TAUで呉基地海自9隻の艦艇カレー、「空母いぶき」カレーも

【銀座新聞ニュース=2019年5月22日】広島県(広島県広島市中区基町10-52、082-228-2111)は5月23日からアンテナショップ「TAU」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)で「呉海自カレーフェアin TAU」を開く。

5月23日から「たう(TAU)」で開かれる「呉海自カレーフェアインたう(in TAU)」で販売される「空母いぶきカレー」(ただし、店頭では箱入りレトルトカレー)。

映画「空母いぶき」が5月24日から一般公開されるのを記念して、広島県呉市の海上自衛隊呉基地に所属する艦艇のうち、9隻のレシピを再現したレトルトカレーと映画とコラボした「空母いぶきカレー」(「空母いぶき」×「呉海自カレー」特製レトルトカレー)を販売する。

今回、再現して販売するレトルトカレーは潜水艦くろしおカレー、潜水艦そうりゅうカレー、掃海母艦ぶんごカレー、護衛艦うみぎりカレー、輸送艦しもきたカレー、輸送艦おおすみカレー、呉教育隊カレー、護衛艦かがカレー、補給艦とわだカレーと空母いぶきカレーの10種類。価格は空母いぶきカレーが700円(税抜)で、ほかは600円。

「呉海自カレーフェア」で販売される7種類の艦艇カレー。

防衛省によると、海上自衛隊の艦艇は、それぞれの艦ごとに独自のカレーのレシピを持っており、呉基地においてもその艦艇の数だけレシピが存在するという。現在、呉在籍艦艇は39隻で、呉基地業務隊も合わせて40部隊の40レシピから選ばれた艦艇などのカレーが、呉市内飲食店で2015年4月から「呉海自カレー」として提供されている。

ウイキペディアによると、カレーライスの原型に近いものは英国から入ってきたと見られており、カレーは1902(明治35)年頃までは西洋料理店のみで食べられるような高級メニューだったが、1903(明治36)年から1904(明治37)年にカレー粉が発売され、一般家庭や陸海軍の給食にカレー粉が出現するようになった。

明治時代初めのころ、海軍における病死数で最大原因となっていたのは「脚気」だった。海軍軍医の高木兼寛(たかき・かねひろ、1849-1920)は、長期洋上任務の艦内などにおいて、白米中心の栄養バランスの偏った食事が原因と考え、英国海軍の兵食を参考にして、糧食の改善を試みたところ、脚気が激減した。その兵食の一つにカレーシチューがあり、ご飯と合うようにアレンジされたものがカレーライスだったといわれている。

海軍の文献でカレーライスが確認できるのは1908(明治41)年発行の「海軍割烹術参考書」がもっとも古く、チキンライスとともに「カレイライス」の作り方が掲載されている。1918(大正7)年に海軍経理学校が作った「海軍五等主厨厨業教科書」には「ライスカレー」が出てくるが、レシピは「海軍割烹術参考書」の「カレイライス」とあまり変わっていない。

1932(昭和7)年の「海軍研究調理献立集」には「浅利のカレーライス」や「伊勢海老カレーライス」、また「チキンカレー」などさまざまなカレーの種類が登場している。これら海軍のカレーライスが日本におけるカレーライス普及のルーツとなったといわれるが、海軍でのカレーの普及は民間でのカレーの普及に比例したものであり、「カレーは海軍が発祥」という説には根拠はないとする見解もある。

1904年(明治37)年から1905(明治38)年の日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに、白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し、海軍当局が1908(明治41)年発行の海軍割烹術参考書に掲載して普及させた。

帝国海軍内以外では脚気の対策が、世界中でまったく進んでいない中において、海軍内の脚気の解消に成功した。さらに第1次世界大戦(1914年から1918年)を通じ、その普及に努めた。また、この段階でカレーライスに牛乳が付いたとされる。

材料のうち、調味料をしょう油と砂糖に変えると、そのまま「肉じゃが」になる。そのため補給の面でも具合がよく、それも軍隊食として普及した理由とされている。肉は主に牛肉で、大東亜戦争時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。

現在も海上自衛隊では、毎週金曜日はカレーライスを食べる習慣があった。同じ曜日に同じメニューを食べることで、長い海上勤務中に曜日感覚をなくさないようにするためある。ただし、金曜日にカレーライスを出すようになったのは、週休2日制の導入以後という。

それ以前は土曜日が午前中の半日勤務だったので、給養員も午後には業務を終えての上陸・外出などに対応するため、土曜日の昼食には調理の準備や後片付けの時間が短縮できるメニューとしてカレーが選ばれていた。準備や後片付けが簡単な料理の中からカレーが選ばれた理由も、旧海軍時代から栄養バランスのよい料理としてカレーが定着していたためとされている。

防衛省やウイキペディアによると、海上自衛隊の地方隊のひとつ「呉地方隊」は1889年7月1日に「呉鎮守府」が置かれたのがはじまりで、同年中に呉海兵団と呉海軍病院なども設置され、1903年に呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠をもった「呉海軍工廠」が設立された。1945年11月30日に海軍省が廃止され、呉鎮守府が閉庁されたが、アメリカ軍が瀬戸内海を含む通航量の多い海峡や湾港に多数の機雷を投下しており、それらの除去と通航の安全確保が不可欠で、掃海部隊などによる掃海作業が続けられた。

1945年12月1日に呉鎮守府が「呉地方復員局」に改組され、1948年5月1日に海上保安庁創設と同時に「第六管区海上保安本部」の所属となり、7月に「呉掃海部」が置かれた。1952年4月26日に海上自衛隊の前身となる「海上警備隊」が創設され、8月1日に「保安庁警備隊」が創設され、横須賀地方隊隷下に「呉航路啓開隊」が新編された。

1953年9月16日に呉航路啓開隊が廃止となり、横須賀地方隊隷下に「呉地方基地隊」が新編され、1954年7月1日に「防衛庁」が創設され、「海上自衛隊」が発足すると、呉地方基地隊が廃止され、「呉地方隊」が新編された。10月1日に呉地方隊の司令部として「呉地方総監部」が開庁され、現在に至っている。

また、呉地方隊は東は和歌山県から西は宮崎県に至る1都1府12県(四国沖約1800キロにある東京都沖ノ鳥島を含む)の広大な陸・海域の防衛警備に任じ、護衛艦隊をはじめとする機動部隊に対する後方支援、災害派遣や救難活動のほか、さまざまな民生協力などにも従事している。

営業時間は10時30分から20時。売り切れ次第終了。