丸善日本橋で熊谷守一版画展、自宅の庭の生物描く

【銀座新聞ニュース=2019年2月7日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月6日から12日まで3階ギャラリーで熊谷守一による版画展「小さな命・豊かな心」を開いている。

丸善・日本橋店で2月12日まで開かれている熊谷守一の版画展「小さな命・豊かな心」に出品されている「猫」(木版画)。

富や名誉にとらわれず、鳥や虫や花に深い気持ちを通わせその命までを描き尽くし、近代洋画史に特異な足跡を残し、「画壇の仙人」と呼ばれた熊谷守一(くまがい・もりかず、1880-1977)が生前に発表した版画作品を展示販売している。

また、同時代に活躍した梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう、1888-1986)らの版画も展示販売している。

ウイキペディアによると、熊谷守一は絵が描けず、貧困に苦しむ中、1922年に42歳で結婚し、5人の子どもをもうけた。しかし、4歳で肺炎に罹って医者に診せられずに亡くなった次男の陽(よう)を描いた(「陽の死んだ日」1928年)。

戦後すぐに20歳を過ぎて結核で亡くなった長女の万(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたり、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948年から1956年)などの後、晩年の30年間、東京都豊島区の自宅から一歩も出なくなり、わずか15坪(約50平方メートル)の小さな庭が作品の世界のすべてになった。

そうして、小さな世界に息づくさまざまな草花や虫、小さな動物たちなど身近な題材を描き、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書や墨絵も多く残し、晩年の独特の世界が誕生したといわている。

愛知県名古屋市の美術品収集家、木村定三(きむら・ていぞう、1913-2003)が熊谷守一を支援し、買取の個展を開くなどし、熊谷守一の名は晩年にかけて広く日本の画壇に名を知られるようになり、その100点を超えるコレクションは愛知県美術館に所蔵されている。

熊谷守一は1880年岐阜県中津川市付知町生まれ、1900年に東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1905年と1906年に樺太(からふと)調査隊に参加、1909年に第3回文展に出展、1913年ころに実家へ戻り、日雇い労働の職につき、1915年に上京し、第2回二科展に出展、1922年に大江秀子(おおえ・ひでこ)と結婚し、1929年に二科技塾の開設に参加、後進の指導に当たり、1932年に「池袋モンパルナス」と称される地域(現豊島区椎名町から千早)の近くに家を建て、生涯を過ごした。

1947年に「二紀会」創立に参加(1951年に退会)、1956年に脳卒中に倒れ、写生旅行を断念、1968年に文化勲章を辞退、1972年に勲3等叙勲を辞退、1976年に「アゲ羽蝶」が絶筆となり、1977年8月1日に肺炎で死去した。1985年に自宅を「熊谷守一美術館」(豊島区千早2-27-6、03-3957-3779)として建て替えた(2007年から豊島区立)。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。