鹿児島県が松屋で食材フェア、木下威征が語る

【銀座新聞ニュース=2019年2月21日】鹿児島県(鹿児島県鹿児島市鴨池新町10-1、099-286-2111)は2月20日から26日まで松屋銀座店(中央区銀座3-6-1、03-3567-1211)地下1階と地下2階で「鹿児島フェア」を開いている。

鹿児島県が2月26日まで「鹿児島フェア」を開いている松屋銀座店。

鹿児島県が鹿児島県産食材のブランド力強化を図るために、2月4日から3月3日までホテル雅叙園東京など3店舗で鹿児島県産食材を使ったメニューを提供する「鹿児島フェア」を開いており、20日から26日の7日間、松屋銀座店の地下1階の「銀座 十石」や「アントニオズデリ」など4店舗で弁当などを、地下2階の「喜多福」など4店舗で惣菜などを販売している。

鹿児島県の食材は、県内で生産された農畜産物について、一定の品質基準等をクリアしたものを「かごしまブランド産品」とし、「かごしまブランドマーク」を貼付するなどして出荷販売されている。2018年5月までに19品目25産地が「かごしまブランド」として認証されている。

24日に「鹿児島フェア」でトークショーを開く木下威征さん。

鹿児島黒牛、かごしま黒豚、黒さつま鶏などの畜産物、さつまいも、そら豆などの農産物などの食材、県産品がある。今回はこれらの「かごしまブランド産品」のほかにブリ、 カンパチ、 ウナギなどの水産物、 黒酢や焼酎などの食材や県産品がメニューに使われている。

地下1階では、「銀座 十石」が「鹿児島黒豚とんかつ弁当」(税込864円、単品が648円)、「アントニオズデリ」が「パンチェッタとスナップエンドウのペペロンチーノ」(864円)、「銀座初音」が「黒さつま鶏親子主」(1080円)、「茶懐石 三友居」が「実えんどうと春野菜の酢の物」(972円)を販売している。

また、地下2階では「喜多福」が菜の花漬、「銀座初音」が鹿児島県産黒毛和牛と黒さつま鶏、「日本橋日山」が鹿児島黒豚、「有村屋」がさつま揚げを扱っている。

24日15時30分からフランス料理の「オー・ギャマン・ド・トキオ」(渋谷区恵比寿3-28-3、03-3444-4991)のオーナーシェフの木下威征(きのした・たけまさ)さんによるトークショーを開き、鹿児島県の食材について語る。

営業時間は10時から20時(24日は19時30分)。

乾いた空気感と圧迫感で宇宙飛行士の感覚を共有させた「ファーストマン」(257)

【ケイシーの映画冗報=2019年2月21日】昨年の秋、日本の実業家が、アメリカで計画されている民間宇宙船で月に向かうことを表明しました。

現在、一般公開中の「ファースト・マン」((C)Universal Pictures)。制作費が5900万ドル(約59億円)で、興行収入が1億0274万ドル(約102億7400万円)。

「私は月に行くことを選んだ(I choose to go to the moon)」、実業家氏はこう英語でスピーチをしましたが、実際に月面に降り立つのではなく、月の周回軌道を通過するという計画となっています。

月は、人類が足を踏み入れた地球をのぞく唯一の天体であり、アメリカの12人しか存在していません。その最初の1人となったニール・アームストロング(Neil Armstrong、1930-2012)が、本作「ファースト・マン」(First Man、2018年)の主人公となっています。

1962年、優秀なテストパイロットであったニール・アームストロング(演じるのはライアン・ゴズリング=Ryan Gosling)は有人機による月面着陸をめざすアポロ計画の前段階であるジェミニ計画に参加します。

妻のジャネット(演じるのはクレア・フォイ=Claire Foy)は幼い長女を喪ったばかりで、ニールに支えてほしいと願う反面、かれにパイロットとしての挑戦をやめてほしくないという気持ちももっていました。

友人の宇宙飛行士が事故で亡くなるといったアクシデントのなか、ニールは月着陸を目的とするアポロ11号の船長に選ばれます。全世界が注目するなか、ニールは月への第一歩を踏みしめるのでした。

監督のデイミアン・チャゼル(Damien Chazelle)は、ゴズリングの主演した「ラ・ラ・ランド」(La La Land、2016年)でアカデミー作品賞と監督賞を受けており、本作で2度目のタッグを組んでいます。

前作がカラフルな映像と音楽、そしてキャストたちのダンスや演奏(ゴズリングは吹き替えなしでピアノを弾いて撮影した)といったきらびやかな世界観でしたが、実話をテーマとした本作では、当時の最先端技術であった宇宙開発の、無機質な色彩のとぼしい情景が全編を貫いています。

オープニングでニールが実験飛行中、大事故を寸前で切り抜けたときから、死ととなりあわせのテストパイロットとしての日常を、かわいた空気感で描写していきます。

ニールは映画的なヒーロー然とした人物ではなく、幼い娘の喪失に苦しみ、友人の事故死には強い衝撃を受けます。こうした部分はディティールをそぎ落とした表現となっており、台詞や音楽といった音ではなく、ゴズリングの表情やしぐさ、一瞬の目線の動きなどで観客に迫ってきます。

実在のニールも寡黙な人物で「父は無駄なことをせず、入念に準備し、考え抜いて物事をなし遂げる人だった」(2019年2月3日付「読売新聞」朝刊)と次男のマーク・アームストロング(Mark Armstrong)が語っていますし、チャゼル監督も「自分は何千ものなかのたった1つのピースにすぎないとよく言っていた。彼のそういう考え方に忠実でありたいと思った」(2019年2月1日付「読売新聞」夕刊)と自身のニール像を語っています。

宇宙飛行士という、一見するとはなやかそうな世界が、じつは関わってきた多くの人々のなかに存在していることは、いままで作られてきた宇宙飛行士やロケット飛行を扱った作品で描かれています。

くわえて、本作では、当時の宇宙飛行が決して安全ではなかったことにも触れています。巨大なロケットの、ギリギリのスペースに押し込められる飛行士たち。一度乗りこむと、外部との連絡は音声のみという隔離された状態になります。

発射の轟音と振動が飛行士の全身をつつみこんだかと思うと、ふいにおとずれる無音、無重力の世界。この落差をチャゼル監督は派手さをおさえつつ、圧迫感のある映像を見せることで観客に宇宙飛行士の感覚を共有させてくれまました。

アメリカ国内での宇宙飛行士がどう認識されているか。このことを最後に紹介させていただきます。

現在、アメリカで発行されているパスポートの最後のページに宇宙飛行士の残したこの1文が載っています。
「すべての人は次の世代のために、さらなる高みを目指して努力し続ける責任がある(Every generation has the obligation to free men’s minds for a look at new
worlds…to look out from a higher plateau than the last generation.)」(エリソン・オニズカ=Ellison Onizuka、1946-1986)

オニズカはハワイ出身の日系3世で、アメリカの宇宙計画ではじめてのアジア系宇宙飛行士でしたが、スペースシャトル〈チャレンジャー〉の事故で亡くなった人物です。

かれの物語もいつか、映画として紡がれる日がくると、日本人の1人として願ってしまいます。次回は「アリータ バトル・エンジェル」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「ジェミニ計画(Project Gemini)」は、アメリカ航空宇宙局(NASA)の2度目の有人宇宙飛行計画で、1961年から1966年にかけ、マーキュリー計画とアポロ計画の間に行われた。ジェミニ宇宙船は2人の宇宙飛行士を宇宙に送る能力があり、1965年から1966年までの間に10人の宇宙飛行士が地球周回低軌道を飛行した。

ジェミニの目標はアポロ計画で必須となる月面着陸のための技術を開発することで、月に行って帰ってくるまでに必要とされる期間の宇宙滞在を達成し、宇宙遊泳によって宇宙船の外に出て活動を行い、ランデブーとドッキングの実行をする際に必要となる軌道操作の技術を切り開いた。これらの新技術が検証されたことにより、アポロ計画では基本試験を行うことなく、月飛行という本来の目的を遂行することができた。

宇宙船はすべてフロリダ州のケープカナベラル空軍基地19番発射施設から打ち上げられた。発射機には大陸間弾道ミサイルを改良した「タイタン2型ロケット」が使用された。また、ヒューストンのジョンソン宇宙センターに新たに建設されたミッション・コントロールセンターが飛行管制に使用されたのもこの計画が初めてだった。

計画期間中にジェミニ9号(1966年6月3日打ち上げ)で搭乗予定だった飛行士を含む3人が、訓練中の航空機事故により死亡している。

「アポロ計画(Apollo program)」はNASAによる人類初の月への有人宇宙飛行計画で、1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めてかつ現在のところ唯一、有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。

1961年5月、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy、1917-1963)が1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日に宇宙飛行士ニール・アームストロングとバズ・オルドリン(Buzz Aldrin、1930年生まれ)がアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画が終了した。

アポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く3度目の有人宇宙飛行計画であり、使用されたアポロ宇宙船やサターンロケットは、後のスカイラブ計画やアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。

アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成することにあり、途中で2つの大きな事故があった。1つは、アポロ1号における予行演習中の発射台上での火災事故で、ガス・グリソム(Virgil Ivan “Gus” Grissom、1926-1967)、エドワード・ホワイト(Edward Higgins White 2、1930-1967)、ロジャー・チャフィー(Roger Bruce Chaffee、1935-1967)の3人の飛行士が死亡している。

もう1つは、アポロ13号において、月に向かう軌道上で機械船の酸素タンクが爆発した事故で、これにより月面着陸は断念せざるを得なくなった。乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、何よりも彼ら自身の優れた危機管理能力により、無事に地球に帰還することができた。

アポロ8号で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、17号は人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。

丸善日本橋で九谷焼の福島武山と一門展

【銀座新聞ニュース=2019年2月21日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月5日まで3階ギャラリーで「福島武山一門展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月5日まで開かれる「福島武山一門展」に出品される福島武山さんの作品。

今回は石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会相談役で、日本伝統工芸士会副会長の陶芸家、「九谷焼佐野窯」(赤絵細描)を継承する福島武山(ふくしま・ぶざん)さんとその一門が新作を中心に展示販売する。

福島武山さんの一門としては、娘の有生礼子(ありせ・れいこ)さんをはじめ、河端理恵子(かわばた・りえこ)さん、今川朋美(いまがわ・ともみ)さん、広瀬絵美(ひろせ・えみ)さん、吉田純鼓(よしだ・じゅんこ)さん、堀川十喜(ほりかわ・とうき)さん、林美佳里(はやし・みかり)さん、架谷庸子(はさたに・ようこ)さんが出品する。

日本の色絵陶磁の代表的な「九谷焼(くたにやき)」は350年の歴史があり、「呉須(ごす)」と呼ばれる藍青色で線描きし、「五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の5色で絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法で、絵柄は山水、花鳥など絵画的で上絵付けが特徴的とされている。

その中で、「九谷焼解説ボランティア」によると、「九谷焼佐野窯」は1825(天保6)年に斎田伊三郎(晩年は道開、さいた・いさぶろう、1794-1868)により、佐野村(能美市佐野町)に開かれた。斎田伊三郎は上絵付の技能に秀でていて、再興九谷の諸窯で主導的な仕事をしていた。

この窯を築いてから金彩の2度焼きの技法を生み出すなど細密画の「佐野赤絵」を考案し、その意匠は能美九谷や金沢九谷の代表的なものとなり、斎田伊三郎風の佐野赤絵は明治期に輸出品として高い評価を得た。しかし、佐野窯は明治期の輸出九谷のために優品を供給し続けたものの、明治30年代に九谷焼輸出そのものが減少する中、閉窯になったとされている。

また、斎田伊三郎はこの窯を上絵窯として使い、後年にはこの窯とは独立した素地窯(本窯)を築くように陶工たちに働きかけ、素地作りと上絵付を分離する磁器生産の方式を作り出した。佐野村では、村人たちがこれまでかかわったことのない磁器の生産や販売を始めることになり、農村の仕事が増えた。

佐野窯が中心になって、この分業制が佐野村全体の陶業を支え、この窯と斎田伊三郎が佐野村における産業九谷の草分け的役割を果たし、佐野九谷の礎を築いた功績は大きいとしている。これを賞し、1903(明治36)年に斎田伊三郎は九谷陶祖神社の「陶祖」として祀られた。

佐野窯の特色としては金彩の仕上げが挙げられる。茶金地に金描きしたものや、彩釉をしたものを一度焼いてから、また金彩して焼くという2度焼の手法によって金色にさえが出ている。この2度焼の手法は佐野窯独特のものだといわれている。

福島武山さんは1944年石川県生まれ、1963年に石川県立工業高校デザイン科を卒業、1981年に日本伝統工芸展で初入選、1982年に全国伝統的工芸品展で奨励賞、1986年に創造美術展で北華賞(1995年に東京都知事賞)、1987年に日本工芸会正会員、1989年に九谷焼産業デザインコンクールで名古屋通商産業局長賞(1990年に石川県知事賞)、1997年に日本工芸の世界巡回展(5カ年)に国際交流基金より選ばれ、1999年に第23回全国伝統的工芸品公募展で第1席グランプリ内閣総理大臣賞(2000年に伝統工芸士会会長賞)を受賞した。

2002年に第25回伝統九谷焼工芸展で大賞、石川県立美術館買い上げ(2004年に優秀賞、石川県立美術館買い上げ)、2003年に第17回日本陶芸展で入選、2004年に石川県指定無形文化財保持団体九谷焼技術保存会会員、2007年に石川の伝統工芸展で優秀賞、2008年に九谷焼伝統工芸士会会長、2012年に第65回記念創造展で創造美術大賞などを受賞、2015年にエルメス社時計文字盤(駒くらべ)を制作し、スイス・バーゼルで発表し、北陸新幹線の開通に合わせて金沢駅に陶板「恵み」を制作し、2016年に第1回ゴールデン匠賞、石川県文化功労賞も受賞した。

ウイキペディアなどによると、九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器で、大聖寺藩領の九谷村(現石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、加賀藩の命により、藩士の後藤才次郎(ごとう・さいじろう、1634-1704)を佐賀・有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年ころ)、藩の殖産政策として、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりとされる。

しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然、廃窯となり、窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っており、この間に焼かれたものは、現在「古九谷(こくたに)」と呼ばれている。

古九谷の廃窯から、約1世紀後の1807年に加賀藩が京都から青木木米(あおき・もくべい、1767-1833)を招き、金沢の春日山(現金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、1819年に磁器を、1820年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

1832年ころに小野窯に陶匠として招かれる、寺井村(現能美市寺井町)生まれの九谷庄三(くたに・しょうざ、1816-1883)は能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与え、1840年ころに故郷に戻り、寺井窯を開いた。ヨーロッパから入った顔料を早い時期から取り入れ、彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後にヨーロッパに輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のオーストリア・ウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時にヨーロッパの技法も入り込んだ。1872年ころから型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年ころから、獅子を始めとする置物の制作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。

また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平(すなこ・きちへい、生没年不詳)、初代諏訪蘇山(すわ・そざん、1851-1922)らの参加を得て成果を上げ、1876年には「石川県勧業場」と名を改めた。1887年に金沢工業学校(現石川県立工業高校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

現在、九谷焼は陶器と磁器があり、上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」と呼んでいる。陶器は原料が陶土(粘土)で、温かみがあり、全体に厚くぽってりした感じで、指ではじくと、鈍い音がする。一方の磁器は原料が陶石(石の一種)で、白く堅い感じがあり、薄くて軽くて丈夫で、指ではじくと「チン」と金属質の音がする。

24日と3月5日は福島武山さんが来場し、期間中、毎日、お弟子さんが来場する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)、入場は無料。

富士急、5000形「トーマスランド」営業終了、75年から44年目

【銀座新聞ニュース=2019年2月20日】山梨県に本社を置く企業で売上高第4位の鉄道会社、富士急行(山梨県富士吉田市新西原5-2-1、東京本社・渋谷区初台1-55-7)は2月23日で5000形「トーマスランド号」の営業運転を終了する。

富士急行が2月23日に営業終了する5000形「トーマスランド号」。運転開始以来、44年目の退役となる。

現在、「トーマスランド号」として運行している5000形は1975年3月12日に営業運転をはじめ、冷房設備を備え、1976年7月11日に「鉄道友の会」よりローレル賞を受賞している。富士急ハイランドに2019年で開業20周年となる「トーマスランド」が誕生したことをきっかけに、1998年に「トーマスランド号」に改造されていた。

運行開始以来、44年になることから営業運転を終了し、4月以降は富士急行線下吉田駅ブルートレインテラスに車両を保存展示する。

ウイキペディアによると、富士急行5000形は1975(昭和50)年に3100形の事故廃車補充と将来の増備車の先行試作を兼ねて、2両編成1本が日本車輌製造により製造された。形式名の「5000」は、昭和50年に登場したことに由来する。2018年時点において富士急行が自社発注した最後の鉄道車両となっている。

車両長2万ミリ(20メートル)、最大幅2950ミリ(約3メートル)と地方私鉄としては大型の車体を採用した。衝突対策として高運転台構造を採用し、正面下部にはステンレス製のバンパーを装備、車体の裾を絞ったスタイルとしている点は115系などの国鉄の近郊形電車に類似し、フロントデザインは機能本位の独自のものとなった。

空調には富士急行の車両として初めて冷房装置を採用し、冷凍能力1万キロカロリー(11.6キロワット)の三菱電機製CU-121分散式冷房装置を屋根上に4基搭載し、車両当たりの定員は128人(座席72人)となっている。

地方私鉄の新製車としては意欲的な車両だったが、その後の増備は行われず、1編成のみに留まった。塗装は登場後、数度変更され、富士急ハイランドのイベントや新施設開業に合わせて、「ゲゲゲの鬼太郎」や「きかんしゃトーマス」のキャラクターをあしらったデザインに変更された。また、2007年には客室の内装も「きかんしゃトーマス」のデザインに変更され、2018年には「トーマスランド号」として運行されている。

富士急行は23日に営業終了のに伴い、現在、富士急行線各駅にて配布するぬりえカードに色付けしたものを、トーマスランド号の車内に掲示する「ありがとうトーマスランド号キャンペーン」を実施している。

23日の最終日は下り線が大月駅発13時11分、河口湖駅着14時16分、大月駅発16時15分、河口湖駅着17時22分の2本を運行する。上り線は河口湖駅発11時16分、大月駅着12時16分、河口湖駅発14時32分、大月駅着15時29分を運行する。

ノバレーゼ直営SUSHI BARで花見ロール寿司、和牛ロールなど

【銀座新聞ニュース=2018年2月20日】婚礼関連事業の大手、ノバレーゼ(中央区銀座1-8-14、銀座YOMIKOビル、03-5524-1122)は2月19日から4月30日まで直営の創作和食店「SHARI THE TOKYO SUSHI BAR」(中央区銀座2-4-18、アルボーレ銀座ビル、03-6853-8989)で、ロール寿司を詰め合わせた「お花見ロール寿司弁当」を販売している。

4月30日まで「シャリ ザ トーキョー スシバー(SHARI THE TOKYO SUSHI BAR)」で販売している36貫詰め合わせの「お花見ロール寿司弁当」。

2016年から花見の季節に合わせて、「シャリ ザ トーキョー スシバー(SHARI THE TOKYO SUSHI BAR)」の看板メニューの新作ロール寿司4種を含めた12種類を3貫ずつ、計36貫を詰め合わせた「お花見ロール寿司弁当」(税込4500円)と、ロール寿司9種類を2貫ずつ、計18貫の詰め合わせ(2400円)、ロール寿司9種類9貫の詰め合わせ(1200円)を販売している。

12種のロール寿司は一貫が直径2.5センチのひと口サイズで、新作4種はスライスした和牛をすき焼き風の味付けにして、長芋とキュウリ、オクラ、酢飯を巻き、トリュフオイルで香りづけし、クリームチーズと味噌をトッピングし、最後に黒トリュフを削ってのせてある「和牛ロール」、桜鯛ととろろ昆布で山クラゲと酢飯を巻いた「桜鯛ロール」、甘く煮たアナゴでシイタケとかんぴょうを混ぜたシャリを巻く「穴子ロール」、サケとトビコ、錦糸卵でつくるちらし寿司をイメージした「鮭とびこロール」だ。

36貫詰め合わせにのみ入れてある「和牛ロール」。

ほかに、サーモン、クリームチーズ、カニカマ、きゅうり、玉子を巻いた「サーモンロール」、クリームチーズ、玉子、きゅうり、カニカマ、生ハムを巻いた「イタリアンロール」、鶏肉、クリームチーズ、きゅうり、ネギ、トビコを巻いた「チキンロール」。

サラダ菜、カニカマ、きゅうり、玉子を巻いた「サラダロール」、鴨、長イモ、きゅうり、オクラを巻いた「鴨ロール」、ソフトシェル、ネギ、玉子、トビコを巻いた「スパイダーロール」、牛香味、玉ねぎ、ネギ、ゴマを巻いた「香味ロール」、エビの天ぷら、青さ海苔を巻いた「天ぷらロール」の8種類。

ミニのロール寿司(18巻と9巻)は「和牛ロール」を除いた新作3種とサーモンロール、香味ロールを除いた6種。

ノバレーゼは1969年大阪府生まれ、2004年に慶応義塾大学商学部を卒業 し、同年にリクルートに入社するも、父親が病に倒れ、2005年にリクルートを退職し、家業のひとつ、愛知県名古屋市の結婚式場「株式会社東海会館華寿殿(現株式会社シャンテ」)の経営を任された浅田剛治(あさだ・たけはる)さんが2000年11月に挙式・披露宴に関する企画・運営、サービスを提供する「株式会社ワーカホリック」を資本金1000万円で設立し(2002年12月に「株式会社ノバレーゼ」に変更)、12月にドレスショップ「ノバレーゼ名古屋」を開店した。

2002年2月に東京都港区にドレスショップ「ノバレーゼ青山」を開店し、本社を東京都港区南青山に移した。2003年9月に郊外型ゲストハウス「アマンダンテラス」(名古屋市天白区)を開店し、直営方式の挙式・披露宴会場を運営、2004年1月にドレスショップ「ノバレーゼ銀座」を開店し、9月に総合結婚式場「ザ ロイヤルダイナスティ」(さいたま市大宮区)と「ザ ロイヤルダイナスティ」内に衣裳室(現ドレスショップ「エクリュスポーゼ大宮店」)を開設し、10月に都市型ゲストハウス「葵モノリス」(名古屋市東区)を開店した。

2006年10月に東京証券取引所マザーズに株式を上場し、2009年3月に本社を東京都中央区銀座に移し、5月にドレスショップ「ノバレーゼ銀座」と「ノバレーゼ青山」と統合し、銀座中央通りに移し、10月に再生施設「三滝荘」(広島市西区)を開店、2010年8月に中国・上海市に初の海外子会社を設立、12月に東証市場第1部へ変更した。2011年2月に銀座にレストラン「シャリ・ザ・トウキョウ・スシ・バー」を開店、2012年5月にレストラン「セラフィーナ・ニューヨーク(Serafina NEW YORK)丸の内店」(東京都千代田区)を開店し、2016年3月に浅田剛治さんが会長に、荻野洋基(おぎの・ひろき)さんが社長に就任した。

2015年12月期の連結売上高は前期比7.5%増の164億円、営業利益が同16.1%増の17億円、経常利益が同17.9%増の17億円、純利益が88.8%増の8億円。ブライダル事業が同6.3%増の151億円で利益が30億円、レストラン事業が同23.6%増の13億円だが、損益面では3億円の赤字となっている。

その後、投資ファンドのポラリス・キャピタル・グループ(千代田区丸の内1-9-1、グラントウキョウノースタワー、03-5223-6780)傘下のNAPホールディングス(千代田区丸の内1-9-1)が2016年10月25日付で発行済み株式の93.28%を取得し、これに伴い、ノバレーゼは11月28日をもって上場を廃止した。また、創業者で会長の浅田剛治さんも退任した。婚礼関連の店舗数は2015年度で31店、婚礼衣裳関連の店舗数は17店、レストランが9店(国内6店、海外が韓国2店、中国1店)。従業員が約1966人(パート、アルバイト含む)。

また、「シャリ ザ トーキョー スシバー」は2018年11月にノバレーゼから分社化した100%出資の子会社「ブロスダイニング」(当初はノバレーゼレストラン、2019年1月1日付で現社名に変更、中央区銀座1-8-14、03-6685-5888)が2019年1月から運営している。

希望者は前日までの電話予約が必要で、受付時間は11時30分から23時。持ち帰りのみで、店内では食べられない。