大丸松坂屋画廊で人妻を選んだ英国王と妻の宝飾展

【銀座新聞ニュース=2018年6月12日】国内百貨店業界2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は6月14日から20日まで「英国王エドワード8世王冠をかけた恋 ウィンザー公爵夫妻特別ジュエリー展」を開く。

大丸松坂屋百貨店のギャラリー「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で6月14日から20日まで開かれる「英国王エドワード8世王冠をかけた恋 ウィンザー公爵夫妻特別ジュエリー展」に展示されるエドワード8世としてわずか1年弱で退位したウィンザー公とエドワード8世が選んだ人妻のウォリス・シンプソン。1937年にフランスで結婚した。

1936年12月11日、英国王エドワード8世(Edward 8、エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド=Edward Albert Christian George Andrew Patrick David、1894-1972、在位は1936年1月20日から12月11日、退位後はウィンザー公爵=The Prince Edward、Duke of Windsor)はラジオを通して英国民に対し退位声明を発表した。

離婚歴があり、当時、人妻であったアメリカ人女性、ウォリス・シンプソン夫人(Wallis Simpson、The Duchess of Windsor、1896-1986)との叶うはずのない禁断の恋を選んだが、その前にボールドウィン首相(当時、Stanley Baldwin、1867-1947)から最後通蝶が出され、結婚をあきらめること、国家に大混乱を招くことを覚悟で政府の意に反し結婚すること、退位すること、という3つの選択肢がエドワードに与えらてた。エドワード8世は、自らの王位を捨てウォリスとの結婚を選択した。

ウォリスの亡くなった翌年の1987年、ウォリスが臨終の日まで肌身離さず愛でたという宝石コレクションがサザビーズの競売にかけられ、華やかな話題となった。王位は放棄したものの一度は英国王だったエドワードが買い与えた宝石の数々がオークションにかけられ、収益はパリのパスツール研究所に寄付された。残されたジュエリーの中には、豪華な宝石だけではなく、2人の楽しいデートや旅行の思い出を刻んだウィンザー公爵の愛情とユーモアを感じられる小さなクロスなどがたくさん残されていた。そのコレクションの一部を展示する。

「ジュエリー展」に展示される宝石が敷き詰められたコンパクトとリップスティックケース。コンパクトの表にはルビーなどのカラフルな宝石83石を敷き詰め、裏側には赤と青のエナメルで4度にわたる休暇旅行の軌跡が彫り込まれている(1936年のクリスマスプレゼントで、1987年から2000年まで、ロンドンのヴィクトリアン&アルバート博物館に展示された)。

ウイキペディアによると、エドワード8世(ウィンザー公爵)は当時ヨーク公だったジョージ王子(後のジョージ5世、ウィンザー朝の初代君主、George5、George Frederick Ernest Albert、1865?1936)とメアリー妃(Mary of Teck、1867-1953)の長男として生まれる。弟にジョージ6世(George6、1895-1952)、グロスター公ヘンリー(Prince Henry、Duke of Gloucester、1900-1974)、ケント公ジョージ(Prince George、Duke of Kent、1902?1942)、妹にハーウッド伯爵夫人メアリー(Princess Mary、Princess Royal and Countess of Harewood、1897-1965)がいる。家族と友人からは終生、最後の洗礼名で「デイヴィッド(David)」と呼ばれた。

1907年から2年間、オズボーン海軍兵学校、190年から2年間、ダートマスの海軍兵学校で学び、1910年に祖父のエドワード7世(Edward7、1841-1910)の死去により、プリンス・オブ・ウェールズとなったエドワードは、将来の国王として即位するための準備を始め、1911年に戦艦「ヒンドゥスタン」での3カ月の研修を経て、士官候補生となった後は、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学し、正式な課程を経ずに修了した。

第一次世界大戦が勃発すると、1914年6月に陸軍のグレナディアガーズに入隊したが、前線に派遣されることはなく、エドワードは最前線の慰問に訪れ、1916年にミリタリー・クロスを授与され、1918年に空軍で初めての飛行を行い、後にパイロットのライセンスを取得した。1922年に来日した。大戦後は、海外領土における世論がイギリスに対して反発的なものになるのを防ぐべく、自国領や植民地を訪問し、世界各国も歴訪し、訪問先では絶大な歓迎を受けた。

ヨーロッパでも屈指のプレイボーイとしても有名となり、14年間愛人関係にあったフリーダ・ダドリー・ウォード(Freda Dudley Ward、1894-1983)自由党庶民院(下院)議員夫人をはじめとして、貴族令嬢から芸能人まで交際相手は幅広かった。

また、アフリカ系歌手のフローレンス・ミルズ(Florence Mills、1896-1927)がプリンス・オブ・ウェールズとの関係を「あなたにあげられるもの、それは愛だけ」と歌って、一躍人気歌手の仲間入りを果たしたり、エドワードとの赤裸々な情事を綴ったテルマ・ファーネス(Thelma Furness、1904-1970)とその妹による暴露本「ダブル・エクスポージャー(Double Exposure)」がベストセラーになるなど、美男子ぶりと派手な女性遍歴から「プリンス・チャーミング」や「世界で一番魅力的な独身男性」などと評された。

1931年にテルマ・ファーネスの紹介で、アメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの交際がはじまった。ウォリス・シンプソンは1916年にアメリカ海軍の航空士官ウィンフィールド・スペンサー・ジュニア中尉(Earl Winfield Spencer, Jr.1888-1950)と結婚したが、夫のアルコール依存症に起因するDVと女癖の悪さに耐え兼ね、1927年に夫の中国転勤を機に離婚した。

1928年に、船舶仲介会社社長のアーネスト・シンプソン(Ernest Simpson、1897-1958)と結婚した。アーネストは、父の生まれたイングランドに憧れ、イギリス国籍を取るためイギリス近衛歩兵連隊の少尉になった経歴があり、夫の経営する会社のロンドン支店で働くうちに、社交界に繋がりを持ち、社交界内の花形になった。

1931年1月に、ウォリス・シンプソン夫人の別荘で催されたパーティーで2人が出会い、同年6月にバッキンガム宮殿で開かれた王太子の父ジョージ5世の謁見にシンプソン夫妻が揃って参内した。夫人がニューヨークに出かけた1933年の冬頃、ウォリスはエドワードと不倫関係となった。ウォリスの夫シンプソンにも当時愛人がおり、シンプソンは妻とエドワードの不倫を黙認していたといわれる。

さらにウォリスも、駐英ドイツ大使でその後ドイツの外相となったヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop、1893-1946、1936年8月から1938年1月まで駐英大使、1938年2月から1945年まで外相、1946年にニュルンベルク裁判により絞首刑)や他の英国人とも性的関係にあったと噂された(2002年以降、英国政府の当時の内部資料の公開により、事実関係が確認されている)。

1936年1月のジョージ5世の死後、エドワードは独身のまま「エドワード8世」として王位を継承し、即位式にはウォリスが立会人として付き添った。ウォリスは夫の不貞を理由に、裁判において離婚を申し立て、1936年10月27日に勝訴した。

エドワード8世はウォリスとの結婚を決意し、国民に直接訴えようとしたが、イングランド国教会では離婚が禁じられ、エドワードが無理にウォリスを妃として迎え入れようとしたのに対して、ボールドウィン(Stanley Baldwin、1867-1947)首相は演説の草稿の内容に激怒し、1936年11月にエドワード8世の個人秘書を通じて、王位からの退位を迫った。

エドワード8世は退位を決意し、12月8日に側近に退位する覚悟を決めたことを伝え、12月11日にBBCのラジオ放送を通じて退位を表明した。エドワードは12月12日深夜にポーツマスの軍港から出航し、オーストリアへ渡り、退位後の行動を嗅ぎ回るマスコミから身を守るために、祖父の代から親密な関係にあったロスチャイルド家によって準備された、ウィーン郊外のエンツェスフェルト城において、12月13日より隠遁生活をはじめ、その後、フランスへ渡り、1937年3月8日に「ウィンザー公」の称号を与えられた。

同年5月に2人はフランスのトゥールで再会し、6月3日にトゥールで挙式し、その際の婚約指輪は、かつてムガル帝国皇帝が所有していた世界最大のエメラルドを半分にした片方だった。式には、親しい16人の友人のみを招き、英国の王室と政府からは誰も来なかった。

以後、王室とは疎遠となり、とくに母メアリー王太后と弟ジョージ6世の妻エリザベス王妃(後にケント公爵夫人マリナ、Princess Marina、Duchess of Kent、1906-1968)とは完全な絶縁状態となった。当初、エドワードはフランスで1、2年間「亡命生活」を過ごした後、再度英国で生活することを想定していたが、メアリー王太后とエリザベス王妃を味方につけたジョージ6世が「許可を得ずに帰国するようなことがあれば、王室からの手当を打ち切る」と強硬な態度に出たため、実現しなかった。

フランスに暮らし、王族でありながら無視された存在の2人に近付いたのは、ドイツの指導者のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889-1945)で、英国に好意を持ちながらも自ら進める急速な勢力拡大によりヨーロッパで孤立を深めていたヒトラーは、1937年10月に英国の前国王を「私的な賓客」として自国へ招いた。

これに気をよくした夫妻には、ナチス寄りの発言や行動が目立ち、英独関係が悪化した後もしばしばドイツを訪問した。エドワード夫妻によるドイツへの肩入れは、ドイツに誤ったシグナルを送るものとして、英国の王室と政府、マスコミから強い反発を受けた。1939年9月1日にドイツがポーランドへ侵攻したことを受けて、9月3日に英国とフランスがドイツに宣戦布告した直後に、海軍大佐のルイス・マウントバッテン(Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten、1900-1979)の命令で、夫妻は滞在先のフランスから海軍駆逐艦「ケリー」で帰国させられ、エドワードはフランスのマジノ線における陸軍の軍事作戦に従軍する少将に任ぜられた。

しかし、エドワード夫妻はそのまま英国に留まることを拒否し、フランスに戻ったが、1940年5月のドイツのフランス国内への進軍に伴い、夫妻は南へ移住し、同月にフランスのビアリッツ、6月にスペインに滞在し、7月にポルトガル・リスボン在住の英独双方と接触を持つ銀行員の邸宅に身を寄せた。

同年7月に、ヒトラーが「英国政府の理性的反省にもとづく和平交渉に臨む用意がある」としたうえで、「この提案を無視すれば英国本土での全面戦争も辞さない」と述べたのに対し、エドワードは和平に応じるよう呼びかけた。これに対して、対独強硬派のチャーチル首相(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill、1874-1965)がエドワードの「欧州戦争に対する影響力を最小限に止めたい」と主張したことやスパイの報告から、英国政府は8月18日にエドワードをバハマ総督に任命した。

当時、チェコの首都プラハにいた英国のスパイから外務次官宛の1940年6月付の報告で「ウィンザー公(エドワード)が水面下でドイツ政府と交渉を行った結果、ウィンザー公とドイツ政府の間で、ウィンザー公を首班とした反政府組織の設立にドイツが協力することと、ドイツが勝利した後に自身を英国王へ返り咲かせる(ウォリスを王妃に就かせる)という密約を結んだ」ことが明らかになった(このような報告があった事実は2010年代まで公表されなかった)上に、連合国の情報をドイツにリークしていたという疑惑も挙がった。

エドワードはこのような疑惑や、「バハマ総督の職務以上のことに関与しようとしている」ことを否定したものの、1941年4月に夫人と共にアメリカのフロリダ州パームビーチに出向いた際は、ルーズベルト大統領(Franklin Delano Roosevelt、1882-1945)の指令により、常にFBIの監視下に置かれていたと言われている。また、ドイツの降伏の1カ月半前の1945年3月16日に総督を辞任した後、英国に帰国せずに同年8月の第2次世界大戦終了までアメリカでバカンスを過ごした。

エドワードは回顧録「ある王の物語」の中で、自らを親独派であったことを認めたうえで、「決してナチズムを支持していた訳ではない」と釈明した。また、アルベルト・シュペーア(Berthold Konrad Hermann Albert Speer、1905-1981)は戦後、ヒトラーは「ウィンザー公との接触を失ったことは、我々にとって、大きな痛手だった」という旨の発言をしていたことを証言しており、ドイツ政府が水面下でエドワードと接触していたこと、それに気づいた英国政府が接触を切ったことが明らかになっている。

また、ウォリスはナッソーで第2次世界大戦下の5年間を暮らし、ウォリスが特注のエルメスのバッグを持ち、毛皮や宝石で飾り立て、飛行機で何度もアメリカへ買い物をしに旅行した。総督の任務を終えた後、夫妻は第2次世界大戦終結後のフランスへ戻り、半ば引退の生活を送った。フランスではパリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌで、フランス政府から所得税を免除され、パリ市から提供された住宅に住んだ。悠々自適の生活を過ごした。

英国王室との不和な状態は変わらず、王室はウォリスを決して「ウィンザー公夫人」として受け入れようとはしなかった。メアリー王太后がウォリスを王室に受け入れることを頑なに拒んだため、1952年にエドワードは弟ジョージ6世の大喪に列席するため英国へ戻ったが、ウォリスは招待されなかった。1953年6月2日に行われた姪のエリザベス2世の戴冠式には出席せず、パリの自宅でテレビ中継を観た。

夫妻は英国にセカンド・ハウスを購入し、幾度か英国を訪問するもののウォリスは歓迎されなかった。さらに夫妻は「英国のファシスト」と目され、戦前にイギリスファシスト連合を率いており、親ナチスで知られ第2次世界大戦中は夫婦揃って獄中に送られたオズワルド・モズレー(Sir Oswald Ernald Mosley、1896-1980)と親しくなるなど、倫理観に欠ける行動を取った。

公的にウォリスが「公爵夫人」として招かれたのは、1965年になってエリザベス2世とケント公爵夫人マリナ(ジョージ6世の未亡人)、プリンセス・ロイヤルの3人の名義によって初めて公式に夫妻で招待されたことだ。これにより、ウォリスが「ウィンザー公夫人」として認められた。

1967年のメアリー王太后生誕100年式典にも参列し、1968年のケント公爵夫人マリナの葬儀には、夫妻で出席した。エドワードが目の手術のために英国の病院に入院した際は、エリザベス2世(Elizabeth2、1926年生まれ)とケント公爵夫人マリナ(ジョージ6世の未亡人)が見舞っている。エドワードががんの手術を受けたときには、エリザベス2世と息子で王太子のプリンス・オブ・ウェールズのチャールズ(Prince Charles、The Prince of Wales、1948年生まれ)が見舞いに訪れた。1971年10月にはブローニュのウィンザー公邸でヨーロッパ訪問中の昭和天皇と半世紀ぶりに会見した。

エリザベス2世は1972年にフランスを公式訪問した際、5月18日にウィンザー公邸を訪問し、末期の食道がんで重体のエドワードを見舞い、10日後の現地時間5月28日2時25分にエドワードは死去した。

「onlineジャーニー」の「英国に関する特集記事『サバイバー』」によると、2012年8月に刊行された「あの女:ウインザー公妃ウォリス・シンプソンの生涯(The Woman : The Life of Wallis Simpson,Duchess of Windsor)」という書籍で、1936年から1937年にかけて、エドワードが退位とウォリスの離婚訴訟手続きに揺れる真っ只中に、当時、ウォリスが離婚しようとしている夫アーネスト・シンプソンに宛てた秘密の手紙が見つかった。そこには、「どうして、こんなことになってしまったのか」、「私たちはうまく行っていたのに」、「とてつもなく孤独で怖い」といったことが書かれている。

ウォリスは初めからエドワードと結婚する意志などなく、ストーカーのように執着するエドワードから逃げられなくなってしまい、その苦悩を訴えた。事実、ウォリスはエドワードから「自分を捨てるようなことがあれば自殺する」などと脅されており、政府や王室関係者からエドワードと別れるように圧力がかかったときも、「私はそれでも構わないけど、エドワードはどこまででも私を追いかけてくるでしょう」と語ったという。

妻が次第に手の届かない所へ行ってしまい、アーネストが耐えかねて他の女性と関係を持ってしまうと、ウォリスは激しく嫉妬し、傷ついたという。ウォリスはアーネストを理想の夫と思っており、このことを後に「決して癒えることのない傷」と回想している。

引き返せないところまで来てしまったウォリスにとって、残された道は、執着心の強く、子どものように要求の多いエドワードと幸せな結婚を演じることだったのだろうとしている。いずれにしてもウォリスはエドワードを愛してはいなかったことになる。幼少のときから財力を追い求め、真実の愛を知らないウォリスが犯してしまった人生最大の過ちかもしれないとしている。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。