永谷商事が田辺一邑と歩く井伊直虎ゆかりの地、観泉寺、東女等

【銀座新聞ニュース=2017年10月20日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は10月26日に田辺一邑さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が10月26日に開く「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で、「NHK大河2017『おんな城主直虎』ゆかりの地」を案内する田辺一邑さん。

「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」は永谷商事が毎月2、3回程度定期的に開いている、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は「NHK大河2017『おんな城主直虎』ゆかりの地3」と題して、真打の講談師の田辺一邑(たなべ・いちゆう)さんが「観泉寺(かんせんじ、今川家の菩提寺)」(杉並区今川2-16-1)、「井草八幡宮」(杉並区善福寺1-33-1)、「善福寺公園」(杉並区善福寺2丁目、3丁目)、「東京女子大学」(杉並区善福寺2-6-1)を歩いて、その後、お江戸日本橋亭に移動して昼食後に「お江戸寄席」を観賞する。

ウイキペディアによると、「おんな城主直虎」は戦国時代、後に「徳川四天王」の一人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政(いい・なおまさ、1561-1602)を育てた遠州井伊谷の女領主・井伊直虎(いい・なおとら、生年不詳-1582)を主人公とした物語だ。

遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛(いい・なおもり、1506?-1560?)の娘として誕生し、母は新野親矩の妹・祐椿尼(ゆうちんに、生年不詳-1578)で、生年は定かではないが、1536(天文5)年前後に誕生したとされている。

幼名は不明。父・直盛に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親(いい・なおちか、1536-1563)を婿養子に迎える予定だったが、1544(天文13)年に今川氏与力の小野政直(おの・まさなお、生年不詳-1554)の讒言(ざんげん)により、直親の父・井伊直満(いい・なおみつ、生年不詳-1545)が弟と共に今川義元(いまがわ・よしもと、1519-1560)への謀反の疑いをかけられて自害させられた。

直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡し、井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。直親の許嫁であった直虎は龍泰寺(後の龍潭寺)で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせた)という出家名を名乗った。直親は1555(弘治元)年に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に一族の奥山朝利(おくやま・ともとし、生年不詳-1561)の娘・おひよ(生年不詳-1585)を正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸すことになったとされる。

1560(永禄3)年の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親も1562(永禄5)年に小野道好(政直の子、おの・みちよし、生年不詳-1569)の讒言によって今川氏真(いまがわ・うじざね、1538-1615)に殺された。1563(永禄6)年に曾祖父の井伊直平(いい・なおひら、1479-1563)が天野氏の犬居城攻めの最中に急死し、1564(永禄7)年には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて重臣や家中を支えていた者たちも失った。井伊家の菩提寺である龍潭寺住職により、直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。

1565(永禄8)年に次郎法師は還俗し直虎と名を変え井伊氏の当主となった。「直虎」は仮名であって、本当の名前ではなく、直親の死去により、次郎法師しか後継者がいなかったため、女性地頭が誕生した。「女地頭」とも呼ばれたが、この時代の「地頭」は鎌倉時代の意味ではなく、領主の意味として使用されていた。

1565年9月15日、龍潭寺への寄進状に直虎が黒印を捺して寺領を確認した。自分の家の菩提寺ではあるが、公的な印判状を出し、領主として領域支配に取り組んでいた。1566年、今川氏真は井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、2年間実行されなかった。これは直虎が氏真の徳政をはねつけたためだが、1568(永禄11)年11月9日、徳政令の発動にふみきらざるをえなくなった。

小野道好の専横は続き、1568(永禄11)年には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷に三河国の徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、家康は道好の直親への讒言を咎め処刑した。

しかし、1572(元亀3)年に井伊谷城は武田家臣に明け渡し、その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦い(1573年)や野田城の戦い(1573年)まで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れ、1573年4月に撤退し、直虎は3度井伊谷城を奪還した。その間、直虎は直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、1575(天正3)年に直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、その際に直政は300石を与えられた。

晩年は、母が落飾後に過ごした龍譚寺の松岳院で過ごしたとも、自耕庵で過ごしたともいわれる。1582(天正10)年8月26日に死去し、家督は直政が継いだ。

「観泉寺」は曹洞宗の寺院で、山号は宝珠山。戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺で、境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されている。ほかに枝垂桜、紅葉などの名所としても知られている。1597(慶長2)年9月に中野にある成願寺の住職によって、多摩郡下井草に創建された。当初は観音寺と称していた。

1619(元和5)年に大友義親(おおとも・よしちか、1593-1619)が没し、義親には子がなく大友家は断絶となり、その妻は実家に戻ったのち剃髪して観音寺に仕えた。1645(正保2)年に彼女の弟にあたる今川直房(いまがわ・なおふさ、1594-1662)は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって1645(正保2)年に徳川家光(とくがわ・いえみつ、1604-1651)から井草村を含む新たな知行地を与えられ、以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続いた。

直房は観音寺を上井草村の現在地に移転して伽藍を建立し、寺領を寄進し、寺の名を観泉寺と改めた。1649(慶安2)年に幕府より観泉寺に朱印状が与えられ、10石の寺領に関する年貢・諸役を免除されている。

1662(寛文2)年に直房は市谷田町の万昌院が牛込に移転するのに際し、万昌院にあった祖父の今川氏真と母の墓を観泉寺に移し、今川氏真を観泉寺の開基とした。1763年に本堂などが焼失したが、本堂は1764年に再建された。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。今川氏は明治時代に断絶したが、現在の当地の地名「今川」の由来となっている。

「井草八幡宮」は神社で、青梅街道沿い、早稲田通り沿いにあり、都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は「遅野井」とも称され、明治期までは「遅野井八幡宮」とも呼ばれていた。源頼朝(みなもとの・よりとも、1147-1199)が1189(文治5)年に起請して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40メートル)があったが、1973年に枯れてしまった。現在その樹根の一部が回廊に飾られている。

縄文期から人々が生活していたこの地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年、春日社を末社として奉斎するようになった。徳川家光は、寺社奉行の井上正利(いのうえ・まさとし、1606-1675)に社殿を造営させ、1649(慶安2)年に朱印領六石を寄進している。

以降、幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があり、その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。

「善福寺公園」は東京都建設局所轄の都立公園で、善福寺池を中心に、遊具・遊歩道が整備されている。善福寺池は善福寺川の水源にもなっており、東京都水道局杉並浄水所の水源にもなっている。北と南に2つの池がある。公園としては1961年6月16日に開園し、井の頭池(井の頭恩賜公園)、三宝寺池(石神井公園)と並び「武蔵野三大湧水池」として知られる。

善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られ、まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源であった。善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、江戸時代に廃寺となっている。また、近辺に「善福寺」という名の寺が現在もあるものの、これは「福寿庵」という元々違う名前だった寺で、後年、地名をとって改名した。湧水量も多く、近辺には武蔵野の雑木林を思わせる木々も多くあり、野鳥や草花も豊富で、都内でも数少ない自然豊かな公園である。

「東京女子大学」は1948年に設置されたキリスト教主義に基づく私立大学で、そのはじまりは1918年に専門学校令に基づき、東京府豊多摩郡淀橋町字角筈(現新宿)にて開学した。初代学長は新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862-1933)、学監が安井てつ(やすい・てつ、1870-1945)で、同年に東洋英和女学校高等科と合併、1920年に女子学院高等科と合併、1923年に安井てつが2代学長に就任、1924年に豊多摩郡井荻村(現杉並区善福寺)へ移転し、1948年に新制東京女子大学として発足、文学部(哲学科、国文学科、英文学科)を設置した。

1950年に短期大学部を併置し、1971年に大学院修士課程を設置し、1992年に短期大学部を廃止し、2005年に大学院博士後期課程を設置し、2012年に大学院博士前期課程を設置している。現在、学生数は約4000人、教員が約380人となっている。

田辺一邑さんは1961年静岡県浜松市生まれ、1984年に横浜市立大学文理学部文科独語独文学専攻を卒業、日航情報開発などで10年以上システムエンジニアとして勤め、1997年に田辺一鶴(たなべ・いっかく、1929-2009)に入門して前座名が「一邑」、2000年に「二ツ目」、2009年に「真打」に昇進、2010年10月に静岡県浜松市「やらまいか大使」に就任した。

時間は10時から16時で、10時に西武新宿線上井草駅前に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で田辺一邑さんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からお江戸寄席は前座に続いて、二ツ目の立川吉笑(たてかわ・きっしょう)さん、田辺一邑さん、真打の三遊亭金遊(さんゆうてい・きんゆう)さん、漫談のミスター梅助(みすたー・うめすけ)さん、真打の三遊亭楽之介(さんゆうてい・らくのすけ)さんが出演する予定。