三重テラスで三重大「天正伊賀の乱」講座、山田雄司、東紗友美

【銀座新聞ニュース=2017年12月7日】三重大学(三重県津市栗真町屋町1577)の伊賀連携フィールドは12月16日に三重県のアンテナショップ「三重テラス」(中央区日本橋室町2-4-1、YUITO ANNEX)の2階イベントスペースで、「忍者・忍術学講座 in Tokyo」を開く。

三重大学伊賀連携フィールドが12月16日に三重テラスで開く「忍者・忍術学講座イン・トウキョウ(in Tokyo)」。画像は同フィールドの研究対象となっている忍者のイメージ図。

三重大学は2012年から「忍者忍術研究」をはじめ、「三重大学伊賀連携フィールド」は上野商工会議所(三重県伊賀市上野丸之内500、0595-21-0527)の地域活性化センター内に設置されたプロジェクトで、「伊賀における『忍者文化』に着目した地域活性化の取り組み」を策定し、忍者に関する学術的研究を行っている。

毎月、三重県伊賀市内では「忍者・忍術学講座」を開いており、その首都圏版として2014年度から「忍者・忍術学講座 イン・トウキョウ(in Toky)」を催している。今回はその8回目で、2017年7月に一般公開された映画「忍びの国」の舞台となっている「天正伊賀の乱」を取り上げる。

「忍びの国」は小説家の和田竜(わだ・りゅう)さんが書いたシナリオの原案を基に映画化された作品で、そのシナリオ「忍びの国」(新潮社、2011年に新潮文庫化)が出版され、2009年に第30回吉川英治(よしかわ・えいじ)文学新人賞候補となった。
題材となった「天正伊賀の乱」はウイキペディアによると、1578(天正6)年から1579(天正7)年と、1581(天正9)年に伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称で、織田信長(おだ・のぶなが、1534-1582)の次男、織田信雄(おだ・のぶかつ、1558-1630)が最終的に1581年9月に伊賀国をほぼ制圧した歴史的出来事だ。
織田信雄は1576(天正4)年に伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙った。

1578(天正6)年2月に伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守、しもやま・へいべえ、生没年不詳)が織田信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。織田信雄は同年3月に滝川雄利(たきがわ・かつとし、1543-1610)に北畠具教(きたばたけ・とものり、1528-1576)が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。伊賀郷士11人が平楽寺に集まり、完成までに攻撃することに集議が一決し、丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月に集結した忍者たちが総攻撃を開始し、不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。

1579(天正7)年9月に織田信雄は織田信長に相談もせず独断で8000人の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し織田信雄軍を伊勢国に敗走させた。織田信雄が無断で伊賀に侵攻し、敗戦したことを知った織田信長は激怒し、織田信雄を叱責し、「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたとされている。この織田信雄の敗戦を受け、織田信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第2次伊賀の乱へ繋がる。

1581(天正9)年4月に上柘植の福地伊予守宗隆(ふくち・いよのかみ・むねたか)、河合村の耳須弥次郎具明(みみす・やじろう・ともあき、生年不詳-1581)の2人が安土城の織田信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。再び9月に織田信雄を総大将に5万人の兵で伊賀国に侵攻した。伊賀衆は比自山城に3500人(非戦闘員含め1万人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1500人で籠城した。

伊賀衆は野営していた蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556-1595)隊に夜襲を掛け、蒲生氏郷隊は寝込みを襲われ大敗、筒井順慶(つつい・じゅんけい、1549-1584)隊にも夜襲を掛け、これに怒った蒲生氏郷は平楽寺を強攻したものの、退けられるが、滝川一益(たきがわ・かずます、1525-1586)の援軍を得て平楽寺を陥落させた。

比自山城の攻略では、総攻撃の前日にすべての伊賀衆の城兵は柏原城に逃亡し、翌日には藻抜けの空となり、その後、内応者が多く出るなど、織田軍は各地で進撃し9月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は片っ端から殺害され、平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万人の内、非戦闘員含む3万余が殺害された。

奈良の大倉五郎次(おおくら・ごろうつぐ)という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政(たきの・よしまさ、生年不詳-1602)が28日早朝に織田信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、柏原城を開け、天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は徹底的に捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国したとされている。10月9日には織田信長自身が伊賀国に視察に訪れ、織田信長は阿拝郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信長の同母弟の織田信行(おだ・のぶゆき、1536-1557)の3男、織田信兼(おだ・のぶかね、生年不詳-1583)にそれぞれ与えた。

「忍者」とは飛鳥時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え、または独立して諜報活動、破壊活動、浸透戦術、謀術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。伊賀衆、甲賀衆のような土豪集団もあれば、「乱波透破」のようなごろつき集団に近いものもある。戦には「足軽」として参加し、夜討ち朝駆けといった奇襲撹乱を得意とした。

伊賀、甲賀においては荘園時代から悪党がはびこり、それが後世に忍者と呼ばれる伊賀衆、甲賀衆になったとされている。戦国時代に、結城氏のように領内で草、夜業の作戦に普段からプロの悪党や忍びが集団で雇われているところもあれば、合戦前に忍びを募集するところもあった。例えば、武蔵松山城主の上田憲定(うえだ・のりさだ、1546-1597)の合戦前の兵募集制札には「夜走、夜盗はいくらでも欲しい」をはじめ、「侠気のある剛健なもの」や「前科者、借財ある者みな帳消しにする」とあり、陰徳太平記(1717年刊)では「足軽など山賊盗賊でも嫌わず召し集める」とあり、後に出世した大名の中で彼らの助力を受けていないものは一人もいないとみられている。

「万川集海(まんせんしゅうかい)」(1676年に書かれた忍術書)によると「忍芸はほぼ盗賊の術に近し」とあり、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者はこれをいう。一方、陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法で、いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などに当たる。近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。

戦前は「忍術使い」が一般的だったが、戦後は忍者、忍びの者、忍びという呼称が一般化した。江戸時代までは統一名称はなく、地方により呼び方が異なり、乱破(らっぱ)、素破(すっぱ)、水破(すっぱ)、出抜(すっぱ)、透破(すっぱ、とっぱ)、突破(とっぱ)、伺見(うかがみ)、奪口(だっこう)、草(くさ)、軒猿、郷導(きょうどう)、郷談(きょうだん)、間士(かんし)、聞者役(ききものやく)、歩き巫女、屈(かまり)、早道の者などがある。1600年代にイエズス会が編さんした「日葡辞書」では、「Xinobi(忍び)」と表記されている。

間諜の歴史は、人類の歴史とともに古く遡り、発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などがある。「孫子」用間編をはじめ、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子(しょうとく・たいし、574-622)が、大伴細人(おおともの・ほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられるが、日本書紀などにはそのような記載はない。

忍者・忍術は、源平時代以後に日本で発祥したもので、忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある。中でも甲賀、伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。

これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられ、甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり、荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠し、各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。

伊賀、甲賀、雑賀、柳生、根来などの紀伊半島は、天武天皇(てんむ・てんのう、生年不詳-686)が壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇(ごだいご・てんのう、1288-1339)の南朝がおかれるなど、特殊な霊地が多い。文献上の初見は1487年の室町幕府将軍足利義尚(あしかが・よしひさ、1465-1489)率いる幕府軍対六角氏、甲賀、伊賀連合軍の戦いといわれる。

特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。 1585(天正13)年に羽柴秀吉(はしば・ひでよし、1537-1598)によって甲賀の侍衆は改易処分となり、甲賀は秀吉の家臣中村一氏(なかむら・かずうじ、生年不詳ー1600)の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落した。

伊賀国では、藤林、百地、服部の上忍3家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、織田信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受け、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももち・たんば、1556-1640)以下100人が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。

13時から14時まで第1部として三重大学人文学部教授の山田雄司(やまだ・ゆうじ)さんが「史実としての天正伊賀の乱」と題して講演する。 戦国時代の伊賀で巻き起こった天正伊賀の乱には残された史料が少なく、具体的な内容については後に書かれた軍記物に頼らざるをえず、山田雄司さんがこの戦いはどのような内容だったのか、伊賀忍者はいかに戦ったのか、具体的に説明する。

14時から15時まで第2部として映画ソムリエの東紗友美(ひがし・さゆみ)さんと山田雄司さんが「映画『忍びの国』をふりかえって」と題して対談し、映画「忍びの国」について、映画の特徴やもう一度見る際のポイントなどについて語りあう。

山田雄司さんは1967年静岡県生まれ、1991年に京都大学文学部史学科を卒業、1998年に筑波大学大学院歴史・人類学研究科史学専攻博士課程を修了、1999年に三重大学人文学部講師、2001年に同大学助教授、2007年に同大学准教授、2011年に同大学教授を務めている。

東紗友美さんは1986年東京都生まれ、2009年に成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科を卒業、2007年4月から大学3年生の1年間、テレビ神奈川系の「みんなが出るテレビ」の女子大生レポーターとして出演、2008年4月から1年間、TBS系「アナキャン(CAN)」のサポーターとしてレギュラー出演し、それと並行して雑誌「キャンキャン(CanCam)」や「JJ」などの読者モデルとしても活動し、広告代理店「エヌケービー」を経て、2013年3月に退職後、4月よりフリーの映画ソムリエの肩書きで活動している。

希望者は三重大学人文学部チーム総務担当(059-231-6991、メール:info-hum@ab.mie-u.ac.jp)に申し込む。入場は無料。

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