東京メトロが銀座線に桜電車、花見場所も紹介

【銀座新聞ニュース=2018年3月9日】国(財務大臣53.42%)と東京都(46.58%)が出資する日本最大手の地下鉄会社、東京地下鉄(東京メトロ、台東区東上野3-19-6、03-3837-7077)は3月12日から4月8日まで「東京メトロに乗って桜を見に行こう!!」キャンペーンを実施する。

3月12日から4月8日まで運行される銀座線の「桜トレイン」のイメージ図。

ビール最大手のアサヒビールの協賛で、東京メトロ沿線に花見スポットを紹介し、花見をきっかけに東京メトロ沿線の魅力をより感じてもらうのが目的で、東京メトロ各駅のラックに「東京お花見ガイド」を設置し、期間中、浅草駅と渋谷駅間を走行する銀座線(14.3キロ、19駅、軌間1435ミリの標準軌)1000系特別仕様車1編成の内装を桜に装飾した「桜トレイン」を運行する。

ウイキペディアによると、「花見」は奈良時代(710年から794年)の貴族の行事が起源とされている。奈良時代に中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、平安時代(794年から1185年)に桜に代わった。それは歌に現われ、「万葉集」には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられるが、10世紀初期の「古今和歌集」ではその数が逆転し、桜が70首に対し、梅が18首に減っている。当時は「花」が桜の別称として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からといわれている。

「日本後紀」(840年に完成)には、嵯峨天皇(さが・てんのう、786-842)が812年3月28日(弘仁3年2月12日)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとある。時期的に花は桜が主役であり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。811(弘仁2)年に嵯峨天皇は地主神社の桜を気に入り、以降神社から毎年桜を献上させたとされ、当時、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる。831(天長8)年からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は「源氏物語」(1008年ころに完成)の「花宴(はなのえん)」にも描かれている。

また、11世紀後半に成立したとされる「作庭記」では「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代において桜は庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山もこのころ誕生したと考えられている。

鎌倉・室町時代(1185年から1573年)には貴族の花見の風習が武士階級にも広がり、吉田兼好(よしだ・けんこう、1283-1352)は「徒然草」(1330年から1331年ころに完成)第137段で、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いを説いている。わざとらしい風流振りや騒がしい祝宴に対して冷ややかな視線であるが、「徒然草」が書かれた鎌倉末期から室町初期の頃にはすでに地方でも花見の宴が催されていたことがわかる。

織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される。この時期の大規模な花見は、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)が行った「吉野の花見」(1594年)や「醍醐の花見」(1598年4月20日)がある。花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代といわれる。

このころ桜の品種改良も盛んになり、江戸でもっとも名高かった花見の名所が忍岡(しのぶがおか)で、天海(てんかい、1536-1643)によって植えられた上野恩賜公園の桜である。しかし、格式の高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことは許されてなかったので、1720(享保5)年に徳川吉宗(とくがわ・よしむね、1684-1751)が浅草(墨田川堤)や飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励した。

徳川吉宗は1685(貞享2)年からはじまった「生類憐れみの令」以降、途絶えていた鷹狩を復興させる際、鷹狩が農民の田畑を荒すことへの対応策として、鷹狩の場に桜の木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとったとされている。

明治に入ると桜が植えられていた庭園や大名屋敷は次々と取り壊されて桜も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕したが、駒込の植木職人・高木孫右衛門(たかぎ・まごうえもん)はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886(明治19)年には荒川堤の桜並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着した。78種が植栽された荒川の桜は各地の研究施設に移植されて品種の保存が行なわれ、全国へ広がった(1912年に日米友好の印として荒川の桜の苗木3000本がワシントンDCに贈られ、ポトマック川畔に植栽された)。

桜(ソメイヨシノ)は、日本全国に広く見られる樹木で、花は春の一時期に、ある地域で一斉に咲き競い、わずか2週間足らずで散るため、日本人の季節感を形成する重要な風物となっている。可憐な花の美しさが開花期間の短さ、散り際の豪華さによりいっそう印象づけられ、しばしば人の命のはかなさになぞえられている。

花見の席では花見弁当を持参し、花を見ながら飲む酒は「花見酒」と呼ばれ、陰陽道では、桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈されている。この風習は、アジアや欧米などの国にも広がっている。

銀座線は東京地下鉄道が1925(大正14)年に着工し、1927(昭和2)年12月30日金曜日の浅草と上野間で営業を開始した日本で最初の地下鉄で、当初は乗車時間がわずか5分の区間に乗るため、2時間待ちの行列ができたという。1934(昭和9)年までに上野と新橋間が全通した。当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線となっている。

渋谷と新橋間は目黒蒲田電鉄系の「東京高速鉄道」により建設、運営され、1939(昭和14)年までに全通し、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始された。1941(昭和16)年7月に、両社は国策で設立された特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に統合された。1945年1月27日に行われたアメリカ軍による空襲時には、銀座駅や京橋駅などが被害を受けた。

1946年に修復が完了し、全線の運行が再開され、1949年には新型車両が導入され、1954年に丸ノ内線が開業する前年の1953年には、当線に「銀座線」の名称が付与され、2004年4月1日の営団の民営化に伴う「東京地下鉄」の発足に際しては、上野駅で発車式が行われた。

東京地下鉄(東京メトロ)の路線では丸ノ内線と銀座線のみが標準軌(線路の軌間、レール頭頂部の内側の間隔が1435ミリで新幹線も同じ、国鉄等狭軌が1067ミリ)で、「第三軌条集電方式」を採用しているため、駅進入部にデッドセクションが存在し、一部の車両では駅到着直前に室内灯が消灯し、代わりにバッテリー電源の非常灯が点灯していた。

また、前照灯も消灯し、扇風機の電源も切れた。現在、運用されている車両には引き通し線が装備されており、デッドセクション通過時も停電することはなくなったが、狭軌と架空電車線方式を採用している他社路線との直通運転は、形態的に困難なため、丸ノ内線と銀座線では実施されていない。

浅草通りから中央通り、外堀通り、青山通りの地下を通って、浅草、上野、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、溜池、赤坂、青山、外苑前、表参道、渋谷といった東京都心のほとんどの繁華街やビジネス街を走る路線のため、利用客が多く、日中でも3分に1本の割合で運転されている。

銀座線の「桜トレイン」は車両運用の関係上、運行しない日があり、運行時間も毎日異なる。