M84で「100年前のパリのヌード写真」展、アジェロウら

【銀座新聞ニュース=2019年2月1日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル5階、03-3248-8454)は2月4日から3月2日まで「伝説のヌード写真『旧き良き時代のパリジェンヌたち』」を開く。

アートギャラリーエムハッシー(Art Gallery M84)で2月4日から3月2日まで開かれる「伝説のヌード写真『旧き良き時代のパリジェンヌたち』」に展示される作品(Legendary nude photos(C)Parisienne in good old days-A/M84)。

「旧き良き時代のパリジェンヌたち」を撮影した写真家が選んだモデルは、女性としての魅力に満ちあふれており、娼婦の家お抱えの女性、月末の小遣い銭を稼ぐためのポーズをとるお針子、アーティストの情婦など、これらの女性は控え目ながらエロチズムを滲(にじ)ませ、当時、厳しかった検閲を相手に「かくれんぼ遊び」をするような格好で、まろやかな身体付きを顧客に披露した約100年前のヌード写真約50点を展示する。これらの作品は、オリジナルビンテージであり、厚い印画紙にプリントされた銀塩写真になっている。

また、ハガキとして送られることのなかった女性ヌードのポストカードも展示する。当時は使用する場合は、封筒に差し込み、隠して郵送するのが常だったといわれている。こうして世界中に飛び散った可愛い女性たちのカードは、パリが世界の亨楽の都として登場する20世紀初頭のベル・エボック(旧き良き時代)及び1920年頃のアンネ・フォル(無軌道時代)の歓喜を物語っているという。

ごく稀に、モデルと写真家の名前がわかるものがあるが、多くはモデルと同じく写真家も自己保護の見地から、匿名のままになっている。これらの作品を残したスタジオや写真家の名前を将来発見することもありうるが、モデルについては名前とその身辺のストーリーを知ることは極めて難しいとみられている。

今回は、そのごく稀に写真家の名前が判った作品も展示する。近年、コレクターや専門家により研究が進み、スタジオ名と写真家のイニシャルから特定した写真家、ジャン・アジェロウ(Jean Agelou、1878-1921)の作品12点、写真前面に名前を表示した数少ない写真家、ジュリアン・マンデル(Julian Mandel、1872-1935)の作品8点、エロティック・フォトグラフィーのパイオニアとされる写真家、レオポルド・ロイトリンガー (Leopold Reutlinger、1863-1937)の作品1点、近代的視点でヌードを捉えた芸術的写真家、サーシャ・ストーン(Sacha Stone、1895-1940)の作品2点を展示し、他の作品は、匿名状態のままで披露する。

ジャン・アジェロウは1910年から1920年代に活躍したフランスの写真家で、1899年から雑誌に作品を発表し、その後、ポストカードも制作した。モデルの年齢は、14歳から24歳で、1899年3月16日の法律下で合法だった。1900年代にエロティック・フォトグラフィーの黄金時代を迎えたが、写真家は慎重に判断しなければならず、彼は自分の作品に「JA」と入れた。

1908年以降は彼の恋人フェルナンデ(Fernande Barrey)がモデルであったことを除けば、私生活についてはあまり知られていない。1908年4月7日にフランスで写真のヌードが禁止され、すべての媒体からヌードが消え、ストック画像が修正された。フェルナンデのエロティックな写真は、第1次世界大戦(1914年から1918年)で両側の兵士によって大事にされたという。1970年代初頭にアジェロウのオリジナル・ヌードプリントは再び利用可能になった。

ジュリアン・マンデルは20世紀初頭の女性ヌード写真で、もっとも知られた商業写真家の1人で、官能的なポストカードを制作し、カードサイズの写真前面に名前を表示した。モデルは、古典的なポーズで見つかることが多く、スタジオ内と屋外で撮影された。

画像は、洗練されたトーンと柔らかな照明で巧みに構成され、影ではなく光によって作り出された特定の質感を表している。伝えられるところによれば、マンデルは、ドイツの前衛的な「ニューエイジ・アウトドア」または「プレイン・エア」運動の一員だった。

レオポルド・ロイトリンガーは叔父が写真家のシャルル・ロイトリンガー(Charles Reutlinger)、父親も写真家エミール・ロイトリンガー(Emile Reutlinger)で、自らはエロティック・フォトグラフィーのパイオニアとされている。1890年から父親のパリのスタジオを引き継ぎ、人気のある女優やオペラ歌手を撮影した。その後、ムーランルージュやフォリー・ベルジェールなどの娯楽施設のスターを撮影し、写真は、雑誌や新聞に売るか、はがきとして販売した。

特にアールヌーボーの影響を受けているポストカードは成功した。絵は部分的に着色され、フォトモンタージュとしてデザインされた。

サーシャ・ストーンはロシア・サンクトペテルブルク生まれで、1911年から1913年までポーランドのワルシャワ工科大学で電気工学を学び、1913年にニューヨークに移住し、ニュージャージー州のエジソン会社で数年間働き、1917年にアメリカ軍に入隊し、1919年6月14日に退任した。

1918年にベルリンに引っ越し、1919年にパリのプランテ通り(Rue de Plantes)に住み、彫刻家として働いた。1924年にベルリンに「アトリエストーン」と名付けたスタジオをオープンし、1928年から画家として活動したが、芸術家としては成功しなかったという。写真を主な収入源として活動し、肖像画、ジャーナリズム、長編画像、広告、財産、ファッション、建築写真を扱う、幅広い写真家になった。1931年にブリュッセルに移住し、1940年5月にブリュッセルへのドイツの攻撃を避け、アメリカに移動した。

ウイキペディアによると、ヌード写真の歴史はほぼ写真術の歴史と同時に始まり、写真の発明から概ね第2次世界大戦頃までに撮影されたモノクロのヌード写真をビンテージ・ヌード(vintage nude)と呼び、好事家に珍重されるほか、歴史的資料としても価値があるものとされている。

例えば、ナチスドイツでは、アーリア民族はそれだけで美しく、アーリア人女性そのものが芸術であるとのプロパガンダから、ドイツ女性の裸体絵やヌード写真の撮影・出版が盛んに行われ、その一部の記録は保存されている。

被写体は、伝統的に女性が大半を占める。初期には、女性の裸体がタブー視されていたという時代背景から、娼婦や撮影者と近い一部の人物がニンフなどの扮装をして絵画のワンシーンのようなポーズをとった形でモデルをつとめ、撮影された写真は文学的、芸術的観点を重視して評価された。

やがて性風俗の一環として定着し、娼婦、風俗嬢が被写体の主流となった。始めのうちは写真自体が普及してなく、倫理感の強い社会では人前でヌードが公開されることも少なかった。しかし、第2次世界大戦後のアメリカの雑誌「プレイボーイ(PLAYBOY)」はプレイメイトのヌード写真を掲載し、人気を博した。

日本では戦後のカストリ雑誌にヌード写真が掲載されることがあり、次第に青年向け雑誌などのグラビアページを飾るようになった。時には芸能界で人気のある女性がヌードになり、社会に衝撃を与えることもあった。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)。入場料は700円。日曜日は休み。作品はすべて販売する。