永谷商事、一龍斎貞弥と「江戸の名残」を散歩

【銀座新聞ニュース=2019年3月22日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は3月29日に一龍斎貞弥さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

3月29日に「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「歴史の名残を辿る築地編」で銀座、築地を歩く一龍斎貞弥さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画で、その後、お江戸日本橋亭で寄席を鑑賞する。

今回は二ツ目の女流講談師、一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さんが「歴史の名残を辿(たど)る築地編」と題して、東京メトロ有楽町線銀座一丁目駅から「銀座発祥の地碑」(中央区銀座2-7-17)、「南町奉行所跡」(千代田区有楽町2丁目)、「数寄屋橋跡」(中央区銀座5-1-1、数寄屋橋公園内)を歩く。

そこから「築地本願寺」(中央区築地3-15-1、03-3541-1131)、「蘭学事始の地碑」(中央区明石町11-6 、聖路加国際病院前聖ルカ通り)と回って、昼前にお江戸日本橋亭に移動して、午後から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

「銀座発祥の地碑」は中央通りに面したティファニー銀座ビル前の歩道にあり、碑には「銀座発祥の地 銀座役所跡」と刻まれている。江戸時代にこの地に銀座があったことを記念して、1955年に建てられた。

江戸時代の銀座は貨幣の鋳造所で、1601年に伏見に創設されたのが始まりで、その後は大坂や駿府、京都に置かれたが、江戸湾の入江を埋め立てた場所に1612(慶長17)年に銀貨鋳造所を駿府城下から銀座に移したことに由来している。

銀座役所では貨幣鋳造と銀地金の売買が行われ、役所は江戸銀座で上納銀の滞納など不正行為が発覚したことを機に、1800年に蛎殻町(現日本橋人形町)に移転したが、当時の銀座は「新両替町」と称し、通称「銀座町」と呼ばれ、1869(明治2)年に「銀座」を町名とした。

「南町奉行所跡」は江戸町奉行が寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の3奉行のひとつで、江戸府内の行政・司法・警察などを担当し、定員2人で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していた。大岡越前守忠相(おおおか・えちぜんのかみ・ただすけ、1677-1751)は1717(享保2)年から1736(元文元)年にかけて南町奉行として執務をした。

また、お濠に架かった数寄屋橋御門(すきやばしごもん)を渡ったところには「南町御奉行御役屋敷 遠山左衛門尉(とおやま・さえもんのじょう・かげもと、1793-1855)」と書かれている。遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は1837(天保8)年に作事奉行、1838(天保9)年に勘定奉行(公事方)、1840(天保11)年に北町奉行に就いた。その後、1843(天保14)年に北町奉行を罷免され、大目付に就き、1845(弘化2)年から1852(嘉永5)年まで南町奉行を務めた。

南町奉行所は1707(宝永4)年に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、2005年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見された。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土した。

再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用している。

「数寄屋橋」は、1629(寛永6)年に江戸城外濠に架けられた橋で、関東大震災後の帝都復興事業によって1929(昭和4)年に石造りの二連アーチ橋に架け替えられた。山口文象(やまぐち・ぶんぞう、1902-1978)が設計し、旧麹町区と旧京橋区の境界に位置し、現在の晴海通り (都道304号)にあった。

1958年に外堀が東京高速道路の建設により埋め立てられ、取り壊された。数寄屋橋があった場所を跨ぐ東京高速道路の橋は新数寄屋橋と名付けられているが、橋は取り壊されて現存しない。現在は数寄屋橋公園(中央区銀座5-1-1)に橋の存在を示す碑が立てられている。

数寄屋橋は江戸城外廊見附として初めて架けられた時は幅四間、長三間の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。見附の城門枡形は維新の際に撤去され、1923年の関東大震災後の復興計画によって完成された石橋が銀座の入口とされた。

その後、首都交通の激増により、この界隈を変貌させた外壕上を高速道路が、地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消した。

「築地本願寺」は浄土真宗本願寺派の寺院で、京都府京都市にある西本願寺の直轄寺院となっている。住職は2014年に門主に就任した大谷光淳(おおたに・こうじゅん、1977年生まれ)さんが兼ね、事務執行機関として宗務長(旧:輪番)1人、副宗務長2人で構成されている。

1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現日本橋横山町、東日本橋)に建立され、「江戸海岸御坊」や「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし、1657年の明暦の大火により本堂を焼失し、その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。

そこで佃島(現中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が築地の由来)、1679年に再建され、「築地御坊」と呼ばれた。このときの本堂は西南(現築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。

1923年の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、その後の火災により再び伽藍を焼失し、58カ寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転した。現在の本堂は1934年に竣工された。古代インド様式をモチーフとした建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞(おおたに・こうずい、1876-1948)と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授の伊東忠太(いとう・ちゅうた、1867-1954)が設計した。

本堂は重要文化財に指定され、2012年4月1日の浄土真宗本願寺派の新体制移行に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」となり、これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となった。

「蘭学事始の地碑」は中津藩奥平家の藩医で蘭学者だった前野良沢(まえの・りょうたく、1723-1803)が越前小浜藩医師の杉田玄白(すぎた・げんぱく、1733-1817)らと共にオランダ語の医書の翻訳に取り組み、1774(安永3)年に「解体新書」を出版した。当時の苦心の様子を描いたのが、杉田玄白が1815(文化12)年に著した「蘭学事始」だ。

翻訳に取り組んだ場所が当時、築地鉄砲洲にあった中津藩奥平家中屋敷で、現在、聖路加国際病院になっている。その前に石碑があり、隣には、中津藩出身の福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835-1901)が1858(安政5)年に開いた蘭学塾発祥の跡地もある。塾はのちに慶応義塾大学へと発展している。

一龍斎貞弥さんは大分県生まれ、日本女子大学文学部を卒業、1990年に青二塾東京校を卒業、10期生、1991年にアニメ「キテレツ大百科」の声優でデビュー、その後声優として活躍し、2007年10月に講談師の一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)さんに入門し、12月に講談協会前座見習い、「一龍斎貞弥」の号を受け、2008年に前座、2011年10月二ツ目に昇進した。

時間は10時から16時で、10時に東京メトロ有楽町線銀座一丁目駅に集合し、昼までにお江戸日本橋亭に移動して、13時30分から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

日本橋お江戸寄席は前座の三遊亭遊七(さんゆうてい・ゆうしち)さん、二ツ目の三遊亭楽大(さんゆうてい・らくだい)さん、一龍斎貞弥さん、真打の立川雲水(たてかわ・うんすい)さん、コミックソングのベートベン鈴木(べーとべん・すずき)さん、真打の昔昔亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)さんが出演する予定。

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