広島TAUで「ねぎ庵」のパリパリのお好み焼

【銀座新聞ニュース=2019年2月5日】広島県(広島県広島市中区基町10-52、082-228-2111)は2月5日から11日までアンテナショップ「TAU」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)2階広島お好み焼「鯉々」で「ねぎ庵」のお好み焼を提供している。

2月5日から11日まで「たう(TAU)」の広島お好み焼店「鯉々」で提供される「ねぎ庵」のフライヤー。

「ねぎ庵」(広島県広島市安佐南区川内5-32-9、082-831-7289)は独特の揚げたてに仕上げたパリパリ麺で知られるお好み焼きで、広島県倉橋島の宝島ねぎを上に多めに乗せている。これに広島県世羅産のたまごを乗せた「月見ねぎ庵スペシャル」が売りとなっている。オタフクソース(広島県広島市西区商工センター7-4-27)が毎年お好み焼きを対象に開いている「オタフクアイデアメニューコンテスト」で2013年に「ねぎ庵」が優勝している。

「たう(TAU)」では、広島お好み焼の多様性や奥深さ、店舗ごとのこだわりの違いを、首都圏在住者に味わって体感してもらうとの狙いで、広島のお好み焼の有名店を交代で「たう」に期間限定で出店する企画の一環としている。

オタフクソースによると、お好み焼きの原型となったものは、「煎餅(せんびん)」という、小麦粉を水で溶いて平らに焼いただけのもので、中国では小麦粉で作ったこの種のものを「餅(びん)」と呼ばれている。

煎餅は古く、夏(か、伝説上の最初の王朝で、BC1900年ころからBC1600年ころに存在したとされる)の頃から似たものがすでに作られていたようで、その時代の遺跡から「陶ごう」という煎餅を焼く調理器具が出土している。お好み焼きの原型ともいうべき「煎餅」だが、中国の煎餅は小麦粉を水で溶いてクレープ状に焼いたもので、その中に別に調理した副菜を包んで食べる、いわば具の容器を兼用するものが大半だった。

唐(とう、618年から907年)への遣唐留学生となり、716年ころから735年ころまで唐に留学していた吉備真備(きびの・まきび、695-775)は、大学寮での課外授業として教室に小麦と小麦粉を持ち込み、学生たちに長安における粉食文化のすばらしさを説いたとしている。講義の締めくくりに、長安で習い覚えた煎餅を自ら焼いて学生に試食させたといわれている。

しかし、粉食文化については、日本では団子と麺類にのみ嗜好が傾斜し、煎餅類は陽の目を見ることはなかった。その後、煎餅の流れをくむ「ふの焼き」が、千利休(せんの・りきゅう、1522-1591)らの手によって茶界に登場した。千利休が茶菓子として用いた「ふの焼き」は、うどん粉を水と酒でねり、生地を薄くのばして焼き、味噌をぬって丸めたもので、日本的お好み焼きの原型といわれている。

明治以降、駄菓子屋の店先で買い食いする「もんじゃ焼き」が人気になり、それに対し、持ち帰りができる「どんどん焼き」が登場した。このどんどん焼きに洋食文化とされたウスターソースをぬったものが「一銭洋食」で、昭和初期にソースの香りと今までにない味が子どもたちに大人気となった。

戦後の飢餓の時代に空腹をいやす食べ物として注目された食べ物が駄菓子屋の「一銭洋食」で、戦後、背に腹はかえられないと一銭洋食を国民的な食べ物に格上げしたのがお好み焼きの始まりとされている。盛り場にいち早く店を開いた人たちは子どもに人気のあった一銭洋食の上に、申し訳程度の豚肉をのせ、呼び名を「一銭洋食」から「お好み焼き」へと変更し、大人の食べ物として通用するものにした。しかし、昭和20年初期の頃は、空腹をおさえる手頃な食べ物といった軽い評価しか得られず、街の片隅でほそぼそと焼かれる存在にすぎなかった。

戦前にお好み焼きが流行らなかったのは、その主な理由として、ご飯に対する日本人の思い入れの度合としている。戦前の食事はあくまでご飯が中心で、ご飯を食べなければ食事をした気分になれないのが日本人の気質で、おかずでもなく、主食でもないお好み焼きは、どっちつかずの食べ物だったという。

ウイキペディアによると、「お好み焼き」は、小麦粉とキャベツなどを使う鉄板焼きの一種で、現在のお好み焼きに近いものとしては明治に東京で定着していた「もんじゃ焼き」から派生し、昭和の初めに東京を中心に流行した「どんどん焼き」があり、屋台や縁日などで販売された。

どんどん焼きは近畿地方においては、ソースが洋食的で一銭で買えることから「一銭洋食」と呼ばれ広まった。こうした古いスタイルのお好み焼きの原型は、現在も祭りの屋台などで提供されている他、岸和田市のかしみん焼きや高砂市のにくてん、あるいは「ねぎ焼き」や「キャベツ焼き」といった形で残っている。

1918(大正7)年3月24日の読売新聞朝刊に「蝦(エビ)フライ一銭のどんどん焼」と題する記事が掲載されており、記事内では「どんどん焼き」という表現を用いながらも、その屋台の暖簾(のれん)や品書きには「お好み焼」という表現が使用されている。

国語学者の池田弥三郎(いけだ・やさぶろう、1914-1982)の「私の食物誌」には「昭和6年から7年(1931年から1932年)ごろに銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」という話が書かれており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、いかがわしい業態としても機能していたことが読み取れる。

現存するお好み焼き屋の中で最古とされる店は、浅草の「風流お好み焼 染太郎」で1938(昭和13)年(12年という説もあり)の創業であるが、大阪でも同じ時期に「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、大阪で初めて客に自由に焼かせる「お好み焼き」を紹介したとされる。大衆店として人気を博した染太郎では、創業当時のお好み焼きの価格は1枚5銭だった。

広島は戦前の東京で誕生した座敷料理のお好み焼きはもちろん、戦後に広まった混ぜ焼き式のお好み焼きの影響も受けなかった地域だが、どんどん焼きは乗せ焼きが主流であり、どんどん焼きから一銭洋食として伝わり、関西のお好み焼きも広島のお好み焼きも源流は同じである。戦災からの復興過程で1950年ごろに発生した屋台街(後のお好み村)において、鉄板一枚で調理できることから、戦前の一銭洋食をベースに独自の変化を遂げ、後に広島風お好み焼きと呼ばれる料理に発展した。

今回、ねぎ庵が提供するメニューは「肉玉そば」(税込850円)、「ねぎ庵スペシャル」(1150円)、「月見ねぎ庵スペシャル」(1300円)、「マヨスペシャル」(1000円)、「チーズスペシャル」(1200円)。また、期間中、「鯉々」の通常メニューも食べられる。

営業時間は昼食が11時から14時、夕食が17時から21時。