永谷商事、神田こなぎと歩く「樋口一葉と浅草寺」、鷲神社3の酉も

【銀座新聞ニュース=2017年11月22日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は11月30日に神田こなぎさんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

11月30日に開かれる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「樋口一葉と酉の市(三の酉)-浅草浅草寺」を案内する神田こなぎさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画で、その後、お江戸日本橋亭で寄席を鑑賞する。

今回は二ツ目の講談師、神田(かんだ)こなぎさんが「樋口一葉(ひぐち・いちよう、1872-1896)と酉の市(三の酉)-浅草浅草寺」と題して、東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」から「樋口一葉旧居跡」(台東区竜泉3-15-3)、「飛不動(とびふどう、龍光山正宝院=りゅうこうざん・しょうほういん)」(台東区竜泉3-11-11)。

その後「鷲神社(おおとりじんじゃ)」(台東区千束3-18-7)、「新吉原跡」(台東区千束4)、「浅草寺(せんそうじ)」(台東区浅草2-3-1)を歩いて、そこからお江戸日本橋亭に移動して、午後から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

ウイキペディアによると、樋口一葉(本名は夏子、戸籍名は奈津)は1872(明治5)年3月25日東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現東京都千代田区)の長屋で生まれ、父は樋口為之助(ひぐち・ためのすけ、則義=のりよし)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第5子で、一葉は次女。

父、則義は多喜との結婚が許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出てきて、蕃書調所使用人となり、1867(慶応3)年に同心株を買い、幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、1876(明治9)年に免職され、1877(明治10)年には警視庁の雇となり、1880(明治13)年には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れ、職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていた。

一葉は1877(明治10)年に本郷小学校に入るも、幼少のためにほどなく退学し、私立吉川学校に入学し、1881(明治14)年に次兄の虎之助(とらのすけ)が分家し、陶器絵付師に弟子入りし、同年には下谷区御徒町へ移ったため、一葉も11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。

一方、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄(わだ・しげお)のもとで和歌を習わせ、1886(明治19)年に中島歌子(なかじま・うたこ、1845-1903)の私塾「萩の舎」に入門した。一葉の家は転居が多く、生涯に12回、引っ越しをし、1888(明治21)年に長男の泉太郎(せんたろう)が死去、父を後見に一葉が相続戸主となり、1889(明治22)年に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去した。

則義と同郷で上京後の則義を支援した真下晩菘(ました・ばんすう、1799-1875)は明治後に私塾「融貫塾」を営み、武蔵国南多摩郡原町田(東京都町田市)の渋谷仙次郎(しぶや・せんじろう)宅にその出張所があり、仙次郎の弟が晩菘の孫にあたる渋谷三郎(しぶや・さぶろう、後に阪本三郎、1867-1931)で、1885(明治18)年に一葉と三郎が許婚の関係にあったが、婚約は1889(明治22)年の則義の死後に解消される。則義の死後、樋口家には多額の借金があり、渋谷三郎から高額の結納金を要求されたことが原因とされる。

一葉は17歳にして戸主として一家を担う立場となり、1890(明治23)年には「萩の舎」の内弟子として中島家に住み、塾の手伝い料として月2円をもらう。同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り、母と妹と3人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられた。一葉は「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃(たなべ・かほ、1869-1943)が小説「薮の鶯」で多額の原稿料を得たのを知り、1889年頃より小説を書くことを決意し、1891(明治24)年に数え20歳で「かれ尾花一もと」を執筆し、同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。

同年4月には東京朝日新聞専属作家の半井桃水(なからい・とうすい、1861-1926)に師事し、1892(明治25)年3月に半井が「武蔵野」を創刊し、一葉は図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表した。桃水はその後も一葉の面倒を見続けるも、次第に一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになり、そのため2人の仲の醜聞が広まり、一葉は桃水と縁を切り、幸田露伴(こうだ・ろはん、1867-1947)風の理想主義的な小説「うもれ木」を雑誌「都之花」に掲載し、出世作となる。

その後、「雪の日」などの作品を「文学界」に発表し、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉1丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、1894(明治27)年5月に店を引き払い、本郷区丸山福山町(現文京区西片1丁目)に転居し、この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となっている。同年12月に「大つごもり」を「文学界」に発表し、1895(明治28)年に半井桃水から博文館の大橋乙羽(おおはし・おとわ、1869-1901)を紹介され、「文芸倶楽部」に「にごりえ」や「十三夜」などを発表、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14カ月」と呼ばれ、1896(明治29)年に「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が掲載され、絶賛された。

しかし、肺結核が進行しており、8月に医師により「回復が絶望的」と診断され、11月23日に丸山福山町の自宅において、24歳と6カ月で死去した。葬儀は11月25日に身内だけで築地本願寺で行われた。墓は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のち杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所へ移された。法名は「智相院釋妙葉信女」。1922(大正11)年には一葉の27回忌が行われ、この時、妹のくにが一葉の文学碑建造を計画し、地元有志らの出資により、東山梨郡大藤村中萩原(甲州市塩山)の慈雲寺境内に建てられ、同年10月15日に除幕式が行われた。

下谷竜泉寺に移り住んだのは1893(明治26)年で、7月20日に本郷菊坂町より引っ越しし、駄菓子・荒物屋を始めるも、商売がうまくいかず、1年後の1894年に終焉の地、本郷区丸山福山町(現在西片1丁目)へ移った。下谷竜泉寺の界隈を背景にして「たけくらべ」や「わかれ道」の題材を得ており、碑の位置は樋口一葉宅の左隣り酒屋の跡で、同じ番地の西端に近く碑より東方6メートルが旧居に当たる。

「飛不動」は1530年に本山派修験僧の正山上人(せいざんしょうにん)によって開かれた修験系天台宗の単立寺院だ。正山上人が和歌山県熊野から奈良県吉野にいたる大峯山で修行後、諸国を巡歴し、竜泉の地で村人に宿を施してもらい、ある日、正山上人が一筋の光と共に立ち昇る龍の夢を見、龍の夢は不動さまのご加護を象徴しており、正山上人が村人の息災延命と自らの旅の安全を祈って不動さまを刻み、この地に奉安した。

寺号は、龍が光を放ち空へ昇った夢に従い、「龍光山三高寺正宝院(りゅうこうざん・さんこうじ・しょうぼういん)と名付けた。以来、旅人の守り本尊として、災厄消除の祈願寺として信仰されている。

これに対して、創建後まもなく、寺の住職が、本尊のお不動さまを笈(おい、必要なものを入れて背負う箱)で背負い、大峯山まで修行にでかけたところ、本尊が留守の江戸の寺に不動さまの分身を携えた人々が集まり、不動さまを観想して一心に祈ると、不動さまが一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えてくれたといわれている。以来、「空を飛び来て、衆生を守りたもうお不動さま」といわれ、「飛不動尊」と呼ばれるようになった。

江戸時代の地図を見ると寺号より「飛不動」と記されているものが多く、「飛不動」は古くより、旅人の守り本尊として、旅先まで飛んできて守ってくださる「空飛ぶお不動さま」とされ、病魔や災難などを飛ばしてくださる「厄飛ばしのお不動さま」として信仰されてきた。

近代に入り、航空機の発達と「飛不動」が人々の間で結びつき、航空関係に携わる人たちや海外旅行などで飛行機を利用される人たちが、航空安全や道中安泰、旅行安泰を願い参拝している。また、航空安全はすなわち「落ちない」ということで、受験合格の祈願でお参りする人もいる。不動さまの縁日は28日で、本尊の開帳は12年ごとの酉歳に行われている。

「鷲神社」は創建については不明だが、祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られている。天照大御神が天の岩戸にかくれ、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞をまうと、楽器の弦を奏でられた。

命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸を開くと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまり、その様子を固唾をのんで見守っていた八百万(やおろず)の神々は、その光景を世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)として、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称した。天日鷲命は、開運、開拓の福神として鎮座されている。

祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征の帰途、鷲神社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをした日が、11月の酉の日であったことからその日に神さまをなぐさめる祭が行われるようになり、酉の市のはじまりとされ、酉の市に縁起物として熊手が売られている。鷲神社は寿老人を祀っており、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されている。

また、2017年の酉の市は一の酉が11月6日、二の酉が18日、三の酉が30日となっている。午前0時から24時まで1日開かれる。熊手が「かっこめ」といわれ、福運や財を「かき込む」という縁起から開運、商売繁盛のお守りとされ、熊手の店が並ぶ。

「新吉原跡」は江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内(しょうじ・じんない)の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身だったという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。

当時、駿府城城下(現静岡市葵区)に徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)公認の七カ丁もの広大な面積の遊郭(「二丁町遊郭」と呼ばれた)があり、吉原はその内五カ丁を徳川家康亡き後に駿府から移したのが始まりとされ、庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人、しょうじ・じんうえもん)らへ1)客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない、2)偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す、3)犯罪者などは届け出るという3カ条の許可条件が示された。

しかし、現実には1617(元和3)年まで実現せず、その後、幕府は4)江戸市中には一切遊女屋を置かない、5)遊女の市中への派遣をしない、6)遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを条件に認可し、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりで、吉原遊廓は始まった。

1640(寛永17)年に幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止し、市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。そのころには江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接し、1656(明暦2)年に幕府は吉原の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。1657(明暦3)年正月に明暦の大火が起こり、移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1、2丁目、江戸町1、2丁目、仲之町、揚屋町、角町(京町以外はすべて「ちょう」と読む)があった。

1721(享保6)年の記録によると、全国の人口調査があり、新吉原の人数は総人数高8171人、15歳以上男2375人 同以下463人、15歳以上女4003人、以下女330人、右のうち家主182人、店借り620人、遊女2105人、禿941人、召使2163人とある。明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移り、次第に吉原遊廓は縮小され、戦後は1956年5月21日に売春防止法が可決成立し、1957年4月1日に施行され、吉原遊廓は消滅し、一部は「ソープランド」に転身した。

「浅草寺」は東京都内最古の寺で、山号は金龍山、本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)であり、元は天台宗に属していたが、大東亜戦争後、独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

628(推古天皇36)年に宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像が、浅草寺本尊の聖観音像で、この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養し、これが浅草寺の始まりとされている。

その後645(大化元)年に勝海上人(しょうかい・しょうにん)という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。平安時代初期の857(天安元)年ころに、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師、えんにん、794-864)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。

942(天慶5)年に安房守の平公雅(たいらの・きみまさ、生没年不詳)が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したと伝えられ、雷門、仁王門(現宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。1590(天正18)年に江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは1631(寛永8)年、1642(寛永19)年に焼失したが、1648(慶安元)年に五重塔、1649(慶安2)年に本堂が再建された。

1685(貞享2)年に表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられ、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したという。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。

明治期に入ると、1873(明治6)年に境内が公園地に指定され(浅草公園)、1885(明治18)年には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わり、1890(明治23)年に商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

1917(大正6)年からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛し、1923(大正13)年の関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼しただけにとどまった。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失した。

戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退したが、地元商店街のPR活動などによってかつての賑わいを取り戻しつつある。2014年6月11日に浅草寺に存在する仏像がサウジアラビア人に破壊されるという事件が発生した。本堂の東側に「浅草神社(あさくさじんじゃ)」があり、拝殿、幣殿、本殿は重要文化財で、浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社であり、明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。

1912(大正元)年に本堂裏広場奥に殉職した火消の慰霊と顕彰のために消防殉職者表彰碑が建立され、毎年5月25日に慰霊祭が行なわれる。浅草神社鳥居脇には2005年に秋本治(あきもと・おさむ)さんのマンガ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の単行本の発行部数が1億3000万部を超えたことから、それを記念するため「こちら葛飾区亀有公園前派出所」記念碑が建立された。

浅草神社境内には久保田万太郎(くぼた・まんたろう、1889-1963)句碑、川口松太郎(かわぐち・まつたろう、1899-1985)句碑、河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ、1816-1893)顕彰碑、初代市川猿翁(2代目市川猿之助、いちかわ・えんおう、1888-1963)句碑、初代中村吉右衛門(なかむら・きちえもん、1886-1954)句碑などがある。

神田こなぎさんは山梨県南アルプス市生まれ、2011年9月に神田すみれさんに入門、前座見習い、12月に講談協会見習い、2016年10月に二ツ目に昇進している。

時間は10時から16時で、10時に東京メトロ日比谷線三ノ輪駅前に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で神田こなぎさんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からのお江戸寄席は前座に続いて、二ツ目の桂伸べえ(かつら・しんべえ)さん、神田こなぎさん、真打の三遊亭遊之介(さんゆうてい・ゆうのすけ)さん、紙切り芸人の三遊亭絵馬(さんゆうてい・えま)さん、真打の土橋亭里う馬(どきょうてい・りゅうば)さんが出演する予定。