日本橋三越で恒例の8社七福神巡り

【銀座新聞ニュース=2019年1月3日】国内最大手の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングス(新宿区新宿5-16-10)傘下の三越伊勢丹(新宿区新宿3-14-1)が運営する日本橋三越(中央区日本橋室町1-4-1、03-3241-3311)は1月4日10時30分から日本橋の神社・寺院8カ所をまわる「第34回日本橋七福神めぐり」を開く。

4日に開かれる日本橋の神社・寺院8カ所をまわる「第34回日本橋七福神めぐり」。画像は過去の七福神めぐりの風景で、末広神社。

「日本橋七福神めぐり」は順次、日本橋三越本館1階室町口を出発して、「福禄寿、弁財天」の「小網(こあみ)神社」(中央区日本橋小網町16-23、03-3668-1080)、「布袋尊」の「茶の木神社」(中央区日本橋人形町1-12-11)、「弁財天」の「水天宮(すいてんぐう)」(中央区日本橋蛎殻町2-4-1、03-3666-7195)、「大国神」の「松島神社」(中央区日本橋人形町2-15-2、03-3669-0479)。

「恵比寿神」の「椙森(すぎのもり)神社」(中央区日本橋堀留町1-10-2、03-3661-5462)、「毘沙門天」の「末広神社」(中央区日本橋人形町2-25-20、03-3667-4250)、「寿老神」の「笠間稲荷(かさまいなり)神社」(中央区日本橋浜町2-11-6、03-3666-7498)、「恵比寿神」の「宝田恵比寿神社」(中央区日本橋大伝馬町2-16、03-3664-5671)の8カ所、約4.5キロメートルを歩く。

同じく富くじで知られる椙森神社。

「小網神社」は創建年代などが不詳とされ、悪疫消滅鎮静を祈願するために、恵心僧都(えしんそうず)が1466年に稲荷大神を勧請し、領主の太田道灌(おおた・どうかん、1432-1486)が「小網稲荷神社」と命名したといわれている。江戸期には天台宗小細山稲荷院万福寺と称する寺院の境内社で浅草新寺町にあったが、明治維新に際して復職、稲荷神社とした後、1869年に現在地へ遷座し、1873年に村社に列格したという。

「茶の木神社」は下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷にあった守護神として祀られていたが、社の周囲にめぐらされた茶の木が見事だったことから「茶の木神社」と命名された。屋敷内だけでなく周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、「火伏の神」と崇められ、堀田家では年1回に初午祭の当日だけ開門して、一般の参拝を自由にした。

1960年に地下鉄公団(当時、営団地下鉄を経て現東京地下鉄)が日比谷線を決定した際に「茶の木神社」が計画路線にあったため、解体し、3年後に地下鉄が完成、1985年11月16日に布袋尊を遷座して、日本橋七福神詣りに加わった。

「水天宮」は久留米の水天宮が久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、1818年9月に9代藩主有馬頼徳(ありま・よりのり、1797-1844)が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請し、江戸の水天宮の始まりとなり、同年から毎月5の日に一般開放された。1871年に有馬家屋敷の移転とともに赤坂に遷座し、1872年に有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町2丁目に移転した。

2013年3月1日に日本橋浜町の明治座そばに仮宮が設けられ遷座された(地鎮祭は2012年9月20日)。少なくとも、昭和40年代初期に嵩(かさ)上げ工事をして2階建てとなって以来、ほぼ半世紀ぶりの遷座である。新社殿の完成は2016年で、2009年に16代有馬家当主の有馬頼央(ありま・よりなか)さんが宮司に就任している。

「松島神社」は創建年代が不詳だが、鎌倉時代の元享(げんこう)時代(1321年から1324年)以前に、柴田家の祖先が下総の国から現在地に近い小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したとみられている。1585年に邸宅を公開した際、島内が松樹鬱蒼としていたことから「松島稲荷大明神」と称され、江戸時代に松島町(その後、人形町と蛎殻町となる)と名付けられ、1874年に「松島稲荷神社」として村社に列格され、1916年6月10日に「島神社」と改称された。

「椙森神社」は1000年の昔に創建され、940年に田原藤太秀郷(たわらとうたひでさと、後に藤原秀郷=ふじわらの・ひでさと、生没年不詳)が平将門(たいらの・まさかど、生年不詳-940)の乱を鎮定するため戦勝祈願したとされ、940年に勝利すると、白銀の狐像を奉納したとされる。

1466年には大田道灌が雨乞いに霊験があったとして山城国稲荷山五社大神を勧請して祀った。以来、毎年4月中の卯の日(現在5月16日)を祭日と定め、江戸時代には、「江戸三森(椙森、柳森、烏森)」の一つに数えられた。商業の地として栄えた土地がら、晴天10日間の花相撲が催され、富興行なども行われ、三富の一つにも数えられた。特に神道家の吉川惟足(よしかわ・これたり、1616-1695)は信仰篤く、5社稲荷の1社である大巳貴(おおなむじ)大神の御宣託に依り、「恵比寿大神」を奉斎された。

社殿は1923年の関東大震災で焼失し、1931年に鉄筋入り耐震構造で再建された。江戸時代に行われていた富くじをしのんで1919年に富塚の碑が建てられ、1953年に再建された。「大神輿(おおみこし)」は1931年9月に1000年祭を記念して作製され、総体350貫(約1.4トン)で、渡御(とぎょ)は3年に1度行われ、2011年は東日本大震災の影響で中止されたが、2012年に4年ぶりに行われた。

「末広神社」は江戸時代の初期に遊郭の吉原(当時は「葭原(あしはら)」だったが、「悪し」に通じることから「吉原」にされた)がこの地にあった当時(1617年に開設許可が下り、1657年に現在の浅草に移転)、その地主神、産土神として信仰されていたといわれ、1657年の明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町、住吉町、高砂町、新泉町の4カ所の氏神として信仰された。1945年3月10日の東京大空襲により社殿、社務所などが焼失している。

「笠間稲荷神社」は笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地に藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社のことで、1681年に牧野成貞(まきの・なりさだ、1635-1712)が第5代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)から、下屋敷として拝領した土地の中に創建された。

1923年9月の関東大震災により、社殿を焼失し、直ちに再建された。1945年3月の東京大空襲により、社殿が焼失し、同年12月に本殿と仮社務所が建てられ、1953年9月に拝殿が再建され、1957年に社務所、1958年に玉垣、1978年に幣殿が完成した。

「宝田恵比寿神社」は1606年に江戸城外宝田村の鎮守とされ、江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の3カ村(現皇居内楓山付近)が転居を命ぜられ、馬込平左衛門(まごめ・へいざいえもん、初代馬込勘解由=まごめ・かげゆ、生没年不詳)が宝田村の鎮守を奉安し、1606年に宝田村は大伝馬町、南伝馬町へ移転し、大伝馬町、小伝馬町、中伝馬町が成立した。その際に、徳川家繁栄御祈念の恵比寿を授け賜り、平穏守護の御神体として宝田神社に安置した。この恵比寿は運慶(うんけい、1151-1223)の作と伝えられている。

その後、村民は金銀為替、駅伝、水陸運輸などで重要な役を賜り、馬込勘解由は地主となって、三伝馬取締役に出世し、御役名に因んで大伝馬町の町名を賜り、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張などより商人を呼び集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商売発祥の地となった。

これにより、宝田恵比寿神も商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として知られ、毎年10月19日の「べったら(浅漬け大根)市」、20日の恵比寿神祭が行われている。べったらは若者により浅漬け大根を混雑を利用し、参詣の婦人に「べったらだーべったらだー」と呼びながら着物の袖につけ、婦人たちをからかったことから、べったらの呼名になったと伝えられている。

「日本橋七福神めぐり」は江戸時代に幕府が人心を落ち着かせるため、江戸市内に「七福神」をまつる神社・寺院を建てたことが起源とされ、そこから正月に「七福神めぐり」をすると「七難即滅・七福即生」(7つの災難が消え去り、7つの福徳を授かる)というご利益(りやく)にあずかれるという信仰が広まった。

ウイキペディアによると、「七福神」は福をもたらすとして日本で信仰されている「七柱の神」のことで、古くは「大漁追福」の漁業の神であり、時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となっている「恵比寿」、インドのヒンドゥー教のシバ神の化身マハーカーラ神と日本古来の大国主命(おおにくのぬしち)の習合で、「大黒柱」と現されるように食物、財福を司る神の「大黒天」。

元はインドのヒンドゥー教の財宝神クベーラ神で、これが仏教に取り入れられ日本では「多聞天(たもんてん)」ともいわれる「毘沙門天(びしゃもんてん)」、七福神の中の紅1点で、元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスバティー神で、「弁財天」とも表記される「弁才天」、道教の宋の道士天南星、または道教の神で南極星の化身の南極老人で、寿老人と同一神とされ、子に恵まれ、封禄(財産)、長寿(健康を伴う長寿)の三徳を具現化した「福禄寿(ふくろくじゅ)」。

道教の神で南極星の化身の南極老人であり、長寿の神であり、幸運の神とされる「寿老神」、唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の僧で、肥満体の布袋が広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどり、福徳円満の神とされる「布袋尊」の7つをいう。

「日本橋七福神めぐり」は10時30分から14時までで、本館1階室町口で受け付け終了後に順次出発し、江戸時代に行われていた富くじをしのんで1919年に建てられた「富塚の碑」がある椙森神社でスタンプを押してもらい、戻って日本橋三越屋上でスタンプを見せると記念品がもらえる。

参加費は無料。随時、曲がり角に三越の社員が立っており、道案内をしてくれる。雨天の場合は中止となる。