【銀座新聞ニュース=2018年12月9日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は12月12日から18日まで3階ギャラリーで「アルフォンス・ミュシャ版画展」を開く。
アール・ヌーボー(Art Nouveau、フランス語で「新しい芸術」の意)を代表するチェコ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領モラビア)出身のグラフィックデザイナー、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha、1860-1939)の版画を展示する。
また、ミュシャと同時期に活躍した印象派の画家や、19世紀フランスの画家、ミレー(Jean-Francois Millet、1814-1875)やコロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796-1875)ら「バルビゾン派(Ecole de Barbizon)」の画家、シャガール(Marc Chagall、1887-1985)、マティス(Henri Matisse、1869-1954)、スペインの画家、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)ら「エコール・ド・パリ(Ecole de Paris)」の作家の版画作品も同時に展示販売する。
ウイキペディアによると、アルフォンス・ミュシャは1860年オーストリア帝国領モラビア(現チェコ)生まれ、中学校時代に教会の聖歌隊となり、夏休みに合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とした。中学校を中退、地方裁判所で働き、19歳でウィーンに行き、舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通い、2年後に失業するも、1883年にミクロフでカール・クーエン伯爵(Count Karl Khuen)がパトロンとなった。
ミュンヘン美術院を卒業し、1887年にパリでアカデミー・ジュリアンに通い、1895年に舞台女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt、1844-1923)の芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターで注目され、その後、サラ・ベルナールと6年契約し、「椿姫」や「メディア」などのポスターを制作した。また、タバコ用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などのポスターも制作した。
ミュシャの作品は星、宝石、花などのさまざまな概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴で、イラストとデザインの代表作として「ジスモンダ」、「黄道12宮」、「芸術」などが、絵画の代表作として20枚から成る連作「スラヴ叙事詩」が挙げられる。
パリでの初期苦闘時代、雑誌のさし絵によって生計を立てていたが、次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コラン(Armand Colin)のさし画家として活躍した。商業的に成功し、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国のチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作「スラヴ叙事詩」を制作、完成まで20年を要した。
1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを無報酬で請け負った。1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロバキア共和国は解体され、プラハに入城したドイツ軍により逮捕された。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、その後、釈放されたが、4カ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じた。遺体はヴィシェフラット民族墓地に埋葬された。
戦後、祖国は独立を果たしたが、共産党政権は愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。しかし、「プラハの春」の翌年の1969年には、ミュシャの絵画切手数種が制作され、1960年代以降のアール・ヌーボー再評価とともに、高い評価を受けている。
アルフォンス・ミュシャはリトグラフ芸術の先駆者であり、日本では明治の頃より与謝野晶子(よさの・あきこ、1878-1942)や藤島武二(ふじしま・たけじ、1867-1943)をはじめとした文学、美術界に多大な影響を与えた。
「アール・ヌーボー」は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式にとらわれない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴とされている。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。
第1次世界大戦(1914年から1918年)を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、「アール・デコ(Art Deco)」への移行が起き、アール・ヌーボーは世紀末の退廃的なデザインとして、美術史上もほとんど顧みられなくなった。
1960年代にアメリカでアール・ヌーボーのリバイバルが起こり、その豊かな装飾性、個性的な造形への再評価が進み、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになり、ベルギー・ブリュッセルやラトビアの首都・リガ歴史地区のアール・ヌーボー建築群は世界遺産に指定されている。
アール・ヌーボーという言葉はパリの美術商、サミュエル・ビング(Samuel Bing、1838-1905)の店の名前「アール・ヌーボーの店」(Maison de l’Art Nouveau)から一般化した。アール・ヌーボーの理論的先駆はビクトリア朝(1837年から1901年)英国の「アーツ・アンド・クラフツ運動(美術工芸運動)」に求められる。
フランスのアール・ヌーボーは2つの派に分かれ、サミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、他方がエミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846-1904)に率いられたナンシー派で、中心となったのはナンシー派とされている。
1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多くの併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。ここでアール・ヌーボーは地方主義要求の表明手段となり、エミール・ガレ、オーギュスト・ドーム(Auguste Daum、1853-1909)とアントナン・ドーム(Antonin Daum、1864-1930)のドーム兄弟らがナンシー派を形成した。
「バルビゾン派」は1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派で、フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描き、「1830年派」とも呼ばれた。
ミレー、コロー、テオドール・ルソー(Theodore Rousseau、1812-1867)ら7人が中心的存在で、「バルビゾンの七星」と呼ばれている。広義にはバルビゾンを訪れたことのあるあらゆる画家を含めてそのように呼ぶこともあり、総勢100人以上に及ぶ。
「印象派」は19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動で、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源とされている。フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開くことで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネ(Oscar-Claude Monet、1840?1926)の「印象・日の出」に由来する。
この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ(Le Charivari)」で、批評家ルイ・ルロワ(Louis Leroy、1812-1885)の槍玉に挙げられ、その結果「印象派」という新語が生まれた。印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる。
「エコール・ド・パリ(パリ派)」は20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちをさす。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちを総称した表現で、1928年にパリのある画廊で開かれた「エコール・ド・パリ展」が語源といわれている。
印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」や「画派」ではない。狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。
一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多かった。狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家のことで、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてをさす。
国籍は違えども、ユダヤ系の画家が多く、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)」と呼ばれることもある。
開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。