M84でクレルグ、ギーヨが撮影したコクトー展

【銀座新聞ニュース=2018年3月19日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル5階、03-3248-8454)は3月19日から4月21日まで「ジャン・コクトー『オルフェの遺言』『悲恋』」を開いている。

アートギャラリーエムハッシー(Art Gallery M84)で4月21日まで開かれている「ジャン・コクトー『オルフェの遺言』『悲恋』」に展示されている写真「ジャン・コクトー(Jean Cocteau)」(The testament of Orpheus (C)Photo by Lucien Clerque/G.I.P.Tokyo)。

詩人、小説家、劇作家、画家、映画監督、脚本家として知られるジャン・コクトー(Jean Cocteau、1889-1963)が監督し、自ら出演した映画「オルフェの遺言-私に何故と問い給うな」(1960年)の撮影に、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)の紹介で参加した写真家のルシアン・クレルグ(Lucien Clergue、1934-2014)が南フランスでの40日間以上にわたるロケで、コクトーの動きを自由に撮り、コクトーの芸術の創作力、マジックを身近に体験した、コクトーの幻想映像を写したゼラチンシルバープリント作品を紹介する。

また、コクトーが原作と脚本を手がけた映画「悲恋(レテルネル・レトゥール=L’eternel retour)」(1943年)では、フランスの1930年代から1940年代にかけて活躍した写真家であり、2013年にパリのジュ・ド・ポーム美術館で大規模な回顧展で再評価されたロール・アルバン=ギーヨ(Laure Albin Guillot、1879-1962)が撮影した当時のコクトーを撮影した写真を、エリオグラヴュール技法によるプリントで、合わせて36点展示する。

さらに、コクトーが生前にパリのムルロ工房で制作した4点のオリジナルリトグラフ(石版画)も展示する。コクトーの資産管財人で、コクトーのパートナーで、俳優、画家のエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit、1925-1995)から入手した珍しい作品で、コクトーの独特の世界観に触れられる。

同じく展示されている写真「ジャン・コクトー(Jean Cocteau)」(The eternal return(C)Photo by Laure Albin-Guillot/G.I.P.Tokyo)。

ルシアン・クレルグは1934年南フランス・アルル生まれ、1950年代後半よりピカソ、ジャン・コクトーの知己を得、1953年にアルルの闘牛場でパブロ・ピカソを撮った時より写真家としてスタートし、1956年に「波のヌード」作品で脚光を浴び、1957年にピカソが表紙をデザインした作品集「記憶される肉体」を出版、1961年に15本の短編映画と2本の中編映画を制作、ピカソの晩年30年間を描いた「ピカソ、戦争、愛と平和」で評価される。

1970年代にアルル写真フェスティバル創立者の一人で、ディレクターとして活動し、1980年に写真貢献者としてフランス国家の名誉顕彰、シュバリエ賞を受け、2014年11月に逝去した。

ロール・アルバン=ギーヨは1879年パリ生まれ、1897年に顕微鏡検査の専門家アルバン・ギーヨ(Albin Guillot)博士と結婚し、1922年にヴォーグのフランス語版で最初のファッション写真を公開し、1925年から発表した作品に「Laure Albin Guillot」と署名した。

1929年に夫の死亡後、コクトーらの指示により、大通りボーセジュールに移り、1931年にフランスで最初に科学を視覚芸術と組み合わせた装飾的な顕微鏡画像を撮影し、1931年に女性専門家の利益を支える組織「女性自由貿易連合」の会長、1932年に美術庁総司令官や国の映画館などのトップに任命され、1962年2月にパリのサン・アントワーヌ病院で死亡した。

「TARO’S CAFE」によると、エドゥアール・デルミットはコクトーの死後、パートナーだったことからコクトーの遺言によりコクトーの包括受遺者となり、コクトーはデルミットの死後、著作権と著作者人格権双方を(Jean Marais、1913-1998)に移譲し、マレーの死後は双方をコクトーの友人・パトロンだったフランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Flancine Weisweiler、1916-2003)の娘キャロル・ヴァイスヴァイラー(Carole、1942年生まれ)さんに移譲するよう指定した。

ところが、ジャン・マレーがこの相続を拒否したため、デルミットは遺書で著作権継承者として息子のステファーヌ・デルミット(Stephane Dermit)を、人格権継承者としてデルミットが使っていたコクトーのデッサン鑑定家のアニー・ゲドラ(Annie Gedora)を指定した。

その後、デルミットは数日後に遺言補足書を付加し、こんどはデルミットと親しく、しかもイヴ・サンローラン(Yves Saint-Laurent、1936-2008)のパートナーだったピエール・ベルジェ(Pierre Berge、1930-2017)を人格権継承者に指定し直し、ゲドラは独占鑑定権利者とされた。1995年にデルミットの死後、関係者によって話し合われ、著作権はステファーヌ・デルミットさん、人格権はベルジェ(人格権管理費用として著作権料の30%を受け取る)がそれぞれ独占継承し、ゲドラはコクトーのグラフィック作品の独占鑑定人とされた。

ゼラチンシルバープリント(Gelatin silver print)は19世紀末に発明され、今日でも普通に使われている白黒写真の印画紙の総称である。最近は、デジタルカメラで撮影した画像をモノクロに変換して反転したものをインクジェットプリンターで製版フィルムに出力してネガとし、アナログの印画紙にプリントしたものをいう。

モノクロームの写真制作は、光が生み出すシーンを漆黒の黒からハイエストライトまでの階調をどのように表現するかにあり、その制作における銀塩写真の醍醐味は作品の強さと、美しさにあるとされている。

徳島県立近代美術館によると、エリオグラヴュール(heliogravure、フォトグラヴュールとも)技法は版画技法で、手づくりによる写真製版の技法であり、19世紀前半のヨーロッパで、巨匠の版画などの複製をつくる目的で用いられた凹版技法である。1878年に開発されたグラビア印刷の登場によって、とって代わられた。

磨いた銅板の上にアスファルトの粉末をアクアチントと同じように敷き、溶かした上に、重クロム酸カリのゼラチン乳液をおく。次に、透明あるいは中間調の図版フィルムを通して露光する。原画のもっとも明るい部分は、乳剤がもっとも固い部分になり、腐食されずに明るい画面をつくる。ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault、1871-1958)は、この技法によってパステルなどの原画を銅版へ移した後、さらにアクアチントやドライポイントによって手を加えるという銅版画の手法を使った。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)。入場料は700円。日曜日は休み。展示されている作品はすべて販売する。