「東をどり」明日から、リハーサルに新橋芸者衆総出

【銀座新聞ニュース=2018年5月23日】東京新橋組合「東をどり実行委員会」(中央区銀座8-6-3、新橋会館、03-3571-0012)は5月23日午後、24日から27日まで新橋演舞場(中央区銀座6-18-2)で開く新ばし花柳界による「第94回東をどり」のリハーサルをメディアに披露した。

「東をどり」の第2幕の1幕目の「吉田屋」。男も芸者衆が演じている。生の清元と長唄が背後に流れており、宝塚と違って演技者は踊りだけでセリフがないので、艶めかしい場面でも、艶っぽさがない。

「東(あづま)をどり」は第1幕が「これが新橋長唄尽し」、第2部が「これぞ新橋清元尽し」の2部構成で、23日はメディアの前で第2幕を新橋芸者衆が総出でリハーサルを行った。

1幕目が「吉田屋」で大坂新町にある廓の吉田屋に、放蕩の果てに勘当された紙衣(紙の着物)姿の伊佐衛門が、恋人の大夫の扇屋夕霧を訪ねてくる場面だ。清元衆の演奏と長唄の前で、伊佐衛門姿と夕霧が艶(あで)やかに演じている。

2幕目が「女車引」で、「菅原伝授手習鑑」3段目の「車引の場」の松王、梅王、桜丸を、それぞれの女房に置き換えるという趣向で、江戸時代から吉原での年中行事の「仁和賀(にわか)」で踊られてきた。

2幕目の「女車引」。筋を知らないと、踊りを理解しづらい。

3幕目が「幻椀久」で、豪商の椀屋久兵衛(椀久)が新町の傾城(けいせい)松山と深い仲になり、豪遊を続け、ついには座敷牢に閉じ込められてしまっても、松山が忘れられず、牢を抜け出して、松山を探して彷徨(さまよ)い歩く姿を踊りにしたもので、狂気した椀久が松の木を見ても松山と思うほどに狂いが高じてしまった姿を描いている。

最後がフィナーレで、出演した芸者衆全員が黒の着物姿で舞台に出て、御礼のあいさつをした。

東京新橋組合によると、「東をどり」とは、明治の頃、芸能を街の色に決めた新ばし芸者は一流の師匠を迎えて踊りと邦楽、技芸をみがき、やがて「芸の新橋」といわれるようになった。新橋演舞場は1922(大正11)年に当時の「新橋芸妓協会」が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立し、1925年に大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設され、3階建て、客席数1679席、こけら落しとして「第1回東をどり」が開かれた。

3幕目の「幻椀久」。狂気の椀久が幻の松山を見て、喜ぶ場面はもっとも演技が必要で、消えた松山の残した着物の一部を手にして、喜びながら渡り廊下を消えていく姿はひじょうに印象的だ。

その後、大東亜戦争でレンガの壁を残して焼けた演舞場は戦後の復興の中で、「東をどり」の舞踊劇の脚本として、吉川英治(よしかわ・えいじ、1892-1962)、川端康成(かわばた・やすなり、1899-1972)、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886-1965)、井上靖(いのうえ・やすし、1907-1991)、川口松太郎(かわぐち・まつたろう、1899-1985)らが書いた。

女だけの舞踊劇、台詞の稽古などしたことのない芸者衆の舞台は大きな挑戦で、そうした中でまり千代(まりちよ、1908-1996)というスターが現れる。1948年に戦後復活の東をどりで、男役を務め、凛々しい踊りの名手として「まり千代ブーム」を巻き起こし、東をどりは春秋のふた月の興行となった。

現在は東をどりは5月の4日間のみで、新橋演舞場を料亭に見立て、文化を遊ぶというもので、新ばい芸者の踊りと、料亭の味を楽しむ場となっている。

最後のフィナーレ。座して御礼のあいさつをする。黒の着物が芸者衆の美を輝かせている。

ウイキペディアによると、花街としての「新橋」は、現在の中央区銀座における花街で、昔から「芸の新橋」と呼ばれ、日本各地の花柳界からも一目置かれている。1857(安政4)年に現在の銀座8丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりといわれている。

当時、新橋の芸者(芸妓)の「能楽太夫(のうがくだゆう)」(芸妓の最高位)の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれ、「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで並んでいた。

最後の最後に、新橋芸者衆総出で、舞台の上から観衆に手を振る。

明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「新柳二橋(しんりゅう・にきょう)」と称し、人気の花街となり、明治期に新政府高官が新橋をひいきにして集い、伊藤博文(いとう・ひろふみ、1841-1909)の愛人「マダム貞奴(まだむ・さだやっこ、1871-1946)」、板垣退助(いたがき・たいすけ、1837-1919)の愛人「小清(こせい、後に板垣清子、1856-1874)」、桂太郎(かつら・たろう、1848-1913)の愛人「お鯉(おこい、1880-1948)」らが知られている。また、殺人事件で知られた「お梅(おうめ、1863-1916)」は金春芸者の中ではもっとも有名だった。

大正期になると芸者の技芸の向上に取り組み、1925(大正14)年に新橋演舞場のこけら落とし公演として「東をどり」を初演した。1926(大正15)年度の花柳名鑑によると、今の中央区(当時の京橋区、日本橋区)に組合の事務所を置く芸妓屋は、新橋(当時は京橋区竹川町)、柳橋(日本橋区吉川町)、葭町(日本橋区住吉町)、新富町(日本橋区新富町)、日本橋(日本橋区数寄屋町)、霊岸島(京橋区富島町)と5つあった。

昭和中期には最盛期を迎え、芸者約400人を擁し、高度経済成長期、石油ショック以後には料亭、芸者数が減り、2007年には料亭12軒、芸者70人に減っている。

開始時間は24日と25日は昼が13時、夜が15時50分の2回。26日と27日は壱の席が11時30分、弐の席が13時40分、参の席が15時50分と3回。料金は桟敷席9000円、1階席7500円、2階正面席と右席6000円、2階左席と3階席2500円。