ためながで藤田嗣治展、為永に帰郷の念伝える

【銀座新聞ニュース=2018年7月20日】ギャルリーためなが(中央区銀座7-5-4、03-3573-5368)は7月20日から9月30日まで「藤田嗣治展」を開いている。

ギャルリーためながで9月30日まで開催中の「藤田嗣治展」に出品されている「少女」(1961年)。

レオナール・フジタと称し、フランス・パリで活躍した藤田嗣治(ふじた・つぐはる、1886-1968)が没後50年を迎えたのを記念して、その作品の中から油彩画、線描の際立つデッサンなど40余点を展示している。

ギャルリーためながによると、創業者の為永清司(ためなが・きよし、1931年生まれ)さんは1950年代にパリに訪れ、藤田嗣治と親交を深め、藤田嗣治が幾度となく帰郷への念を打ち明けていたという。

また、藤田嗣治より作品を託され、日本に持ち帰り、広く紹介してきた。藤田嗣治は「私は西洋画の立体感を浮世絵の線のみで表現することを試みている。線描こそが私の芸術の本質だ」と為永清司さんに明らかにしている。

ウイキペディアなどによると、藤田嗣治は1886年東京都生まれ、1910年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を卒業、1913年にフランスへわたり、パリのモンパルナスに住み、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)らと交遊し、1917年に初めての個展を開催、1919年に「サロン・ドートンヌ」に初入選し、会員に推挙され、1925年にベルギーのレオポルド勲章を受勲した。

1931年にパリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由してアメリカへわたった。1933年に帰国、1934年に二科会会員となり、1938年から1年間従軍画家として中国大陸にわたり、1939年に日本に帰国した。その後、パリへ戻るが、第2次世界大戦が勃発し、1940年にドイツに占領される直前パリを離れ、再度日本に帰国した。

帰国後は戦争画を制作し、敗戦後の1949年にニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれた。1950年にパリへ移り、1955年にフランス国籍を取得、その後、日本国籍を抹消し、1957年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。1968年1月29日にスイスのチューリヒでガンのため81歳で死去、遺体はパリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに葬られ、 死後に日本政府から勲1等瑞宝章が贈られた。

1935年に一時帰国した際に藤田君代(ふじた・きみよ、1911-2009)と出会い、1936年に3度目の結婚(過去2人はフランス人でいずれも離婚)をし、1939年にパリに戻り、1940年に帰国し、戦争画を「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」(藤田嗣治)が、戦後それをもとに戦争協力を批判され、パリに戻った後、フランス国籍を取得し、1959年から夫婦で洗礼を受け、「レオナール・フジタ」と名乗り、2度と帰国しなかった。

藤田君代はその後、パリ郊外の旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館したが、日本で「正しく評価しない以上、忘れてほしい」と出版物の刊行などを一切拒否してきた。近年、藤田君代監修で画集が発売されたり、2006年に国立近代美術館で戦争画が展示されたりしている。産経新聞2009年4月25日号によると、4月2日に東京で死去した藤田君代の遺骨はフランスのランスにあるレオナール・フジタが眠るフジタ礼拝堂に埋葬された。

開場時間は10時(日曜日、祝日11時)から19時(日曜日、祝日17時)。入場は無料。