永谷商事が七福神めぐり、神田山緑と歩く深川コース

【銀座新聞ニュース=2018年1月8日】不動産会社で都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は1月12日に神田山緑さんによる「講談師と一緒に歩く 歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が1月12日に開く「講談師と一緒に歩く 歴史と文化の散歩ラリー」で、「七福神巡り・深川」を案内する神田山緑さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。例年、正月は東京の主要な七福神めぐりの企画を開いており、第1弾の「日本橋七福神」、第2弾の「七福神めぐり・谷中」に続いて、第3弾は「七福神巡り・深川」と題して、二ツ目の講談師、神田山緑(かんだ・さんりょく)さんが深川版「七福神めぐり」を案内する。

神田山緑さんと一緒に地下鉄門前仲町駅から恵比須神の「富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)」(江東区富岡1-20-3、03-3642-1315)、弁財天の「冬木弁天堂(ふゆきべんてんどう)」(江東区冬木22-31、03-3641-9051)、福禄寿の「心行寺(しんぎょうじ)」(江東区深川2-16-7、03-3641-2566)、大黒天の「円珠院(えんじゅいん)」(江東区平野1-13-6、03-3641-0491)を歩く。

その後、毘沙門天の「龍光院」(江東区三好2-7-5、03-3642-3437)、布袋尊の「深川稲荷神社(ふかがわいなりじんじゃ)」(江東区清澄2-12-12、03-3641-8059)、寿老神の「深川神明宮(ふかがわしんめいぐう)」(江東区森下1-3-17、03-3631-5548)と回り、その後、お江戸日本橋亭に移り、昼食後、日本橋お江戸寄席を鑑賞する。

深川七福神は3カ所の神社と4カ所の寺で構成されており、富岡八幡宮の恵比須神から深川神明宮の寿老神を回るか、その逆のコースが巡りやすい道順になっている。徒歩で約2時間のコースという。ウイキペディアによると、明治末期ごろにはじまり、1945年の東京大空襲により、安置してあった各社寺が全焼したため、一時中断されたが、1970年正月から復活した。1月1日から15日までの正月の開帳期間には、色紙、笹、鈴などの授与がある。初穂料は色紙が1000円、御朱印が100円、福笹が1000円、お鈴が300円。

富岡八幡宮は「深川八幡」ともいい、1624年に菅原道真(すがわらの・みちざね、845-903)の後裔といわれた長盛法師(ながもり・ほうし)が神託により砂州であった永代島(えいたいじま)と呼ばれていた現在地を干拓し、八幡宮を建立したことが創建とされる。創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより6万508坪の社有地があった。

八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡さま」として親しまれ、広く美麗な庭園は人気の名所であったという。周囲には門前町(現門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ、商業地として重要視された。明治維新後の社格は、准勅祭社とされ、同制度の廃止後は延喜式神名帳に記載がないため府社とされたが、皇室の尊崇を受け続けた。永代寺については、神仏分離令によって廃寺となり、現在の永代寺は1896年に再建された。

江戸時代の測量家である伊能忠敬(いのう・ただたか、1745-1818)は深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年に境内に銅像が建立された。江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、境内で本場所も開かれた。

特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったこともあり、富岡八幡宮と相撲との結びつきが強まった。現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われている。

ただ、2017年12月7日に富岡八幡宮の女性宮司、富岡長子(とみおか・ながこ、1959-2017)が実弟の元宮司、富岡茂永(とみおか・しげなが、1961-2017)とその妻、真里子(まりこ、1968-2017)に殺害されるという事件が起こった。このため、FNN(フジテレビ系)によると、例年、正月3が日におよそ15万人が訪れる年始の参拝客が、2018年はおよそ3万5000人と8割近くも減ったとしている。また、宮司の補佐や代理を務める権宮司(ごんのぐうじ)の丸山聡一(まるやま・そういち)さんが宮司代務者に就任した。

「冬木弁天堂」は材木商の冬木五郎右衛門直次(ふゆき・ごろうえもん・なおつぐ)が1654年に江州竹生島(滋賀県、ちくぶしま)の弁財天の分霊を日本橋茅場町の邸内にまつり、1705年に孫の冬木弥平次(ふゆき・やへいじ)が茅場町から深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置した。そのため、いまでもこの町を冬木町という。

この弁財天は、等身大の裸形弁天にして、毎年1回衣装の着替行事をおこなってきたが、1923年の関東大震災により焼失した。1870年に冬木弁天は一般に参詣を開放し、万徳院の境外仏堂となり、1955年に真言宗系の単立寺院として独立した。現在の弁天堂は1953年に再建された。尾形光琳(おがた・こうりん、1658-1716)が、冬木家に寄寓中、冬木家の妻のために描いた秋草の小袖が上野国立博物館に保存されている。

「心行寺」は1616年に京橋八丁堀寺町に創立され、開山は観智国師(かんちこくし、慈昌=じしょう、1544-1620)の高弟、光蓮社団誉一露屋道(こうれんしゃだん・よいちろ・おくどう)、開基は岩国城主の吉川監物(きっかわ・けんもつ、経幹=つねまさ、1829-1867)の室、養源院殿(ようげんいんどの)とされている。

1633年に現在地の深川寺町に移転し、「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時は間口四十二間、奥行四十二間、1764坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。旧本堂庫裡は関東大震災により焼失し、1932年に再建され、1945年3月に戦災により焼失し、現本堂は1967年に完成した。

「円珠院」は浄心寺の塔頭(たっちゅう)のひとつで、義勝院日演(ぎしょういん・にちえん、?-1741)が開山、旗本の永見甲斐守(ひみ・かいのかみ)の娘で、長崎奉行の永井讃岐守直允(ながい・さぬきのかみ・なおちか)の後室となったお寄の方(円珠院殿妙献日寄大姉、?-1730)が開基となり、創建した。江戸時代から「深川の大黒天」として知られた。

「龍光院」は1611年に日本橋馬喰町に創建され、江戸大火災でたびたび焼失し、1682年に深川の地へ移転し、鬼門除けとして境内東北角に、石造の毘沙門天が安置され、1936年には毘沙門堂が建立された。1945年に戦災のため、堂宇は焼失したが、復興し、1975年に木彫の毘沙門天が安置された。

「深川稲荷神社」は1630年の創建で、以前は旧町名の「西大工町」にちなんで「西大稲荷」と呼ばれていたが、1923年の関東大震災後の区画整理により町名が変更し、1952年ころから深川稲荷神社と呼ばれている。神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来が盛んで、付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていので、この町名が生まれたとされている。神社は、無住社で町会によって管理運営されている。

「深川神明宮」は1596年に大阪摂津の漁民だった深川八郎右衛門(ふかがわ・はちろうえもん)が一族を引き連れて移り住み、葦の生い茂る三角州の深川一帯を開拓し、まだ住む人もいないころに、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が巡視した際に深川八郎右衛門に地名を尋ねると、地名がないとわかり、徳川家康が深川八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じた。

以来、深川八郎右衛門は屋敷のうちに小さな祠(ほこら)を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神の分霊をお祀りしたのが深川神明宮の起源とされている。深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、深川氏は開拓の功績により代々深川二十七カ町の名主を務め、深川氏は1757年に7代で断絶するも、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に今も墓所が残っている。

神田山緑さんは1976年東京都中央区日本橋生まれ、敬愛大学を卒業、トヨタ自動車に入社、営業マンとして新人賞を受賞、退社後、健康食品会社を立ち上げ、代表取締役に就任し、「日本話し方センター」副所長の山越幸(やまごし・みゆき)さんに師事し、神田(かみだ)すみれさんの講談教室に通い、2005年に神田すみれさんに入門した。

2006年に講談協会「前座」、2009年9月に「二ツ目」に昇進、2011年に「日本講話塾」(講談教室)を設立している。2014年10月に中野区観光大使に就任、2015年に「ロス・プリモス」の専属司会となり、2016年4月にNHK文化センター講師、清泉女子大学特別講師を務めている。

時間は10時から16時で、10時に地下鉄東西線「門前仲町駅」に集合して、昼ころまでに終えて、お江戸日本橋亭に移り、13時30分から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。希望者は永谷商事まで電話で申し込む。

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