資生堂パーラーで「東をどり」パフェと新橋色ソーダ

【銀座新聞ニュース=2018年5月18日】国内最大の化粧品メーカーの資生堂(中央区銀座7-5-5、03-3572-5111)グループの資生堂パーラー(中央区銀座8-8-3、0120-471-004)は5月8日から27日まで銀座本店サロン・ド・カフェ(中央区銀座8-8-3、東京銀座資生堂ビル、03-5537-6231)で「東をどりパフェ」などを提供する。

資生堂パーラーが銀座本店サロン・ド・カフェで「第94回東をどり」を記念して、5月27日まで提供している「東をどりパフェ」。

5月24日から27日まで新橋演舞場(中央区銀座6-18-2)で開かれる新ばし花柳界による祭り「第94回東(あずま)をどり」にちなんで、資生堂パーラーが新橋芸者の粋な振る舞いをただよわせるデザートを仕立て、「東をどりパフェ」(税込1980円)と「新橋色のアイスクリームソーダ」(1130円)を提供する。

「東をどりパフェ」は東をどりの和の雰囲気を静岡県産の抹茶「霧の音」を使って表現し、お茶の味わいを楽しめるシャーベットとアイスクリーム、伝統のバニラアイスクリームの味わいをメインに、きな粉のわらび餅や白玉、フルーツを入れることで、食感や彩りも豊かに仕上げている。

「新橋色のアイスクリームソーダ」は明治後期、新橋の芸者たちが青緑色の着物を好み、それが世間にも流行したことから「新橋色」として呼ばれた。その色調を青りんご風味のシロップとレモン、ジンジャーエールで表現し、伝統のバニラアイスクリームを浮かべた。

同じく提供している「新橋色のアイスクリームソーダ」。

ウイキペディアによると、花街としての「新橋」は、現在の中央区銀座における花街で、昔から「芸の新橋」と呼ばれ、日本各地の花柳界からも一目置かれている。1857(安政4)年に現在の銀座8丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりといわれている。

当時、新橋の芸者(芸妓)の「能楽太夫(のうがくだゆう)」(芸妓の最高位)の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれ、「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで並んでいた。

明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「柳新二橋」と称し、人気の花街となり、明治期に新政府高官が新橋をひいきにして集い、伊藤博文(いとう・ひろふみ、1841-1909)の愛人「マダム貞奴(まだむ・さだやっこ、1871-1946)」、板垣退助(いたがき・たいすけ、1837-1919)の愛人「小清(こせい、後に板垣清子、1856-1874)」、桂太郎(かつら・たろう、1848-1913)の愛人「お鯉(おこい、1880-1948)」らが知られている。また、殺人事件で知られた「花井お梅(はない・おうめ、1863-1916)」は金春芸者の中ではもっとも有名だった。

大正期になると芸者の技芸の向上に取り組み、1925(大正14)年に新橋演舞場のこけら落とし公演として「東をどり」を初演した。1926(大正15)年度の花柳名鑑によると、今の中央区(当時の京橋区、日本橋区)に組合の事務所を置く芸妓屋は、新橋(当時は京橋区竹川町)、柳橋(日本橋区吉川町)、葭町(日本橋区住吉町)、新富町(日本橋区新富町)、日本橋(日本橋区数寄屋町)、霊岸島(京橋区富島町)と5つあった。

昭和中期には最盛期を迎え、芸者約400人を擁し、高度経済成長期、石油ショック以後には料亭、芸者数が減り、2007年には料亭12軒、芸者70人に減っている。

新橋演舞場は1922(大正11)年に当時の「新橋芸妓協会」が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立し、1925年に大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設され、3階建て、客席数1679席、こけら落しとして「第1回東をどり」が開かれた。銀座にありながら「新橋」と名付けられたのは、新橋芸者の技芸向上を披露する場とされたためという。

現存するおもな「新橋」の料亭としては、「青柳」(中央区銀座8-18-7)、「金田中」(中央区銀座7-18-7)、「吉川」(中央区銀座8-16-6)、「東京吉兆」(中央区銀座8-17-4)、「小すが」(中央区築地2-11-5)、「新喜楽」(中央区築地4-6-7)、「立花」(中央区築地4-1-8)。

「松山」(中央区銀座7-16-18)、「やま祢」(中央区銀座7-15-7)、「吉田」(中央区銀座6-16-3)、「米村」(中央区銀座7-17-18)、「わのふ(wanofu)」(中央区築地4-2-10)などがある。

今回の「第94回東をどり」では、新喜楽、金田中、東京吉兆、松山、米村の5軒が手を合わせ、のれんをかけて競う「松花堂弁当」(6000円)と東京吉兆、新喜楽、金田中、米村、わのふの5軒が協力してつくりあげた「鮨折」(2000円)が販売される。

東京新橋組合によると、「東をどり」とは、明治の頃、芸能を街の色に決めた新ばし芸者は一流の師匠を迎えて踊りと邦楽、技芸をみがき、やがて「芸の新橋」といわれるようになり、新橋演舞場で第1回の東をどりを公演し、大東亜戦争でレンガの壁を残して焼けた演舞場は戦後の復興の中で、「東をどり」の舞踊劇の脚本として、吉川英治(よしかわ・えいじ、1892-1962)、川端康成(かわばた・やすなり、1899-1972)、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886-1965)、井上靖(いのうえ・やすし、1907-1991)、川口松太郎(かわぐち・まつたろう、1899-1985)らが書いた。

女だけの舞踊劇、台詞の稽古などしたことのない芸者衆の舞台は大きな挑戦で、まり千代(まりちよ、1908-1996)というスターが現れる。1948年に戦後復活の東をどりで、男役を務め、凛々しい踊りの名手として「まり千代ブーム」を巻き起こし、東をどりは春秋のふた月の興行となった。

現在は東をどりは5月の4日間のみで、新橋演舞場を料亭に見立て、文化を遊ぶというもので、新ばい芸者の踊りと、料亭の味を楽しむ場となっている。

営業時間は11時30分から21時(日曜日、祝日は20時)。