丸善日本橋で大阪、京都の古茶道具品、初代宮川香山特集も

【銀座新聞ニュース=2016年9月1日】丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は8月31日から9月6日まで3階ギャラリーで「京都・大阪発 はんなり骨董楽市 特集:初代宮川香山没後100年“真葛香山 マクズウェア”」を開いている。

茶道具を中心を扱う古美術店「藤井香雲堂(ふじい・こううんどう)」(大阪府岸和田市南上町1-6-12、072-422-1917)などが茶道具、諸道具、美術品など珍品逸品の数々を展示即売する。また、没後100年を期して「横浜真葛焼」で知られる明治時代を代表する陶芸家の初代宮川香山(みやがわ・こうざん、1842-1916)を特集している。

初代宮川香山は明治時代より、「千のテーマを持った魔術師」と呼ばれ、世界を相手にし、帝室技芸員としても活躍した陶芸家で、宮川香山の特徴ともいうべき多様性をさまざまな技法作品で展示している。

初代宮川香山の「横浜真葛焼」は1876年のフィラデルフィア万博に発表し、それらの作品は数多く受賞し、「マクズ・ウエア」として注目された。宮川香山はその後も、釉薬(ゆうやく)や中国古陶磁の研究に邁進し、その多岐にわたる作風は、同じ万博に出品していたロイヤル・コペンハーゲンなどのヨーロッパの窯にも影響を与えたといわれている。

「はんなり」は京都の方言で「華なり」が転じて「はんなり」と発音されるようになり、「華やかでありながら、気取りがなく、上品で、明るくはなやかなさまをあらわす」言葉とされている。

ウイキペディアによると、京焼は粟田口焼(あわたぐちやき)、御室焼(おむろやき)など京都で作られる作品の総称で、一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴とされる。慶長年間初頭の1590年代末には京焼がはじまっていたと考えられており、低温で焼成し、鉛を含むゆう薬が使用され、技法やデザインが多様なことが特徴とされている。

この時期以前の京都は、三条粟田口(あわたぐち)界隈に陶磁器の窯元が集中し、粟田焼が生産されていた。天正年間以前の16世紀中頃には中国人陶工とその後継者が製陶をはじめ、緑、紫、紺、黄など寒色系のゆう薬が特徴で、押小路焼(おしこうじやき)のルーツと考えられている。17世紀に入ると、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られ、この頃に黒谷土(くろたにつち)と呼ばれる製陶に適した原料土が地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産を助けた。

京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永年間には粟田口で生産を行なっていた。1650年に金森重近(かなもり・しげちか、1584-1657)が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに1651年か1652年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清(ののむら・にんせい、生没年不詳)によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、これが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。

粟田口焼は京都市東山区粟田付近の陶器の総称で、瀬戸の陶工、三文字屋九右衛門(さんもんじや・くえもん、生没年不詳)が元和(げんな)年間(1615年から1624年)に始めた粟田口焼がもっとも古く、享保年間(1716年から1736年)まで「粟田口焼」の名でよばれていたが、9代帯山与兵衛(たいざん・よへえ、1856-1922)の帯山窯、7代錦光山宗兵衛(きんこうざん・そうべえ、1868-1927)の錦光山窯などが盛んとなり、「粟田焼」が通称となった。

ほかに岩倉山、丹山、宝山の諸窯が有名で、近代では並立する清水(きよみず)焼が磁器を主とするのに対し、粟田焼は陶器を主としている。

宮川香山は1842(天保13)年京都・真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造(みやがわ・ちょうぞう)の4男として生まれ、19歳の時に父と兄が亡くなり、陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため、初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作した。1866(慶応2)年、25歳の時、幕府から御所献品を依頼されるまでになる。

1870年に薩摩の御用商人梅田半之助(うめだ・はんのすけ)、実業家の鈴木保兵衛(すずき・やすべえ、生没年不詳)らに招へいされ、1871年に横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房「真葛窯(まくずがま)」を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく、工房があるのは京都や中国地方などに集中していた。香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼(まくずやき)」と名づけた。

しかし、薩摩焼は金を多量に使用するため、多額の資金を必要となり、「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法を生み出した。これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新しい表現方法を確立した。

宮川香山はより細密な表現を身に着けるため庭に鷹や熊を飼い、1876年に高浮彫で作られた真葛焼はフィラデルフィア万国博覧会に出品され、真葛焼と宮川香山の名を世界に知らしめた。1896年6月30日には帝室技芸員を拝命した。しかし、のちに高浮彫は生産が難しいだけでなく、精度を上げるほど完成まで何年もの時を必要とする生産効率の低さが問題化した。

これに対処するため、宮川香山は作風を一変し、窯の経営を養子の宮川半之助(2代目宮川香山、みやがわ・はんのすけ、1859-1940)に任せ、自らは清朝の磁器を元に釉薬(ゆうやく)の研究、釉下彩(ゆうかさい)の研究に没頭し、その技法をものにした。この技法で新たな魅力を築いた真葛焼はその後も輸出産業の主役の一つとされた。

1940年に2代目の宮川香山が亡くなると、2代目の長男宮川葛之輔(みやがわ・くずのすけ、1881-1945)が3代目を継いだが、1945年の横浜大空襲に罹災し、窯も家も全焼し、3代目と家族・職人計11人が死亡した。3代目の弟宮川智之助(みやがわ・とものすけ、1884-1959)が平塚市に疎開して難を逃れ、戦後、4代目宮川香山を名乗り、窯を起こしたが、作品の復興は成らず、4代目の死をもって真葛焼は廃窯となり、香山の名も絶えた。

江戸時代の宮川長造(みやがわ・ちょうぞう、1797-1860)以前に分かれた、本家筋の真葛宮川香斎(みやがわ・こうさい、1819-1865)家や初代の弟子筋に当たる窯元などが「香」の字のついた号を名乗り、香山の盛名を伝えている。

藤井香雲堂は1942年に創業、現在、藤井正治(ふじい・まさはる)さんが運営している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで、入場は無料。