丸善日本橋でヨーロッパ版画展、フローラダニカも

【銀座新聞ニュース=2018年7月7日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月11日から17日まで3階ギャラリーで「ヨーロッパアンティーク版画展 ボタニカルアートから西洋古典版画まで」を開く。

丸善・日本橋店で7月11日から17日まで開かれる「ヨーロッパアンティーク版画展 ボタニカルアートから西洋古典版画まで」に出品される作品。

ヨーロッパで17世紀から19世紀にかけて書物の中の図譜は、版画技術の発達とともに発展し、その細密さや手彩色の美しさは、今も変わらず魅了する。ベルギー出身で「バラの画家」として知られたピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redoute、1759-1840)初版のバラ「ダマスクローズ」や「カンパニューラ」の美しい花々、ドイツ出身の希少な女流昆虫画家のマリア・メーリアン(Anna Maria Sibylla Merian、1647-1717)の作品、陶器の絵柄のもととなったデンマークの「フローラダニカ(Flora Danica)」、博物画、古い楽譜など歴史を経た味わい深い作品を展示販売する。

「ル・ノーブル」や「デンマーク/コペンハーゲン特派員ブログ針貝有佳」などによると、「フローラダニカ」とは18世紀啓蒙主義の時代に、デンマーク領土内の植物約3000種類を収めた銅版画の植物図鑑「フローラ・ダニカ(デンマークの花の意味)」を描いたロイヤルコペンハーゲンの食器のことで、王室がデンマークの植物図鑑の下絵を描いた絵付師ヨハン・クリストファ・バイエル(Johann Christoph Bayer、1738-1812)に、ロシアの女帝エカテリーナ2世(Yekaterina2 Alekseyevna、1729-1796)への贈り物として、全植物を食器に表現するように1790年に依頼したのがシリーズのはじまりで、彼は食器に植物を描き続け、12年間でその視力を失ったといわれている。

エカテリーナ2世の死により制作が中止されたが、1802点が完成された。その後、盗難や損壊などにより、現在残されているのは約1530点といわれている。成型、装飾はすべて手作業で行われ、多彩色は淡色から順に彩色を重ね、24金の金彩もあわせて7回の焼成を繰り返している。しかも、絵付けは2人で行っており、1人は花のモチーフを、もう1人がゴールドを描くなど、分けているため完成品には2人の名前が記載されている。中にはスープチューリンなどのように、フタ、本体、スープスタンドに、絵付師と箔置き師がいたため計6人が携わっていた。現在も王室晩さん会で用いられ、デンマークの至宝といわれている。

女子美術大学版画研究室などによると、ヨーロッパでは1300年代後半からキリスト教の教義を広める目的で、主に修道院や巡礼地、教会で聖地巡礼の記念や護符などを木版で作っており、これらの版画は、教義を説くだけでなく、無病息災、商売繁盛、家畜や旅の安全、五穀豊穣などを祈る「お守り」として家の入り口や台所、家畜小屋などに張られる実用品だった。

現存の一番古い版木は1370年頃の「プロタの版木」と呼ばれ、フランス中央部の都市、マコン(Macon)で階段の板として用いられていた。初期の木版画は1370年から1380年頃にフランスのディジョン(Dijon)で始まったと伝えられている。ヨーロッパ最古の木版画は1418年の「聖母マリア」で、刷り方は印鑑を押すようにしたり、平らな木ぎれやナイフで紙の裏からこすったりしていた。

15世紀後半にはストラスブルグでワイン製造用のブドウ搾り機のようにネジで締めあげて圧力をかけて刷る平圧式プレス機が用いられるようになり、この圧力を利用する印刷方法が後に凹版印刷、銅版画に発展することになる。

その後、フランスやフランドル地方では100年戦争が起こり版画も作られなくなるが、ライン川上流(バーゼルからストラスブルク)の地域で1400年頃作られた版画が残っている。1400年から1430年頃になると多くの木版画が登場し、木版本が作られるようになり、大工のギルドに属した職人により版木が彫られた。木版本は文字を木版で刷り挿し絵は手描きのものや、木版に手彩をほどこしてある。

印刷の分野で版画が普及するにつれて、1500年はじめには、もっと精巧なものが要求されるようになり、木版画の技術が発展し、ルネサンス美術の影響で技術的に優れたものが多く作られるようになり、1500年頃には最盛期に達した。1400年半ば頃から銅版での凹版画が登場し、1500年頃には技術的にも優れたものが多く作られ、木版画から銅版画の時代へと移った。普通の木版画は1500年代末頃から衰退したが、これは銅版画の方が精緻で克明な表現が可能だったことと、線描中心のデッサンを木版画にする場合の労力の大変さからきたのではないかと考えられている。

活版印刷以前に作られた本は、僧侶や貴族のための祈祷書などで羊皮紙に手書きされた豪奢なものだったが、その後、木版画が多く作られるようになると、トランプカードや宗教を題材としたものが多く作られ、民衆の間に広まっていった。1500年頃から木版画、銅版画ともに絵画の代わりに売買の対象となり、絵画はまだ宗教界や貴族たちだけのものだったが、版画は貴族たちだけでなく、一般の人々の収集の対象となりった。

有名なものは、イタリアのライモンディでラファエロ(Raffaello Santi、1483-1520)の原画をもとに製版し、銅版画を作り、ラファエロと親交のあったバヴィエロ・カロッチ(Baviero Caroti)が版元となって出版した。このような版元制度は、フランドル地方のアントワープでもH・コック(Hieronymus Cock、1510-1570)が1548年に店「四方の風」を開いており、この後、1500年後半、アントワープはヨーロッパ最大の版画制作の地となった。

1600年代になるとアントワープにクリストフ・プランタン(Christophe Plantin、1520ころ-1589)がヨーロッパ最大の印刷所を開設し、版画を制作し、同時に教会用印刷物を供給した。1600年代になると、彫刻凹版は次第に複製版画の傾向が強くなり、この頃盛んに行われたエッチング(腐刻凹版)と併用された。この方法は1700年代まで複製版画の方法としてよく行われた。1700年代末にはイギリスやフランスで木口木版が行われ、版木の特殊性から大きな作品が少なく、小品が主で、書籍のさし絵などに使われたが、その後の写真の普及とともに衰退した。

1798年にリトグラフが発明され、19世紀はリトグラフの時代といわれた。リトグラフはその後、イメージが主要な役割を演じるようになった新聞雑誌の発展に結びついた。1800年代半ばになるとフランスでそれまで印刷や絵画の複製に用いられていた版画の芸術性を見直す運動がおこり、多くの版画家が生まれた。1900年に入り、多くの画家が版画を手がけるようになった。

ウイキペディアによると、ボタニカルアート(植物画)とは古代エジプトや中国などで薬草を見分けるために図譜が作られたのがはじまりで、大航海時代になって、ヨーロッパ各国が世界各地を探検するようになり、植物学者と画家が一緒に組んで珍しい植物の詳しい絵が本国に送られ、それらの絵が英国やフランスで19世紀に大流行した。植物の姿を正確で細密に描く植物図鑑のための絵画とされている。

博物画は動物、植物、鉱物などの観察対象の姿を詳細に記録するために描かれる絵で、植物画(botanical art)と動物画(zoological art)に大別され、動物画はさらに外形を描く肖像画(portait)と内部を描く解剖画(anatomical art)に区分されている。

科学性が重視され、正確な観察には博物学や解剖学の知識も不可欠であり、学者の指示によって作画された。屋外で素早く写生する必要性から速乾性のガッシュが用いられ、後にこれを銅版画に起こし、点描で陰影をつけ手彩色も行われるようになった。19世紀に写真が登場しても、描いた者の手と認識を通した写真にはない説明性と抽象化があるため、今日でも図鑑や医学書などではイラストレーションが用いられ続けている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。