立川銀座で流形美術会写真部6人が「小笠原」展、榊原透雄も

【銀座新聞ニュース=2019年5月3日】ブラインドの最大手、立川ブラインド工業(港区三田3-1-12、03-5484-6100)は5月7日から12日まで銀座ショールーム(中央区銀座8-8-15、03-3571-1373)地下1階「タチカワ銀座スペースAtte」で「流形美術会」写真部による「小笠原写真展-雄大な自然をたずねて」を開く。

立川ブラインドの銀座ショールーム「タチカワ銀座スペースオッテ(Atte)」で5月7日から12日まで開かれる「小笠原写真展-雄大な自然をたずねて」に出品される今泉美奈子さんの作品「絶景の無人島」。

「流形美術会」(武蔵野市吉祥寺東町2-26-2)の写真部に所属する今泉美奈子(いまいずみ・みなこ)さんら6人のメンバーが小笠原諸島(1968年に日本に返還)の自然をテーマとした企画展で、1980年代より小笠原の風景を撮り続ける写真家の榊原透雄(さかきばら・ゆきお)さんの指導のもと、感じるままに美しい大自然を撮影した作品約35点を展示する。

今回は今泉美奈子さんのほか、上条正臣(かみじょう・まさおみ)さん、仲野嘉一(なかの・よしいち)さん、藤田耕太郎(ふじた・こうたろう)さん、水谷祥彦(みずたに・よしひこ)さん、谷地舘晶子(やちだて・しょうこ)さん。また、講師の榊原透雄さんも出品する。

ウイキペディアによると、小笠原諸島は東京都小笠原村の行政区域のことで、東京都特別区の南南東約1000キロの太平洋上にある30余の島々からなる。総面積は104平方キロ、南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなしている。

南鳥島を除く小笠原諸島は海洋地殻の上に形成された海洋性島弧で、太平洋プレートがフィリピン海プレートの東縁に沿って沈み込むことによって誕生した。民間人が居住するのは父島と母島の2島で、自衛隊などの公務員が常駐する島としては父島、硫黄島、南鳥島があり、ほかの島は無人島である。

形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因で「オガサワラオオコウモリ」をはじめ、「オガサワラノスリ」や「アカガシラカラスバト」や「ハハジマメグロ」などの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。

歴史的にみると、1670年4月9日(寛文10年2月20日)に紀州を出港した阿波国の蜜柑船(みかんせん)が母島に漂着する。その後、長右衛門(ちょうえもん、生没年不詳)ら7人が漂流の果てに八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告される。現在では、この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられている。

1675(延宝3)年に漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門(しまたに・いちざえもん)を小笠原諸島に派遣する。調査船富国寿丸は36日間にわたって島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は、将軍をはじめ幕府上層部に披露され、これ以降、小笠原諸島は「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれた。

1835(天保6)年に駐マカオ貿易監督官であるチャールズ・エリオット(Charles Elliot、1801-1875)が、イギリス政府に対して父島へ軍艦を派遣し、当地を占領するよう要請した。これは清朝に対するイギリスの根拠地を求めたためであり、この要請を受けて、イギリス海軍は軍艦ローリー号の派遣を決定し、1835年に父島のリチャード・ミリチャンプ(Richard Millichamp)がロンドンに一時帰国し、イギリス政府に小笠原移住民の保護を請願する。

1837年8月2日(天保8年7月2日)にローリー号が父島に来航し、各種の調査を行い、当時の父島の人口を42人と報告している。この調査の結果はイギリス政府に報告されたが、1840年に勃発したアヘン戦争とそれに伴う南京条約の結果、イギリスは香港を獲得したため、小笠原諸島の占領は見送られた。

1839(天保10)年に「蛮社の獄」により、渡辺崋山(わたなべ・かざん、1793-1841)ら11人が小笠原諸島渡航を企てた罪で捕縛され、取り調べで小笠原諸島渡航に関しては疑いが晴れるが、4人が獄死し、5人が押込となった。高野長英(たかの・ちょうえい、1804-1850)は永牢(終身刑)となり、渡辺崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた「慎機論」が発見され、蟄居を命じられる。

1840(天保11)年に陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞(さんのじょう)ら6人は2カ月かけて船を修理し、下総国銚子に帰還する。1862(文久元)年に幕府は外国奉行水野忠徳(みずの・ただのり、1810-1868)、小笠原島開拓御用小花作助(おばな・さくすけ、1829-1901)らに命じ、アメリカから帰還したばかりの咸臨丸で小笠原に佐々倉桐太郎(ささくら・とうたろう、1830-1875)ら官吏を派遣し、測量を行う。また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得て、同年6月(文久2年5月)に駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告した。

1876(明治9)年3月に小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)、内務省の管轄となり、日本人37人が父島に定住し、内務省が出張所を設置し、1880(明治13)年10月8日に東京府の管轄となる。10月28日に父島に東京府小笠原出張所を設置、1882(明治15)年に東京府出張所の行う行政に協議権をもつ会議所を設置し、議員15人を公選した。その際に欧米系住民がすべて日本に帰化した。1886(明治19)年11月4日に小笠原出張所を小笠原島庁へ改称した。

1944(昭和19)年7月に住民6886人(残留者825人)は本土へ強制疎開(そのうち20余人が引揚のとき事故で死亡)され、1945(昭和20)年2月19日から3月26日まで硫黄島の戦いが行われ、日本兵1万8375人と米兵6821人が戦死した。1945(昭和20)年9月3日にアメリカ軍駆逐艦ダンラップ号にて、小笠原の日本軍降伏に調印し、1946年1月26日に連合軍総司令部の指令(SCAPIN-677)により、日本の小笠原諸島への施政権が停止された。

1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約の発効により、小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれた。1967年11月16日に南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決まり、1968年4月に日米間で小笠原復帰協定が締結され、6月12日に協定を公布、6月26日に協定が発効し、日本に返還された。

1972年10月16日に一部の島や地域を除き、「小笠原国立公園」として国立公園に指定さ、1980年3月31日に国指定の小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定され(面積は5899ヘクタール、うち特別保護地区1331ヘクタール)、2011年6月29日に世界遺産に登録された。また、ミクロネシア系民族の影響を受けた民謡は「南洋踊り」と呼ばれ、2000年に東京都指定無形民俗文化財に認定された。

流形美術会によると、「流形」とは「世間にあまねく行きわたっている万物の形、森羅万象をいう」とし、「流形」を会の名称にしたのは、「世に現れるさまざまな形や現象を、具象も抽象も包含した作品に表現すること」としている。

流形美術会は1930年に設立された「流形派作品研究会」(後に「流形社」)がはじまりで、戦後の1950年から丸善・日本橋店で第1回展示会を開き、1977年から東京都美術館で公募展に発展し、1980年に東京都の後援を受けて、「東京都知事賞」と「東京都教育委員会賞」を設置、1988年に「彫刻部」を新設、1989年に文化庁の後援を得て、「文部大臣奨励賞」を設置、「写真部」も発足した。

また、1989年に有楽町交通会館にて第1回「流形社夏季展」を開き、1991年に東京新聞の後援を受けて、「東京新聞賞」を設置、2000年に第50回記念展を開き、その際に「流形社」から「流形美術会」に改称、2005年に「彫刻部」を「立体/工芸部」とした。毎年、上野の東京都美術館で全国公募展「流形展」を開催し、写真部では、写真家の竹内敏信(たけうち・としのぶ)さんを顧問・審査員長に迎え、毎年100点余りの作品を展示している。

開場時間は10時(初日13時)から18時(最終日は16時)。入場は無料。

注意:「上条正臣」の「条」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

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