リコー画廊でテラウチマサト「ゴッホ」展、最後の宿も

【銀座新聞ニュース=2019年4月9日】国内最大のOA機器メーカーのリコー(中央区銀座8-13-1、03-6278-2111)グループのリコーイメージング(大田区中馬込1-3-6)が運営するギャラリー「リコーイメージングスクエア銀座」(中央区銀座5-7-2、三愛ドリームセンター、03-3289-1521)は4月10日から5月12日まで8階ギャラリーゾーン「A.W.P」でテラウチマサトさんによる「フィンセント・ファン・ゴッホ-ほんとうのことは誰も知らない」を開く。

リコーイメージングスクエア銀座で4月10日から5月12日まで開かれるテラウチマサトさんの「フィンセント・ファン・ゴッホ-ほんとうのことは誰も知らない」に出展される作品((C)Masato Terauchi)。

写真家のテラウチマサト(寺内雅人)さんは19世紀のオランダのポスト印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853-1890)の足跡を長年にわたり追い続けてきた。ゴッホが見ていたものは何か、写真家ならではの視点で捉えたカラー作品約30点で構成する写真展としている。

ゴッホは波乱万丈の人生を送り、その生き様がアートになっているとテラウチマサトさんは語る。作品は活動したそれぞれの時代の感情を率直に反映していて、ゴッホを知るうえで興味深いものがあるという。また、浮世絵に出会ったことが晩年の作品に大きく影響を与えている。写真展ではゴッホの日本への憧憬とテラウチマサトさんのゴッホへの眼差しによる映像化としている。

さらに、撮影を頑(かたく)なに断り続けてきたゴッホが自殺するまでの70日間を過ごした「ラブー亭」の屋根裏部屋、その撮影をオーナーであるドミニク(Dominique)さんに許され、その上、部屋の鍵も入手するといった幸運にも恵まれ、その鍵も展示する。期間中に展示作品、写真集を販売する。

ウイキペディアによると、ファン・ゴッホは1853年オランダ南部のズンデルトで、牧師の家に生まれ、1869年に画商グーピル商会に勤め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年にグーピル商会を解雇された。その後、英国で教師として働いたり、オランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年にアムステルダムで神学部の受験勉強を始めるも挫折した。

1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家をめざし、以降、オランダのエッテン(1881年4月から12月)、ハーグ(1882年1月から1883年9月)、ニューネン(1883年12月から1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月から1886年2月)と移り、弟テオドルス(Theodorus van Gogh、1857- 1891)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多い。

1886年2月にパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになり、日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月に南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャン(Eugene Henri Paul Gauguin、1848-1903)を迎えての共同生活が始まるも、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。

以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所、発作の合間にも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月に療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した。発作等の原因については、てんかん、統合失調症などさまざまな仮説が研究者によって発表されている。

ラブー旅館(Auberge Ravoux)は、フランス・パリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズにある歴史的建造物で、ファン・ゴッホが生涯最後の70日間ここに滞在したことで知られる。現在は博物館として観光名所となっている。

建物は19世紀半ばに家族居住用として、大通りに面したところに建てられ、当初の所有者の娘がここでワイン小売業を始めた。1889年にアルチュール・ギュスターヴ・ラブー(Arthur Gustav Ravoux)がこの建物を賃借し、旅館とした。ゴッホは、カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro、1830-1903)に紹介された精神科医ポール・ガシェ(Paul-Ferdinand Gachet、1828-1909)を頼って、1890年5月20日にオーヴェル=シュル=オワーズに到着した。

ファン・ゴッホは、宿賃が3フラン50サンティームと安かったことから、ラブー旅館の小さな屋根裏部屋に泊まることにした。オーヴェル滞在中に80枚以上の油絵と64枚のスケッチを制作しているが、1890年7月27日にファン・ゴッホは屋外で自ら銃弾を撃って負傷し、歩いて旅館まで帰ってきた。2日後の7月29日に絶命した。

ラブー家は1892年にオーヴェルを去ったが、その後、ファン・ゴッホの名前が世界的に知られるようになり、20世紀初頭、賃借人のブロット家がゴッホの部屋に人を呼び集めるようになり、1926年にはこの建物は「ゴッホの家」と命名された。1952年、ロジャー・タグリアナとミシェリーヌ・タグリアナがこの家を購入し、アルチュール・ギュスターヴ・ラブーの娘、アデリーヌ・ラブー(Adeline Ravoux、1877-1965)の協力のもと、ゴッホの滞在していた部屋の再現を行った。オーヴェルで撮影された映画「炎の人ゴッホ」の中で、この「ゴッホの家」が取り上げられると、ますます注目を集めるようになった。

1986年以降、この建物はドミニク=シャルル・ヤンセン(DominicーChalle Jansen)が管理している。ゴッホの部屋も、建築家の手によって往時の姿に復元された。ゴッホが食事をとったダイニング・ルームも復元され、現在レストランとなっている。ゴッホが滞在していた5号室は一般に公開されており、1993年以降、100万人以上の人々がゴッホの部屋を訪れている。

テラウチマサトさんは1954年富山県生まれ、日本実業出版社を経て、1991年に写真家として独立、1999年にアメリカ・ マサチューセッツ工科大学のファインアート部門で講義し、2000年に「ファト・フォト(PHaT PHOTO)」を創刊、発行人と編集長を務め、2012年にフランス・パリのユネスコ本部より招へいされ、ユネスコ・イルドアクトで写真展を開いている。

2014年より富山市政策参与、2015年1月に長崎県東彼杵町アートアンバサダーに就任し、2015年にコロンビアの「フォトグラフィタ・ボゴタ(FOTOGRAFICA BOGOTA)2015」に招へいされ講演し、2016年8月に富士頂浅間大社奥宮にて画家のタカシムラカミ(Takashi Murakami)さんと共に2人展を開いている。

開場時間は11時から19時(最終日は16時)。毎週火曜日が定休、5月1日、2日は休み。入場料は510円。