立川銀座で菊池正気と小山欽也が「西ノ内紙」作品展、実演も

【銀座新聞ニュース=2018年2月18日】ブラインドの最大手、立川ブラインド工業(港区三田3-1-12、03-5484-6100)は2月21日から3月4日まで銀座ショールーム(中央区銀座8-8-15、03-3571-1373)地下1階「タチカワ銀座スペースAtte」で菊池正気さんと小山欽也さんによるコラボ「西ノ内紙との出会い」展を開く。

立川ブラインドが2月21日から3月4日まで銀座ショールーム「タチカワ銀座スペースオッテ(Atte)」で開いている「西ノ内紙との出会い」展に展示される、菊池正気さんが西ノ内紙の紙漉きをしている様子。

紙漉き職人で「紙のさと和紙資料館」(茨城県常陸大宮市舟生90、0295-57-2252)館長を務める菊池正気(きくち・せいき)さんと、紙造形家で、女子美術大学名誉教授の小山欽也(こやま・きんや)さんがコラボして、300年以上の歴史がある西ノ内紙(にしのうちがみ)を使って、菊池正気さんが紙を材料にして織りあげた「紙布(しふ)」作品、小山欽也さんが紙布と、和紙をコンニャク糊で張り合わせ、着物仕立てにした「紙衣(かみこ)」などの作品約20点を展示する。

ウイキペディアによると、西ノ内紙は茨城県常陸大宮市の旧山方町(やまがたまち)域で生産される和紙で、コウゾのみを原料として漉(す)かれ、ミツマタやガンピなどが用いられていない。江戸時代には水戸藩第一の特産物となり、強じんで保存性に優れ、江戸では商人の大福帳として用いられた。

同じく展示される小山欽也さんの紙布作品。

江戸の商家では西ノ内紙で大福帳が作られるのが一般的で、火災が多く、火災の際には紐をつけた大福帳を井戸に投げ入れて後で回収した。西ノ内紙で作られた大福帳は水に濡れても一枚一枚がよくはがれ、墨書きの文字もにじむことがなかった。乾かせば元通りになり、商売上の記録の消失を防ぐことができた。水戸藩が作成した「大日本史」も西ノ内紙が使われた。その他、各藩の御用紙や、一般用途では障子、傘、提灯、罪人引廻し紙のぼり、三行半の去状に使用され、とくに三行半の去状では、西ノ内紙に書くのが武家の定法とされた。

江戸時代初期には、現在の茨城県常陸大宮市西野内に存在した旧家・細貝家が紙荷買問屋として栄え、細貝家は西野内を中心に那珂郡、久慈郡の各地から紙を買い集め、水戸藩や江戸に出荷した。細貝家から出荷された紙は水戸藩の御用紙や江戸商人の帳面紙として好評を博した。細貝家の取り扱った紙は元禄時代には「太田紙」と称されたが、後に「西ノ内紙」として知れ渡った。

細貝家は江戸前期から中期にかけての64年間紙問屋を営み、そのうち52年間は大繁盛したとされ、一時は江戸表紙商人荷買問屋、酒造業、煙草商、質貸と手広く営んでいたが、1746(延享3)年に火災に遭ってからは衰退し、1751(宝暦元)年には紙荷問屋の株を他者に譲り渡した。1688(元禄元)年9月に、紙漉き農家の保護と紙販売による利益を目的とした紙専売仕法が成立し、これにより水戸藩領内で生産された紙はすべて水戸藩が強制的に買い上げ、紙市を立てて諸国の商人に払い下げるという制度になった。

その後、水戸藩の財政は悪化し、1707(宝永4)年には水戸藩の紙専売仕法は中止され、宝永期には紙漉き人に課する税金「紙舟役」が復活した。紙専売仕法の中止後は、江戸・京都に問屋を指定し、水戸藩領内の紙を集荷して送るという制度が取られた。領内においても、紙を集荷・発送する問屋が6軒指定された。こうして水戸藩の歴代藩主は和紙生産を奨励したため、水戸藩領内での和紙生産量は次第に増加し、宝永期に行われた調査では、紙漉きを行う村の数は77にも上り、紙漉き農家は1663戸を数えた。

1790(寛政2)年の調べによると、水戸藩外売出の農産物総額9万9000両余のうち、紙だけで2万7281両を占め、紙は水戸藩第一の農産物であり、紙生産は財源としてもっとも重要なものであった。幕末になると紙漉き人の手取りは少なくなり、製品代よりも原料代が上回ることもあり、これにより紙漉き農家の生産意欲は減退し、紙の質は劣化し、西ノ内紙の生産は衰退した。

水戸藩では1864(元治元)年に天狗党の乱が起き、水戸藩領内の有力紙問屋(竹内家、小室家、薄井家)が被害を受け、後に西ノ内紙を一手に取り扱っていた薄井家が没落し、和紙の商権は烏山へ移った。このため、幕末から西ノ内紙は品質が悪くなり、天狗党の乱により問屋機能も停止し、茨城県における和紙生産は不振となり、明治になると西洋紙が導入され、和紙の需要は年々減少し、茨城県北部で生産されたコウゾは地元で消費されずに他県の和紙生産地に送られた。

1890(明治23)年7月1日に日本国初の衆議院議員選挙が行われ、西ノ内紙と程村紙が選挙用紙として指定され、その後、西ノ内紙が内務省令により選挙人名簿・投票用紙として指定された。これにより、西ノ内紙と程村紙が選挙の度に使用され、選挙がある年には紙漉き村が活況となったといわれる。西ノ内紙・程村紙は大正末期まで選挙用紙として使用された。1926(大正15)年に普通選挙法が施行され、その際に内務省第4号によって西ノ内紙は選挙用紙の指定を解かれた。

大東亜戦争が終わると、西洋紙が再び普及し、昭和20年前後に出来た和紙工場はほとんどが閉鎖され、紙漉き農家の多くも廃業し、1971年12月に茨城県教育委員会により西ノ内紙は茨城県の無形文化財に指定され、1977年6月には、文化庁長官により西ノ内紙と菊池正気さんが「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財(選択無形文化財)」に選択された。1976年5月に国道118号沿いに「紙のさと和紙資料館」が開館している。

菊池正気さんは1945年茨城県生まれ、1963年より家業の西ノ内紙の紙漉きに入り、3目として伝統技法を継承し、文化庁「紙布講座」講師を務め、1988年に国際交流基金の助成で、アメリカ各地の大学で和紙の紹介を行うなど国際交流も行っている。

小山欽也さんは1946年茨城県生まれ、1970年に東京造形大学デザイン学科を卒業、凸版印刷に入社し、日本デザイン専門学校講師などを経て、女子美術大学芸術学部アートデザイン表現学科教授を務め、現在、よみうりカルチャー講師を務める。新しい和紙のアートな試みにより作品を制作し、1993年にサンフランシスコ和紙工芸展に出展するなど国内外で多くの作品を公開している。

24日、25日、3月3日、4日に紙布と紙衣のワークショップを開く。先着10人程度で、参加費は無料。

開場時間は10時から18時(最終日は16時)。26日は休み。