丸善日本橋で九谷焼の福島武山と一門展

【銀座新聞ニュース=2019年2月21日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月5日まで3階ギャラリーで「福島武山一門展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月5日まで開かれる「福島武山一門展」に出品される福島武山さんの作品。

今回は石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会相談役で、日本伝統工芸士会副会長の陶芸家、「九谷焼佐野窯」(赤絵細描)を継承する福島武山(ふくしま・ぶざん)さんとその一門が新作を中心に展示販売する。

福島武山さんの一門としては、娘の有生礼子(ありせ・れいこ)さんをはじめ、河端理恵子(かわばた・りえこ)さん、今川朋美(いまがわ・ともみ)さん、広瀬絵美(ひろせ・えみ)さん、吉田純鼓(よしだ・じゅんこ)さん、堀川十喜(ほりかわ・とうき)さん、林美佳里(はやし・みかり)さん、架谷庸子(はさたに・ようこ)さんが出品する。

日本の色絵陶磁の代表的な「九谷焼(くたにやき)」は350年の歴史があり、「呉須(ごす)」と呼ばれる藍青色で線描きし、「五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の5色で絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法で、絵柄は山水、花鳥など絵画的で上絵付けが特徴的とされている。

その中で、「九谷焼解説ボランティア」によると、「九谷焼佐野窯」は1825(天保6)年に斎田伊三郎(晩年は道開、さいた・いさぶろう、1794-1868)により、佐野村(能美市佐野町)に開かれた。斎田伊三郎は上絵付の技能に秀でていて、再興九谷の諸窯で主導的な仕事をしていた。

この窯を築いてから金彩の2度焼きの技法を生み出すなど細密画の「佐野赤絵」を考案し、その意匠は能美九谷や金沢九谷の代表的なものとなり、斎田伊三郎風の佐野赤絵は明治期に輸出品として高い評価を得た。しかし、佐野窯は明治期の輸出九谷のために優品を供給し続けたものの、明治30年代に九谷焼輸出そのものが減少する中、閉窯になったとされている。

また、斎田伊三郎はこの窯を上絵窯として使い、後年にはこの窯とは独立した素地窯(本窯)を築くように陶工たちに働きかけ、素地作りと上絵付を分離する磁器生産の方式を作り出した。佐野村では、村人たちがこれまでかかわったことのない磁器の生産や販売を始めることになり、農村の仕事が増えた。

佐野窯が中心になって、この分業制が佐野村全体の陶業を支え、この窯と斎田伊三郎が佐野村における産業九谷の草分け的役割を果たし、佐野九谷の礎を築いた功績は大きいとしている。これを賞し、1903(明治36)年に斎田伊三郎は九谷陶祖神社の「陶祖」として祀られた。

佐野窯の特色としては金彩の仕上げが挙げられる。茶金地に金描きしたものや、彩釉をしたものを一度焼いてから、また金彩して焼くという2度焼の手法によって金色にさえが出ている。この2度焼の手法は佐野窯独特のものだといわれている。

福島武山さんは1944年石川県生まれ、1963年に石川県立工業高校デザイン科を卒業、1981年に日本伝統工芸展で初入選、1982年に全国伝統的工芸品展で奨励賞、1986年に創造美術展で北華賞(1995年に東京都知事賞)、1987年に日本工芸会正会員、1989年に九谷焼産業デザインコンクールで名古屋通商産業局長賞(1990年に石川県知事賞)、1997年に日本工芸の世界巡回展(5カ年)に国際交流基金より選ばれ、1999年に第23回全国伝統的工芸品公募展で第1席グランプリ内閣総理大臣賞(2000年に伝統工芸士会会長賞)を受賞した。

2002年に第25回伝統九谷焼工芸展で大賞、石川県立美術館買い上げ(2004年に優秀賞、石川県立美術館買い上げ)、2003年に第17回日本陶芸展で入選、2004年に石川県指定無形文化財保持団体九谷焼技術保存会会員、2007年に石川の伝統工芸展で優秀賞、2008年に九谷焼伝統工芸士会会長、2012年に第65回記念創造展で創造美術大賞などを受賞、2015年にエルメス社時計文字盤(駒くらべ)を制作し、スイス・バーゼルで発表し、北陸新幹線の開通に合わせて金沢駅に陶板「恵み」を制作し、2016年に第1回ゴールデン匠賞、石川県文化功労賞も受賞した。

ウイキペディアなどによると、九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器で、大聖寺藩領の九谷村(現石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、加賀藩の命により、藩士の後藤才次郎(ごとう・さいじろう、1634-1704)を佐賀・有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年ころ)、藩の殖産政策として、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりとされる。

しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然、廃窯となり、窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っており、この間に焼かれたものは、現在「古九谷(こくたに)」と呼ばれている。

古九谷の廃窯から、約1世紀後の1807年に加賀藩が京都から青木木米(あおき・もくべい、1767-1833)を招き、金沢の春日山(現金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、1819年に磁器を、1820年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

1832年ころに小野窯に陶匠として招かれる、寺井村(現能美市寺井町)生まれの九谷庄三(くたに・しょうざ、1816-1883)は能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与え、1840年ころに故郷に戻り、寺井窯を開いた。ヨーロッパから入った顔料を早い時期から取り入れ、彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後にヨーロッパに輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のオーストリア・ウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時にヨーロッパの技法も入り込んだ。1872年ころから型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年ころから、獅子を始めとする置物の制作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。

また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平(すなこ・きちへい、生没年不詳)、初代諏訪蘇山(すわ・そざん、1851-1922)らの参加を得て成果を上げ、1876年には「石川県勧業場」と名を改めた。1887年に金沢工業学校(現石川県立工業高校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

現在、九谷焼は陶器と磁器があり、上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」と呼んでいる。陶器は原料が陶土(粘土)で、温かみがあり、全体に厚くぽってりした感じで、指ではじくと、鈍い音がする。一方の磁器は原料が陶石(石の一種)で、白く堅い感じがあり、薄くて軽くて丈夫で、指ではじくと「チン」と金属質の音がする。

24日と3月5日は福島武山さんが来場し、期間中、毎日、お弟子さんが来場する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)、入場は無料。