丸善日本橋で服部秀司、寺田豊ら「江戸の紫・京の紫」展

【銀座新聞ニュース=2019年3月13日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は3月13日から19日まで3階ギャラリーで「色を解く-江戸の紫・京の紫 きものと帯展」を開く。

丸善・日本橋店で3月13日から19日まで開かれる「色を解く-江戸の紫・京の紫 きものと帯展」のフライヤー。

古来より「紫」は気品高く神秘的な色とされ、人々を魅了してきたが、今回は「江戸の紫・京の紫」をテーマに、個性的な染織家が手描き友禅、綴織(つづらおり)、絣織(かすおり)、絞り染めなど、数々の紫色を着物と帯で表現している。紫にまつわる染織史や植物染料の可能性、化学染料との比較なども追及した作品作りをしている。

出品するのは工房「染の高孝」を主宰する高橋孝之(たかはし・たかゆき)さん、染織作家の上原晴子(うえはら・はるこ)さん、「服部綴工房」を主宰する服部秀司(はっとり・ひでし)さん、4代目京絞り作家の寺田豊(てらだ・ゆたか)さんの4人だ。

また、フラワーデザイナーの落合邦子(おちあい・くにこ)さんによるフラワーデザインも展示する。

ウイキペディアによると、「紫」は古代中国の五行思想では正色(青、赤、黄、白、黒)を最上とし、中間色である紫はそれより下位の五間色に位置づけた。紫を尊んだのは道教で、天にあって天帝の住まうところを紫宮・紫微垣(しびえん)などと呼んだ。南北朝時代に紫の地位は上昇し、五色の上に立つ高貴な色とされた。隋は605年に服色に身分差を設けたとき、五品以上の高官に朱か紫の服を着せ、610年には五品以上を紫だけにした。高官だけでなく、道教の道士、仏教の僧侶の中の高徳者にも紫衣を許し、これが唐代にも継承された。

一方、日本では608年に隋使裴世清(はい・せいせい、生没年不詳)を朝廷に迎えたとき、皇子、諸王、諸臣の衣服が「錦・紫・繍・織と五色の綾羅」だったのが紫の初見とされている。これより先、604年に制定の冠位十二階の最上位(大徳・小徳)の冠が紫だったとする学説があるが、史料には記されず、確証はない。

643年に蘇我蝦夷(そが・えみし、?-645)が私的に紫冠を子の入鹿(いるか、?-645)に授けたことから、大臣の冠が紫であったことが知られる。647年の七色十三階冠以降の服色規定では、紫を深紫(または黒紫)と浅紫(または赤紫)の2色に分け、深紫(黒紫)をより高貴な色とした。道教が正式に受容されなかった日本では、高徳の僧侶に対して紫衣が許された。江戸時代には「紫衣事件(しえじけん)」が起こった。

紫衣事件は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間で対立した事件で、江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされた。後水尾天皇(ごみずのおてんのう、1596-1680)はこの事件をきっかけに譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立となった。

「紫衣」とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜り、僧・尼の尊さを表す物であり、同時に朝廷にとっては収入源の一つでもあった。これに対し、1613(慶長18)年に江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣並に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を定め、さらに1615(慶長20)年に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

それにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った3代将軍・徳川家光(とくがわ・いえみつ、1604-1651)は、1672(寛永4)年に事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗(いたくら・しげむね、1586-1657)に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。

これに対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあん・そうほう、1573-1646)や、妙心寺の東源慧等(とうげん・えいとう)ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。1629(寛永6)年に幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。

この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ということを明示し、朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったということを意味した。

1632(寛永9)年に大御所・徳川秀忠(とくがわ・ひでただ、1579-1632)の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。1641(寛永18)年に事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智(しょういん・そうち、1587-1629)をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。

「伝統色のいろは」によると、江戸紫とは、江戸で染められた紫のことで、青みを帯びた紫をさす。代表的なものに歌舞伎の「助六由縁江戸桜」で助六が頭に巻いている鉢巻の色がある。本来の紫に江戸の名をつけるのは、京都の「京紅」に対してのことで、紫染は江戸が優れ、紅染は京都が優れているというところからの表現という。

京紫とは、京都で染めた紫のことで、赤みがかった紫色をさす。古(いにしえ)から伝わる正統的な紫根染(しこんぞめ)の紫色であり、江戸紫に対して付けられた。京紫が伝統的な紫を受け継ぐ色ということで「古代紫」とも呼ばれ、江戸紫が江戸時代の今風の色なので「今紫」と呼ばれた。

ただし、同じ色とされている京紫と古代紫だが、実際は京紫のほうが古代紫よりも鮮やかで明るい色になる。江戸紫は青みの紫色で「力強い活気」をあらわし、京紫は紅みの強い紫色で「優雅さ」をあらわしている。

高橋孝之さんは1966年に戸塚工芸社に入社、父親より引き染ぼかしと一珍染、兄から江戸更紗を習得し、1974年に独立して工房「染の高孝」を開く。1983年に染織作家グループ「新樹会」を設立、以後年1回、作品展を開き、本格的に作家活動に入る。

1984年に第9回日本染織新人展覧会で「青い光」が意匠賞(1985年に第10回で技術賞)、1989年に第27回日本染織作品展で「竹林2」が技術賞、「墨流し」が佳作(1990年に第28回で日経奨励賞)、第29回伝統工芸新作展で「群翔」が入選(1991年に第30回で入選)、1991年に第14回日本染織作家展で「彩流」が奨励賞、「源流」が佳作(1992年に第15回で京都新聞社賞、1993年に第16回で佳作、1996年に第19回で名古屋三越賞、1999年に第22回でセイコきもの文化財団賞、2001年に第24回で京都新聞社賞、2009年に第32回で京都市長賞、2012年に第35回で京都市長賞)。

1996年に第34回染芸展で「響き」が三越賞(1999年に第37回で三越賞、2000年に第38回で商工会議所会頭賞と高島屋、西武百貨店賞、2001年に第39回で国際モード協会賞、2002年に第40回で東京産業貿易協会会長賞、2003年に第41回で染芸展賞、2004年に第42回で東京都立産業技術研究所所長賞、2005年に第43回で国際モード協会賞、2006年に第44回で田島比呂子=たじま・ひろこ=賞、2010年に第48回で新宿区長賞といち居賞、日本きもの文化協会会長賞、世界文化社きものサロン賞、2012年に第50回でコスモス賞、新宿区長賞、松屋賞、第50回記念人間国宝山田貢(やまだ・みつぐ)賞。

1997年に東京都優秀技能章、2001年に新宿区地場産業25年表彰を受ける。2002年に東京都伝統工芸士に認定され、2007年に東京都工芸染色協同組合理事長に就任、2008年に国の伝統工芸士に認定され、現在、東京都染色工芸組合理事長。染色作家グループ「新樹会」会長。

上原晴子さんは京都府京都市生まれ、1983年に第38回新匠工芸会展で初入選、1984年に日本染織学園研究科を卒業、1989に第44回新匠工芸展で会友賞(1990年に第45回で新匠賞)、1991年に第20回日本伝統工芸近畿展で初入選(以後、毎年入選、1996年に第25回で奨励賞、2001年に第30回で京都府教育委員会教育長賞)。

1996年に第48回京展で日本経済新聞社賞、1997年に1997京都美術工芸展で優秀賞、1998年に第21回京都工芸美術作家協会展で奨励賞(2002年に第25回で第25回記念賞、2005年に第28回で京都府知事賞)、第45回日本伝統工芸展で初入選(以後、多数入選)、2001年に京都市芸術文化協会賞、2006年に第40回日本伝統工芸染織展で文化庁長官賞(2014年に第48回で日本経済新社賞)、2015年に上賀茂神社に二葉葵染め・角帯を奉献した。現在、日本工芸会正会員、京都工芸美術作家協会会員。

服部秀司さんは1958年京都府生まれ、同志社大学を卒業、河合玲(かわい・れい)デザイン研究所テキスタイルコースを修了、その後、服部綴工房に入り、爪掻綴織物(つめかきつづれおりもの)の制作に携わる。

寺田豊さんは1958年京都府京都市生まれ、1994年にフランス・パリ市主催フランスオートクチュール組合後援により「バガテル城美術館」の「燦功工房展」に招待出品、東京で個展を開催、1996年にフランス・パリ国立ギメ美術館が「雪に萩」を買い上げ、2002年に「布結人の会」を設立した。

イタリア・ミラノの美術学校と交流、2007年に歌舞伎役者の中村芝雀(なかむら・しばじゃく)さんの「人魚の恋椿」の衣装を制作し、2008年に京都絞工芸展で知事賞と近畿経済産業局長賞、源氏物語千年紀「夢浮橋」の几帳を作成している。

落合邦子さんは慶応義塾大学仏文学科を卒業、日産自動車に入社、西アフリカフランス語圏への輸出営業を担当、その後、フラワーアレンジメントの世界に入り、現在フラワーアレンジメントスクールとフラワーショップ「アトリエオルタンシア」(1987年設立、港区高輪)を経営する。

2010年にパリのパリ日本文化会館のブティックにて、「涼」をテーマに個展、2017年にパリの「サロン・デ・ボザール(Salon des Beaux Arts)展」で審査員特別賞を受賞している。

17日15時から16時まで高橋孝之さん、服部秀司さん、寺田豊さんによる「傾城紫(けいせいむらさき)・小太夫鹿の子(こだゆうかのこ)と紫根染(しこんぞめ)」と題したギャラリートークを開く。衣物の江戸鹿の子は「領城小紫」、帯の江戸鹿の子は歌舞伎役者の2代目伊藤小太夫(いとう・こだゆう、1651-1689)が衣装として繕い、江戸初期に空前の大流行となった「紫」だが、現代において植物染料と化学染料ともに使用し、江戸から現代に至るまでの「紫」を検証する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)、入場は無料。トークは定員30人で、事前の予約(03-6214-2001)が必要。

注:「高橋孝之」の「高」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。