リコー画廊で秋山、植田、杵島「ソフト描写」展、ベス単外しも

【銀座新聞ニュース=2018年2月19日】大手情報機器メーカーのリコー(中央区銀座8-13-1、03-6278-2111)グループのリコーイメージング(大田区中馬込1-3-6)が運営するギャラリー「リコーイメージングスクエア銀座」(中央区銀座5-7-2、三愛ドリームセンター、03-3289-1521)は2月21日から4月1日まで8階ギャラリーゾーン「A.W.P」で「ソフト描写の巨匠たち-秋山庄太郎×植田正治×杵島隆」を開く。

リコーイメージングスクエア銀座で2月21日から4月1日まで開かれる「ソフト描写の巨匠たち」で展示される秋山庄太郎の作品((C)Shotaro Akiyama)。

ソフト描写は非現実的な世界を作家独自の視点で創造していく点で興味深いテーマで、そうした手法の巨匠、秋山庄太郎(あきやま・しょうたろう、1920-2003)、植田正治(うえだ・しょうじ、1913-2000)、杵島隆(きじま・たかし、1920-2011)の3人の作品37点で構成展示する。とくに、今回は植田正治の「白い風」のビンテージプリントを展示する(非売品)。

レンズが高解像度を追求する一方、ストレートに写すだけでなく、ソフト描写による表現に多くの写真家が取り組む中、「ベス単のフード外し」によるソフト描写が考案され、植田正治がその手法で「白い風」を発表し、多くの写真家に影響を与えた。

同じく植田正治の作品((C)Shoji Ueda)。

その後、ソフト描写のためのソフトレンズが登場し、秋山庄太郎はソフトレンズによる「花」の作品を発表し、写真界にソフトブームを巻き起こした。杵島隆は古くよりソフト描写に取り組んできた作家のひとりで、今回は中判カメラのソフトレンズによる作品で、そのほとんどが初公開となる、写真展では「心象風景」を和紙によるプリントで展示する。

「アートスケープ」によると、1912年にアメリカ・イーストマン・コダック社が発売したベスト判(4?6.5センチ)フォーマットの写真を作るカメラ「ヴェスト・ポケット・コダック(Vest Pocket Kodak)」のうち、単玉レンズ付きのものを「ベス単」という。ヴェスト・ポケット・コダックはコダック社としては初の金属製ボディのカメラで、大量生産に向き、しかも軽量・小型の扱いやすいカメラで、広く一般に人気を呼んだ。

同じく杵島隆の作品((C)Takashi Kijima)。

日本にも輸入され、とくに単玉レンズ付きのモデルは、ヴェスト・ポケット・コダックのなかでももっとも安価で、フィルム1本の単価も、それまでのブローニー判(6?9センチ)よりも安かったことから、入門者用のスナップ・カメラとして、アマチュア層を中心に高い人気を博した。

また、日本独自の現象として、ベス単の絞りを規定値より大きめに設定することで、ソフトフォーカス効果を生みだす「ベス単フードはずし」と呼ばれる方法や、フードの穴を削って同様のソフトフォーカス効果を作りだす手法が流行し、ベス単人気を後押しした。こうした日本におけるベス単の独特の手法は、芸術写真の制作における重要な技法のひとつとなり、ベス単を用いて制作を行なう作家たちに対する「ベス単派」という呼称も生まれた。ヴェスト・ポケット・コダックは1926年に製造が中止されている。1925年までに180万台が販売された。

また、市場でベス単が求めにくくなったことから、1986年に清原光学がこのレンズと同一の構成で「VK70R」という70ミリF5レンズを発売し、誰もが「ベス単フード外し」の描写を簡単に楽しめるようになった。さらに、このレンズが24×36ミリ(ライカ)判で風景写真を撮影するには少し望遠過ぎるということで、1987年に広角化された50ミリF4.5の「VK50R」が追加され、ケンコーからも同様のMCソフト45ミリF4.5レンズが発売されている。

秋山庄太郎は1920年6月8日東京市神田区(東京都千代田区)生まれ、1943年に早稲田大学商学部を卒業、東京田辺製薬に入社、この年に召集され、中国の戦地に赴いた。戦後の1947年に近代映画社写真部に勤務、女優の原節子(はら・せつこ、1920-2015)番カメラマンとして活躍し、1950年に日本写真家協会の創立会員、1951年にフリーとなり、女優のポートレートを多く手がけ、「讃婦人科」や「女性専科」の異名をとる。1953年に二科会写真部の創立会員、1958年に日本広告写真家協会創立会員となった。

雑誌の表紙、グラビアの連載では一時、十数誌を同時に担当し、1960年のヨーロッパ外遊後は写真芸術としての花をライフワークとし、写真愛好家育成に携わるとともに、アサヒペンタックスの撮影機器技術開発に協力した。1971年に秋山写真工房を設立し、社長に就任し、1979年に日本写真専門学院院長、2002年に写真芸術振興と福祉支援を目的に「秋山庄太郎『花』写真コンテスト」を創設、現在も継続している。1986年に紫綬褒章、1993年に旭日小綬章を受章した。2003年1月16日に写真賞選考会場で急逝した。2007年に本人の遺志により東京・南青山のアトリエを改装、「秋山庄太郎写真芸術館」を設立している。

植田正治は1913年3月27日鳥取県西伯郡境町(現堺港市)生まれ、1932年に上京し、オリエンタル写真学校で学び、郷帰後、19歳で営業写真館を開業しながら写真雑誌の月例コンテストで頭角を現す。1937年に中国写真家集団創立同人、1947年に銀龍社に参加し、1954年に第2回二科賞、1975年に第25回日本写真家協会賞年度賞、九州産業大学教授(待遇)に就任し、1994年まで務めた。

1978年と1987年にフランスのアルル・フォト・フェスティバルに招待され、1993年に東京で大規模回顧展を開催、生涯「アマチュア写真家」と称して山陰の地で写真家として活動し、なかでも砂浜や砂丘を舞台にした演出写真は「植田調」と呼ばれ、国際的に高い評価を得た。1995年に鳥取県西伯郡岸本町(現伯耆町)に植田正治写真美術館を開館、1996年にフランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ、1998年に第1回鳥取県県民功績賞、2000年7月4日に死去した。

杵島隆は1920年12月24日アメリカ・カルフォルニア州カレキシコ生まれ、1924年に帰国し、鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の杵島家を継ぐ、その後、東宝映画株式会社の委託学生として入学した日本大学芸術学部映画学科を卒業、1943年に日本国籍を取得、第13期飛行専修予備学生に志願し、三重海軍航空隊に入隊した。1945年に除隊後帰郷し、1947年に米子市で開いた個展で植田正治に認められ、1948年に植田正治に師事し、写真雑誌の月例に投稿し入賞を重ね、1950年にアルスカメラ誌上で特選となった「老婆像」にて土門拳(どもん・けん、1909-1990)に認められた。

1953年に上京し、「ライト・パブリシティ」に入社、1955年にフリーとなり、1956年に「キジマスタジオ」を設立、広告写真家として活躍し、秋山庄太郎、稲村隆正(いなむら・たかまさ、1923-1989)らが結成した「キネグルッペ」などの活動に参加し、1958年に個展「裸」を発表し、話題となる。広告写真やファッション写真で活躍する一方、歌舞伎や文楽などの伝統芸能を撮影し、1971年に旧三和銀行「アニュアル・レポート」国際賞を受賞、1976年に日本写真協会年度賞、1985年に国展で「野島賞」、1991年に勲四等瑞宝章、1998年に東京写真文化館館長、2001年に日本写真協会功労賞、2011年2月20日に逝去した。

開場時間は11時から19時(最終日は16時)。毎週火曜日が定休。入場料は510円(税込)。

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