リクルートで「壁」グラフィック展、小川雄太郎、小野寺奈緒ら競う

【銀座新聞ニュース=2012年2月27日】リクルート(千代田区丸の内1-9-2、グラントウキョウサウスタワー、03-6835-1111)が運営する「ガーディアン・ガーデン」(中央区銀座7-3-5、リクルートギンザ7ビル地下1階、03-5568-8818)は2月25日から3月21日まで「第8回グラフィック ワンウォール(1_WALL)展」を開催する。

リクルートが「ガーディアン・ガーデン」で3月21日まで開催される「第8回グラフィック ワンウォール(1_WALL)展」の最終審査に進出したレイカ・リー(Leika Lee)さんの「はきだめ」。

「ワンウォール(1_WALL)」は1992年から2008年まで30回にわたって開催してきた「ひとつぼ」展を全面的に見直して、2009年から新たにはじめた若手を支援するための公募展で、「ひとつぼ展」と同様、グランプリ(賞金はなし)を受賞すると、1年後に「ガーディアン・ガーデン」で個展を開催できる権利を得られ、作品を掲載したパンフレットも作成してもらえる。

「グラフィックアート部門」と「写真部門」があり、今回はグラフィックアート部門の予備審査を通過した応募者が日常の表現活動や個展までの計画をまとめたポートフォリオを介して審査員と対話し、その中から1次審査を通過した6人が作品を展示する。

「ひとつぼ展」では10人が展示できたが、「ワンウォール」になってから6人に減り、その分、展示スペースが「1壁面(2.5メートル×3.8メートル)」と、従来の「1坪(1.82メートル×1.82メートル)」に比べて広くなり、表現できる幅が拡大された。これら展示した作品に対して、3月6日に一般の人の前で公開2次審査を開き、最終的にグランプリ1点を決める。

「グラフィックアート部門」のグランプリ受賞者は第1回目が我喜屋位瑳務(がきや・いさむ)さん、第2回目が早崎真奈美(はやさき・まなみ)さん、第3回目が榊原美土里(さかきばら・みどり)さん、第4回目が石原一博(いしはら・かずひろ)さん、第5回目が斉藤涼平(さいとう・りょうへい)さん、第6回目が田中豪(たなか・ごう)さん、第7回目が大門光(だいもん・ひかり)さん。

今回、最終審査に出るのは小川雄太郎(おがわ・ゆうたろう)さん、小野寺奈緒(おのでら・なお)さん、下野薫子(しもの・ゆきこ)さん、林香苗武(はやし・K・たけし)さん、細川貴恵(ほそかわ・きえ)さん、レイカ・リー(Leika Lee)さん。

審査員はアートディレクター、グラフィックデザイナーの居山浩二(いやま・こうじ)さん、イラストレーター、アートディレクターの大塚(おおつか)いちおさん、アートディレクターの柿木原政広(かきのきはら・まさひろ)さん、アートディレクターの菊地敦己(きくち・あつき)さん、イラストレーター、インタラクティブディレクターの都築潤(つづき・じゅん)さんの5人。

2月27日19時15分から菊地敦己さん、都築潤さん、雑誌「アイデア」(誠文堂新光社)編集長の室賀清徳(むろが・きよのり)さんによる「グラフィックのいま、これから」と題したトークショーを開く。事前の予約(03-5568-8818)が必要となる。

3月6日は18時から20時30分まで公開審査会が行われる。公開審査会の見学希望者は事前の予約(03-5568-8818)が必要となる。

3月19日19時10分から21時まで一般希望者を対象にしたポートフォリオレビューを開く。定員は10人で、希望者は3月1日19時までにリクルートの「ガーディアン・ガーデン」に申し込む。今回、批評するのはアートディレクターの栄良太(さかえ・りょうた)さん、イラストレーター、画家の谷口広樹(たにぐち・ひろき)さん。見学は自由にできる。

開場時間は11時から19時まで。日曜日・祝日は休館。入場はすべて無料。

丸善日本橋で万年筆展、長原幸夫ら実演、宍倉潔子クリニックも

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【銀座新聞ニュース=2013年2月27日】丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は3月1日から7日まで1階と地下1階、3階ギャラリーで「第4回世界の万年筆展-手書きの魅力を伝える」を開催する。

丸善・日本橋店で3月1日から7日まで開催される「第4回世界の万年筆展-手書きの魅力を伝える」のポスター。

丸善・日本橋店が全面改装開店して以来、3周年が経つのを記念して2010年から開いているイベントで、世界各国の名前の知られているブランドから国内の手づくり万年筆まで世界の万年筆を展示販売する。

今回、出品されるのは1937年に発売された「オノト万年筆」の「オノトマグナクラシック」(50本限定)や、「セーラー万年筆」の「プロフェッシャルギアスリム」、「パイロット万年筆」の「シルバーン虎」や「エラボー」など。イタリアの万年筆メーカー「アウロラ」の万年筆「ダンテ・インフェルノ」も販売する。

ウイキペディアによると、「万年筆」は1809年にイギリス人がペン軸にインクを貯蔵するペンを発明し、特許を取得したのが最初とされ、1883年にアメリカの保険外交員ルイス・エドソン・ウォーターマン(Lewis Edson Waterman、1837-1901)が、調書にインクの染みを作ってしまい、契約を取り逃がしたことをきっかけとして、毛細管現象を応用したペン芯を発明したことが万年筆の基となった。

万年筆が日本に入ってきたのは1884年で、横浜のバンダイン商会が輸入し、東京日本橋の丸善などで販売された。当時は「針先泉筆」と呼ばれ、「万年筆」と命名したのは、1884年に日本初の国産万年筆を模作した時計商の大野徳三郎(おおの・とくさぶろう、生没年不詳)と言われている。戦前は日本の万年筆製造が盛んで、1940年には世界生産量の50パーセントを日本で生産していたといわれている。

万年筆はペンとともに1960年代頃まで、手紙やはがき、公文書などを書くための筆記具として主流であったが、徐々にボールペンに取って代わられ、1970年代に公文書へのボールペンの使用が可能になり、また水性ボールペンが開発されたことにより、万年筆は事務用、実用筆記具としては利用されなくなっている。

期間中、1階催事フロアでは11時から19時まで「手作り万年筆の大橋堂」(宮城県仙台市青葉区中央3-8-5、新仙台駅前ビル1008、022-266-2332)が手作り万年筆の実演販売をする。また、ユーロボックス(中央区銀座1-9-8、奥野ビル、03-3538-8388)もビンテージ筆記具を販売する。

1日から3日の11時から19時まで「プラチナ万年筆」(台東区東上野2-5-10)の子会社「中屋万年筆」(台東区東上野2-5-16、岩原ビル2階)が手作り万年筆の実演販売をする。

3月4日から7日の11時から19時まで「セーラー万年筆」(江東区毛利2-10-18、03-3846-2651)のインクブレンダーで入社以来30年以上経つ、石丸治(いしまる・おさむ)さんがインクの調合の実演販売をする

地下1階特別催事場では、「サンライズ貿易」(千代田区岩本町2-13-6、第3ミツボシビル、03-5833-7701)の内田成一(うちだ・せいいち)さんと前沢正俊(まえさわ・まさとし)さん、「ペリカン日本」(台東区上野1-1-12、03-3836-6541)の山本英昭(やまもと・ひであき)さんが「万年筆に関わる相談」を受け付ける。

1日11時から19時まで「セーラー万年筆」の長原幸夫(ながはら・ゆきお)さんによる特殊ペン先万年筆の実演販売をする。

4日と5日の11時から19時まで「パイロット」(中央区京橋2-6-21、03-3538-37)がペンクリニックを行う。

6日と7日の11時から18時まで「サンライズ貿易」の宍倉潔子(ししくら・きよこ)さんがペンクリニックを開く。

3階ギャラリーでは2日11時から19時まで「パイロット」が万年筆組立て教室を開く。材料費として525円。

開場時間は9時30分から20時30分まで。入場は無料。

帝国ホテル・パークサイドで上高地80年記念メニュー

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【銀座新聞ニュース=2013年2月26日】帝国ホテル(千代田区内幸町1-1-1、03-3504-1111)は3月1日から5月12日まで本館1階「パークサイドダイナー」で上高地帝国ホテル開業80周年を記念して「パークサイドダイナーで味わう上高地」を開催する。

帝国ホテルが3月1日から5月12日まで「パークサイドダイナー」で開催する上高地帝国ホテル開業80周年を記念フェア「パークサイドダイナーで味わう上高地」で提供する「きのこ入りハッシュドビーフとオムライス」。

1933年に開業した上高地帝国ホテル(長野県松本市安曇上高地4468、0263-95-2001)が80周年を迎えたのを記念して、同ホテルのメニューに手を加えた「きのこ入りハッシュドビーフとオムライス」をはじめ、6種類の前菜やメーンディッシュ、「カマンベールチーズケーキ」など2種類のデザートを提供する。

上高地帝国ホテルは1933年10月6日に開業した地上4階、客室数75の山岳リゾートホテルで、当初、高橋貞太郎 (たかはし・ていたろう、1892-1970)が設計し、1977年に新築された。2013年は4月26日から11月9日まで営業する。

今回、用意したのは前菜の「白エビのタルタル カブとゆずの香り」(1600円)、上高地帝国ホテルのレストラン「アルペンローゼ」で人気のある、スイスのエメンタールチーズとグリエールチーズを白ワインで溶かした「チーズフォンデュ アルペン風サラダ添え」(2200円)。

「アルペンローゼ」でも多いときには1日100食以上注文が入る、半熟卵のオムライスとと帝国ホテルの伝統レシピで作ったハッシュドビーフが溶け合う「きのこ入りハッシュドビーフとオムライス」(2600円)、「信州ハーブ鶏の照り焼きのせピラフ 飛騨山椒を香らせて」(2800円)、ベニマスを塩麹でマリネして焼き上げた「千曲産紅ますのグリエ 塩麹を添えて」(2900円)。

味噌を塗ったほお葉で牛肉をはさみ、鉄板で焼いた「牛肉の朴葉味噌包み焼き 季節の野菜添え」(3400円)、デザートとしてチェリーがアクセントになったチョコケーキ「スイスタルト」(840円)、上高地帝国ホテルのロビーラウンジで提供するもっとも人気のあるケーキ「カマンベールチーズケーキ」(840円)。

このほかに、上高地帝国ホテルワインをはじめ、山ぶんど(山ぶどうジュース)、信州産りんごジュース、白桃ジュースもある。デザート2種類は1階のショップ「ガルガンチュワ」でも販売する。

フェアの営業時間は11時から23時。料金はいずれも消費税込み、サービス料別。

丸善丸の内で震災復興チャリティ展、片岡球子、小倉遊亀、中川一政ら

丸善・丸の内本店で3月1日から12日まで開催される「東日本大震災復興支援チャリティー 丸善絵画入札会」に出品される熊谷守一の木版画「桜」(1972年)。

【銀座新聞ニュース=2013年2月26日】丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は3月1日から12日まで4階ギャラリーで東山魁夷、平山郁夫らの「東日本大震災復興支援チャリティー 丸善絵画入札会」を開催する。

日本の風景画家で「国民的画家」として知られる東山魁夷(ひがしやま・かいい、1908-1999)、シルクロードの画家、平山郁夫(ひらやま・いくお、1930-2009)、日本画家で「帝展」や「院展」にたびたび落選し「落選の神様」とまでいわれた片岡球子(かたおか・たまこ、1905-2008)。

日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した加山又造(かやま・またぞう、1927-2004)、女性画や静物を生き生きと描いた小倉遊亀(おぐら・ゆき、1895-2000)、ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術や琳派、南画といった日本の伝統的な美術を取り入れ、装飾的な世界で知られた洋画家の梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう、1888-1986)、孤高の洋画家で自宅の虫や花を描き続けた熊谷守一(くまがい・もりかず、1880-1977)。

バラの絵で知られる洋画家、中川一政(なかがわ・かずまさ、1893-1991)、日本画家で京都造形芸術大学長の千住博(せんじゅ・ひろし)さん、東京芸術大学美術学部デザイン科教授の中島千波(なかじま・ちなみ)さん、日本画家で中国西安美術学院名誉教授の後藤純男(ごとう・すみお)さんらが出品する。

また、ベラルーシー(旧ロシア)出身のフランスの画家、マルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)、具象絵画を代表するフランスの画家、ベルベルベルナール・ビュッフェ(Bernard Buffet、1928-1999)、アンニュイな女性、森にたたずむパリジェンヌ、海に浮かぶヨットなどの絵で知られるフランス人画家のカシニョール(Jean Pierre Cassigneul)さん、アメリカ在住の現代画家、ヒロヤマガタさんらの作品も展示販売する。

ウイキペディアなどによると、東山魁夷は1908年神奈川県横浜市生まれ、1931年に東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業、在学中の1929年に第10回帝展に入選、卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学、1945年に軍隊に応召し、熊本県で終戦を迎え、山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に落ち着き、同年11月に千葉県市川市に移った。

1947年の第3回日展で特選となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求し、北ヨーロッパ、ドイツ、オーストリア、中国に取材した作品を発表し、1969年に文化勲章を受章、1976年に旧西ドイツから功労大十字勲章を授与、1985年に旧西ドイツからプール・ル・メリット勲章を授与、1999年に死去した。約10年かけた奈良の唐招提寺御影堂(とうしょうだいじみえいどう)障壁画「黄山暁雲」が畢生の大作となった。

平山郁夫は1930年広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)生まれ、1945年に原子爆弾に被災、1952年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業、同校助手となり、1973年に教授、1989年に東京芸術大学第6代学長に就任した。1992年から「世界平和アピール七人委員会」の委員となり(2005年まで)、1992年に日中友好協会会長(2008年まで)、1996年から日本育英会会長(2001年まで)、1998年に文化勲章を受章した。

2001年に再び東京芸術大学学長に就任(2005年まで)、2005年に日韓友情年日本側実行委員長を務め2004年に「修交勲章興仁章」を受章し、2005年に「日韓友情年」日本側実行委員も務めた。また、高松塚古墳壁画の模写、カンボジアのアンコール遺跡救済活動、「文化財赤十字」の名のもとに中東など紛争地域の文化財保護に奔走するなど、幅広く活動した。広島県尾道市瀬戸田町には「平山郁夫美術館」があり、滋賀県守山市の佐川美術館にも多くの作品が収蔵されている。

片岡球子は1905年北海道札幌市生まれ、1926年に女子美術専門学校(現女子美術大学)日本画科高等科を卒業、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭を勤めながら創作し、「帝国美術院展覧会」(帝展)に3回落選し、1930年に「日本美術院展」(院展)に初入選、1933年にも入選したが、その後は落選が続いた。

1939年から院展の入選が続き、1955年に大岡小学校を退職、女子美術大学日本画科専任講師に就任、1960年に同大学助教授、1965年に同大学教授、1966年に愛知県立芸術大学日本画科主任教授、1973 年より同大学客員教授を務めた。1976年に勲三等瑞宝章を受章、1982年に日本芸術院会員、1989年に文化勲章を受章、100歳を超え、脳梗塞に倒れ、療養に努めたが、2008年に103歳で亡くなった。

加山又造は1927年京都府京都市生まれ、京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高校)絵画科を卒業、1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業、1950年に第2回創造美術(現創画会)春季展、秋の第3回創造美術展に入選し、1951年に第15回新制作協会展日本画部で新作家賞を受賞、1966年から1972年まで多摩美術大学教授、1979年に芸術選奨文部大臣賞を受賞、1988年から1995年まで東京芸術大学教授、その後、東京芸術大学名誉教授、1997年に文化功労者に選ばれ、2003年に文化勲章を受章した。

小倉遊亀は1895年滋賀県大津市生まれ、1917年に奈良女子高等師範(現奈良女子大学)を首席で卒業、女子高で国文学を教えるかたわら絵画を学び、1926年に院展に入選、1932年に女性として初めて日本美術院同人、1936年に小倉鉄樹(おぐら・てつき、1865-1943)と結婚し、以後鎌倉に住んだ。1976年に日本芸術院会員、1978年に文化功労者、1980年に女性画家として2人目の文化勲章を受章した。1990年から1996年まで日本美術院理事長、2000年に105歳で亡くなった。

梅原龍三郎は1888年京都府京都市生まれ、1903年に後に関西美術院院長を務めた伊藤快彦(いとう・よしひこ、1868-1936)の画塾に入り、その後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授の浅井忠(あさい・ちゅう、1856-1907)の「聖護院洋画研究所」に移り、1906年に浅井忠と伊藤快彦が「関西美術院」を設立すると同時に入学した。

1908年から1913年にヨーロッパに留学し、フランス・パリの「アカデミー・ジュリアン」で学び、1909年にルノワール(Pierre-Auguste Renoir、1841-1919)の指導を受け、1913年に帰国、1914年に「二科会」の創立に参加、同年に亀岡艶子(かめおか・つやこ)と結婚、1919年にルノワールが亡くなると、1920年に弔問のためヨーロッパを訪れた。

1922年に「春陽会」の設立に参加、1925年に「国画創作協会」に合流し、1935年に帝国美術院会員(1937年に拡充された帝国芸術院(現日本芸術院)会員)となり、1944年には帝室技芸員、東京美術学校(現東京芸術大学)教授に就任した。1934年から鹿児島の桜島を描くなど、鹿児島シリーズが1940年まで続き、戦時中は伊豆で富士山などを描いた。

1952年に東京芸術大学教授を辞任、ヨーロッパにわたり、イタリアのベネチア・ビエンナーレの国際審査員となり、文化勲章を受章、1953年に軽井沢にアトリエを作り、毎年夏に滞在した。1973年にはフランスの「コマンドール勲章」を受賞し、1977年のフランスへの旅が最後のヨーロッパ旅行となり、1986年1月16日に肺炎による心不全で死去した。

熊谷守一は1880年岐阜県中津川市付知町生まれ、1900年に東京美術学校に入学、1905年と1906年に樺太調査隊に参加、1909年に第三回文展に出展、1913年ころに実家へ戻り、日雇い労働の職につき、1915年に上京し、第2回二科展に出展、1922年に大江秀子(おおえ・ひでこ)と結婚し、1929年に二科技塾の開設に際し参加、後進の指導に当たり、1932年に「池袋モンパルナス」と称される地域(現豊島区椎名町から千早)の近くに家を建て、生涯を過ごした。

1947年に「二紀会」創立に参加(1951年に退会)、1956年に脳卒中に倒れ、写生旅行を断念、1968年に文化勲章を辞退、1972年に勲3等叙勲を辞退、1976年に「アゲ羽蝶」が絶筆となり、1977年8月1日に肺炎で死去した。1985年に自宅を「熊谷守一美術館」(豊島区千早2-27-6、03-3957-3779)として建て替えた(2007年から豊島区立)。

中川一政は1893年東京都本郷生まれ、1914年に「巽画会展」に出品、1920年に初の個展を開き、1922年に「春陽会(しゅんようかい)」の設立に参加、1949年に神奈川県真鶴町にアトリエを構え、1975年に文化勲章を受章、1986年に母の故郷、石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現白山市立松任中川一政記念美術館)が開館、1989年に真鶴町に真鶴町立中川一政美術館が開館した。1991年に亡くなった。

開場時間は9時から21時(最終日は16時)まで。入場は無料。売り上げ金の一部を日本赤十字社を通じて東日本大震災の義援金として寄付する。また、同時に「桜の版画名作特集」と「熊谷守一版画特集」を開催する。