新橋演舞場で「東をどり」、新橋芸者が踊り、料亭が料理

【銀座新聞ニュース=2018年5月19日】東京新橋組合「東をどり実行委員会」(中央区銀座8-6-3、新橋会館、03-3571-0012)は5月24日から27日まで新橋演舞場(中央区銀座6-18-2)で新ばし花柳界による「第94回東をどり」を開く。

5月24日から27日の4日間、新橋演舞場で開かれる「第94回東をどり」。画像は過去の東をどりで踊りを披露する新ばし芸者衆(写真は公文健太郎)。

東京新橋組合に所属する料理茶屋と新ばし芸者が毎年、この時期に新橋演舞場を料亭に見立て、文化を遊ぶというもので、新ばい芸者の踊りと、料亭の味を楽しむ場となっている。

また、新ばし芸者は「花柳流」(家元は花柳寿輔=はなやなぎ・じゅすけ=さん)、「西川流」(家元は西川左近=にしかわ・さこん=さん)、「尾上流」(家元は尾上菊之丞=おのえ・きくのじょう=さん)の3つの流派の家元に指導を受けており、東をどりの総合演出も年ごとにひとつの家元に委ねており、今年は西川流の西川左近さんが担当している。

今回は「古典で見せる新橋の芸」で2部構成になっており、それぞれ2幕から3幕の演技を披露する。第1部が「これが新橋長唄尽し」とし、最初の「君が代松竹梅」(長唄)は振付が尾上菊之丞さんが手がけ、若手10人が幕開きにふさわしい演技を見せる。出演する芸者は君千代(きみちよ)さん、のりえさん、きみ鶴(きみづる)さん、清乃(きよの)さん、ちよ美(ちよみ)さん、小福(こふく)さん(25日と27日は小花=こはな=さん)、ぼたんさん、たまきさん、小優(こゆう)さん、春千代(はるちよ)さん。

同じく「東をどり」で販売される「味を競う陶箱 松花堂弁当」(税込6000円)。画像は2017年に販売された松花堂弁当。

続いて「雪月花」(長唄)で、構成振付が花柳寿応(はなやなぎ・じゅおう)さん、指導が花柳寿輔(はなやぎ・じゅすけ)さんで、1935年に初演された「しっとりした雪、粋な風情の月、派手に賑やかな花という変化に富んだ舞台」という。出演する芸者は「雪」は静香(しずか)さん。「月」はあやさん、七重(ななえ)さん、喜美弥(きみや)さん。「花」が加津代(かつよ)さん(25日と27日は小喜美=こきみ=さん)、今千代(いまちよ)さん(25日と27日は三重子=みえこ=さん)、喜美勇(きみゆう)さん(25日と27日は秀千代=ひでちよ=さん)、千代加(ちよか)さん(25日と27日はくに龍=くにりゅう=さん)。

第2部は「これぞ新橋清元尽し」とし、フィナーレ以外の3幕とも西川左近さんが振付を担当し、「吉田屋」(清元)は歌舞伎でお馴染みの夕霧と伊左衛門の吉田屋座敷での恋のやりとりの場面で、こたつくどきなど恋模様が見どころとしている。出演する芸者は「伊左衛門」が民(たみ)さん、「夕霧」が三重子さん(25日と27日は喜美勇さん)。

続いて「女車引」(清元)は「菅原伝授」の車引の松王、梅王、桜丸を女房の千代、春、八重で見せるもので、駆け出しから踊り地まで陽気で明るい舞台としている。出演する芸者は「千代」が秀千代さん(25日と27日は今千代さん)、「春」がくに龍さん(25日と27日は千代加さん)、「八重」がきみ鶴さん(25日と27日はのりえさん)。

次が「幻椀久」(清元)で、1925年の東をどりで初演されたものを再演し、豪遊の果てに身を持ち崩した椀屋久兵衛が松山太夫恋しさに物狂いを見せるという内容で、踊り手の力量の要る演目としている。出演する芸者は「椀屋久兵衛」が小いくさん、「松山」が小喜美さん(25日と27日は加津代さん)。

最後が「口上/フィナーレ」で2代目西川鯉三郎(にしかわ・こいざぶろう、1909-1983)が1951年に吉原に出向き「お宅の『さわぎ』を東をどりの舞台で踊らせてほしい」と要望し、当時の吉原組合の正式な許可を得て、歌詞を替えて作られた東をどりの名物とされている。このため、構成と振付も当時の2代目西川鯉三郎が担当したものを再現している。長唄では唄が照代(てるよ)さん、小玉(こたま)さん、三味線が晶子(あきこ)さん、ゆいさん。清元では浄瑠璃が多賀子(たかこ)さん、清葉(きよは)さん、三味線が美葉(みは)さん、ゆめさん、小雪(こゆき)さん。

現存するおもな「新橋」の料亭としては、「青柳」(中央区銀座8-18-7)、「金田中」(中央区銀座7-18-7)、「吉川」(中央区銀座8-16-6)、「東京吉兆本店」(中央区銀座8-17-4)、「小すが」(中央区築地2-11-5)、「新喜楽」(中央区築地4-6-7)、「立花」(中央区築地4-1-8)。

「松山」(中央区銀座7-16-18)、「やま祢」(中央区銀座7-15-7)、「吉田」(中央区銀座6-16-3)、「米村」(中央区銀座7-17-18)、「わのふ(wanofu)」(中央区築地4-2-10)などがある。

また、今回の「第93回東をどり」では、「味を競う陶箱 松花堂弁当」(税込6000円)は東京吉兆、新喜楽、金田中、米村、松山の5軒が日替わりで味を競う。「料亭の鮨折」(2000円)は東京吉兆、新喜楽、金田中、米村、わのふの5軒が話し合って内容を決めている。「東をどり桟敷膳」(2万2000円)は金田中が担当し、桟敷席と食事を合せた特別鑑賞券(26日と27日の壱の席のみ)として販売される。

東京新橋組合によると、「東(あずま)をどり」とは、明治の頃、芸能を街の色に決めた新ばし芸者は一流の師匠を迎えて踊りと邦楽、技芸をみがき、やがて「芸の新橋」といわれるようになり、新橋演舞場で第1回の東をどりを公演し、大東亜戦争でレンガの壁を残して焼けた演舞場は戦後の復興の中で、「東をどり」の舞踊劇の脚本として、吉川英治(よしかわ・えいじ、1892-1962)、川端康成(かわばた・やすなり、1899-1972)、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886-1965)、井上靖(いのうえ・やすし、1907-1991)、川口松太郎(かわぐち・まつたろう、1899-1985)らが書いた。

女だけの舞踊劇、台詞の稽古などしたことのない芸者衆の舞台は大きな挑戦で、そうした中でまり千代(まりちよ、1908-1996)というスターが現れる。1948年に戦後復活の東をどりで、男役を務め、凛々しい踊りの名手として「まり千代ブーム」を巻き起こし、東をどりは春秋のふた月の興行となった。

ウイキペディアによると、花街としての「新橋」は、現在の中央区銀座における花街で、昔から「芸の新橋」と呼ばれ、日本各地の花柳界からも一目置かれている。1857(安政4)年に現在の銀座8丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりといわれている。

当時、新橋の芸者(芸妓)の「能楽太夫(のうがくだゆう)」(芸妓の最高位)の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれ、「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで並んでいた。

明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「新柳二橋(しんりゅう・にきょう)」と称し、人気の花街となり、明治期に新政府高官が新橋をひいきにして集い、伊藤博文(いとう・ひろふみ、1841-1909)の愛人「マダム貞奴(まだむ・さだやっこ、1871-1946)」、板垣退助(いたがき・たいすけ、1837-1919)の愛人「小清(こせい、後に板垣清子、1856-1874)」、桂太郎(かつら・たろう、1848-1913)の愛人「お鯉(おこい、1880-1948)」らが知られている。また、殺人事件で知られた「お梅(おうめ、1863-1916)」は金春芸者の中ではもっとも有名だった。

大正期になると芸者の技芸の向上に取り組み、1925(大正14)年に新橋演舞場のこけら落とし公演として「東をどり」を初演した。1926(大正15)年度の花柳名鑑によると、今の中央区(当時の京橋区、日本橋区)に組合の事務所を置く芸妓屋は、新橋(当時は京橋区竹川町)、柳橋(日本橋区吉川町)、葭町(日本橋区住吉町)、新富町(日本橋区新富町)、日本橋(日本橋区数寄屋町)、霊岸島(京橋区富島町)と5つあった。

昭和中期には最盛期を迎え、芸者約400人を擁し、高度経済成長期、石油ショック以後には料亭、芸者数が減り、2007年には料亭12軒、芸者70人に減っている。

新橋演舞場は1922(大正11)年に当時の「新橋芸妓協会」が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立し、1925年に大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設され、3階建て、客席数1679席、こけら落しとして「第1回東をどり」が開かれた。銀座にありながら「新橋」と名付けられたのは、新橋芸者の技芸向上を披露する場とされたためという。

開始時間は24日と25日は昼が13時、夜が15時50分の2回。26日と27日は壱の席が11時30分、弐の席が13時40分、参の席が15時50分と3回。料金は桟敷席9000円、1階席7500円、2階正面席と右席6000円、2階左席と3階席2500円。

注:「花柳寿応」の「寿応」と「花柳寿輔」の「寿」は正しくは旧漢字です。