはずの夜の繁華街であっても。
「そこはけっこう重要なんだ。大友の敬意の度合いを表しているんだよね。そのへんを意識しながら観てもらうと、大友の心理の変化がわかって面白いと思うよ」(前掲誌)

北野監督はこう述べていますが、純粋すぎる大友が、人間が根底の部分で持つ欲望や、世俗的な猥雑さに直面するとき、視界にフィルターをかける(まさに色ネガネ)という意味合いがあるように感じました。

「こんなドロドロした“本音”に距離を置きたい」、そんな感情の実体化が大友のサングラスだと、私には思えたのですが。次回は「アトミック・ブロンド」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

 

ピカデリー「斉木楠雄」初日に山崎賢人、橋本環奈ら舞台挨拶

【銀座新聞ニュース=2017年10月19日】アメリカの映画配給やエンターテインメント会社の日本法人、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(港区虎ノ門4-1-28、虎ノ門タワーズオフィス)と、映画配給会社のアスミック・エース(港区六本木6-1-24、ラピロス六本木)は10月21日から丸の内ピカデリー(千代田区有楽町2-5-1、有楽町マリオン、03-3201-2881)で一般公開する「斉木楠雄のΨ難」の初日に山崎賢人さん、橋本環奈さんらによる舞台あいさつを開く。

10月21日から一般公開される「斉木楠雄のΨ難」((C)麻生周一/集英社・2017映画「斉木楠雄のΨ難」製作委員会)。

21日8時45分の回上映終了後と12時5分の回上映前に、監督の福田雄一(ふくだ・ゆういち)さんをはじめ、主人公のPK学園高校2年生でオカルト部に所属する「斉木楠雄」役の山崎賢人(やまざき・けんと)さん、ヒロインでPK学園の女子生徒「照橋心美」役の橋本環奈(はしもと・かんな)さん。

斉木楠雄の友人のPK学園高校生「燃堂力」役の新井浩文(あらい・ひろふみ)さん、斉木楠雄の友人の高校生でPK学園オカルト部に所属する「海藤瞬」役の吉沢亮(よしざわ・りょう)さん、PK学園高校2年生で学級委員長、テニス部部長の「灰呂杵志」役の笠原秀幸(かさはら・ひでゆき)さん。

PK学園の転校生「窪谷須亜蓮」役の賀来賢人(かく・けんと)さん、燃堂力の姉の燃堂緑の2番目の夫「蝶野雨緑/中西宏太」役のムロツヨシ(むろ・つよし)さんが舞台に登場してあいさつする。

「斉木楠雄のΨ難(さいきくすおのさいなん)」はマンガ家の麻生周一(あそう・しゅういち)さんが「週刊少年ジャンプ」(集英社)で2012年24号から連載している同じ題名のマンガ作品が原作で、2013年8月には「ジャンプライブ(LIVE)」で「フラッシュ(Flash)アニメ」化され、2016年7が湯から12月までアニメが放送された。

物語はとてつもない超能力を持っているが、その力を隠して目立たずに、誰にも干渉されない普通の生活を望む高校生の斉木楠雄だが、そんな楠雄の思いとは裏腹に、彼の周囲にはなぜか楠雄に思いを寄せる妄想美女・照橋心美や、超能力でも気配が読めない燃堂力など、変な奴らが集まってくる。

毎年、恒例の文化祭も穏便にやり過ごそうする楠雄だったが、次から次へと災難が降りかかり、まさかの地球滅亡の危機にまで発展してしまう。

ウイキペディアなどによると、福田雄一さんは1968年栃木県小山市生まれ、成城大学経済学部を卒業、在学時に演劇部に所属し、1990年に学生劇団を母体として旗揚げした劇団「ブラボーカンパニー」で座長を務め、全作品の構成、演出を手がける。テレビ番組の制作プロダクション「日本テレワーク」に入社し、その後、独立してフリーの放送作家として活動、「笑っていいとも!」や「スマップ(SMAP)×スマップ(SMAP)」、「いきなり!黄金伝説」などバラエティ番組の構成を手がける。

テレビドラマや映画の脚本、演出にも活動を広げ、舞台やバラエティ番組で培った「笑い」のセンスを活かしてコメディ作品を生み出し、「コメディの奇才」と称されようになる。2009年に自身の舞台作品を映画化した「大洗にも星はふるなり」で映画監督としてデビュー、2007年にマギーさんとの共同脚本・演出のユニット「U-1グランプリ」を立ち上げ、自ら出演している。2004年に小山市より「小山評定ふるさと大使」に任命されている。

チケットはチケットぴあを通じて19日10時から一般発売する。料金は一般2000円、大学生1700円、高校生、中学生、3歳以上のジュニア1200円、シニア1300円、障がい者1200円。

 

 

丸善日本橋店が文化勲章作家展、前田青邨、高山辰雄ら

【銀座新聞ニュース=2017年10月18日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は10月21日から11月7日まで3階ギャラリーで「文化勲章受章作家版画展」を開く。

丸善・日本橋店で10月21日から11月7日まで開かれる「文化勲章受章作家版画展」に出品される梅原龍三郎「薔薇(バラ)」(リトグラフ)。

丸善・日本橋店恒例の秋の文化勲章受章作家版画展で、今回も横山大観(よこやま・たいかん、1868-1958)をはじめ、上村松園(うえむら・しょうえん、1875-1949)、梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう、1888-1986)ら文化勲章受賞作家の版画作品を展示販売する。

出品されるのは横山大観、上村松園、梅原龍三郎のほか、前田青邨(まえだ・せいそん、1885-1977)、奥村土牛(おくむら・どぎゅう、1889-1990)、東山魁夷(ひがしやま・かいい、1908-1999)。

棟方志功(むなかた・しこう、1903-1975)、岡鹿之助(おか・しかのすけ、1898-1978)、杉山寧(すぎやま・やすし、1909-1993)、中川一政(なかがわ・かずまさ、1893-1991)、小倉遊亀(おぐら・ゆき、1895-2000)。

高山辰雄(たかやま・たつお、1912-2007)、荻須高徳(おぎす・たかのり、1901-1986)、片岡球子(かたおか・たまこ、1905-2008)、平山郁夫(ひらやま・いくお、1927-2004)、加山又造(かやま・またぞう、1927-2004)ら。

ウイキペディアによると、文化勲章は当時の首相広田弘毅(ひろた・こうき、1878-1948)の発案により、1937年の文化勲章令をもって制定された。毎年11月3日に親授式が皇居宮殿松の間で行われ、天皇から直接授与(親授)されるが、1997年以前は天皇臨席のもとに内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行われていた。

そのため、以前は同じく宮中伝達式により授与される旧勲2等と同位に位置づけられていたが、現在では天皇親授により授与される大綬章(旧勲1等)と同位に位置づけられている。

文化庁文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて文部科学大臣が文化功労者のうちから選んで、毎年度5人程度を首相に推薦し、内閣府賞勲局で審査したうえ、閣議決定する。慣例として、その年にノーベル賞を受賞した者で文化勲章未受章である者には、文化勲章が授けられる。

文化勲章には金品等の副賞は伴わないが、1951年に文化功労者顕彰制度が創設され、前年度までの文化勲章受章者で存命者を一斉に文化功労者として顕彰するとともに、以後も文化勲章受章者は同時に文化功労者でもあるように運用しているため、文化勲章受章者は文化功労者年金法に基づく終身年金が支給される。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)。入場は無料。