M84でE・アジェ展、パリの貴族の館から下層社会の人々

【銀座新聞ニュース=2018年9月28日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル、03-3248-8454)は9月24日から10月20日までウジェーヌ・アジェによる写真展「シュルレアリスム」を開いている。

アート・ギャラリー・エムハッシー(Art Gallery M84)で10月20日まで開かれているウジェーヌ・アジェの写真展「シュルレアリスム」に展示されている「9725.ルー・サン・ソビュール(Rue Saint sauveur)」((C)Eugene Atget/M84)。

フランスの素朴派の画家、アンリ・ルソー(Henri J.F.Rousseau、1844-1910)とともにシュルレアリスムの先駆者に数えられた、フランスの写真家で「写真家の税関吏ルソー」と呼ばれたウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugene Atget、1857-1927)は、芸術家や装飾家の制作の資料となる写真、パリの街並みや職人の姿、郊外の風景など歴史的建造物、古い街並、店先、庭園、そこに住まう人々など、変わりゆく「古きパリ」を丹念に撮影し、41歳から30年間に約8000枚の写真を残した。

ウジェーヌ・アジェは、パリ市歴史図書館など購入者が先に決まっており、テーマを決めて計画的に撮影していた。写真展「シュルレアリスム」は、ウジェーヌ・アジェが自分自身でプリントした超貴重なビンテージ作品10点(ウジェーヌ・アジェの整理番号付きオリジナルプリント)とフランス政府が管理しているガラス乾板からプリントした作品などを含め約35点を展示販売している。

ウジェーヌ・アジェの作品は、パリの貴重な記録として、図書館や博物館に収められ、貴族の館から下層社会の人々の生活まで撮影し、率直で素朴な目で現実を捉えており、ウジェーヌ・アジェは現実を超えた世界を引き出した芸術家とみなされている。
ウジェーヌ・アジェは1857年フランス南西部ボルドー近くの町リブルヌ生まれ、1863年に両親が亡くなり、叔父に引きとられてパリに移り住み、神学校に通うものの中退し、商船の給仕となってヨーロッパ各地、北アフリカ、南アメリカを旅した。1879年にフランス国立高等演劇学校に合格するも、兵役のため中退した。

1881年に地方回りの役者になり、1886年に伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォスに出会い、2人はいっしょに旅回りを続け、グルノーブル、ディジョン、パリ郊外で公演、1897年から1902年の間、ヴァランティーヌはラ・ロッシュで公演した。1898年に劇団を解雇され、1人パリに戻り、41歳で画家になろうとし、風景画を描き、印象派風の木を描いた油絵画が残されている。

しばらくして画家の道を断念し、この少し前から写真を撮り始め、18×24センチのガラス乾板を使う木製の暗箱カメラで,レンズボードを上下にあおれるものを使用、最初に手がけたシリーズは路上で商いをする人々の写真だった。

1899年10月にモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街17番地に引っ越し(死ぬまで住む)、アパートのドアに手書きの「芸術家の資料(documents pour artistes)」という看板を掲げ、芸術家に写真を売る生活をはじめた。画家を志した際に多くの画家が作品の資料となる写真を求めていることを知り、生活のために写真をはじめ、初期の路上の物売りシリーズを除いて、朝に撮影した。建物を正確に撮ろうとすると、人や馬車がじゃまになるためだ。

アルバムは次の7つがある。1898年から1900年がパリの生活と仕事(146枚)、1910年にパリの乗り物(57枚)とパリの屋内:芸術的、絵画的、中産階級(54枚)、1912年にパリの仕事、店、ショーウィンドウ(59枚)、1913年に古きパリの看板、古い店(58枚)、1913年にパリを囲む城壁跡(56枚)、1913年から1914年にパリの旧軍用地帯の住人の様子とその典型(62枚)。

1927年にシュルレアリスムの若い前衛芸術家の強い関心を惹きつけ、アンリ・ルソーとともにシュルレアリスムの先駆者に数えられ、「写真家の税関吏ルソー」と呼ばれ、1927年8月にパリにて死去した。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)まで。入場料は500円。日曜日は休館。