丸善丸の内で草間弥生、元永定正ら現代美術家展

【銀座新聞ニュース=2019年6月29日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は7月3日から9日まで4階ギャラリーで「草間弥生&元永定正特集 現代美術巨匠・人気作家展」を開く。

丸善・丸の内本店で7月3日から9日まで開かれる「草間弥生&元永定正特集 現代美術巨匠・人気作家展」に出品される草間弥生さんの「帽子」(シルクスクリーン、1986年)。

今回は、「現代美術が新たな視点や思考を生み出すツールとなり、人種、国境を越えて世界の共通認識を創り出すもっとも重要な芸術」として発展しており、その代表として、国際的に評価の高い草間弥生(くさま・やよい)さんと前衛画家の元永定正(もとなが・さだまさ、1922-2011)を中心に、世界の巨匠や現代作家の作品約50点を展示する。

今回、出品するのは、アメリカの画家、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928-1987)やキース・ヘリング(Keith Haring、1958-1990)、ドイツの現代美術家、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921-1986)、現代美術家、彫刻家の関根伸夫(せきね・のぶお、1942-2019)、画家、彫刻家の奈良美智(なら・よしとも、1959年生まれ)さん、現代美術家、ポップアーティストの村上隆(むらかみ・たかし、1962年生まれ)さんら。

ウイキペディアなどによると、草間弥生さんは1929年長野県松本市生まれ、1945年に大戦下に疎開してきた画家たちが立ち上げた「第1回全信州美術展覧会」に16歳で入選、松本高等女学校(現長野県松本蟻ヶ崎高校)を卒業、京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業、絵画技法を身につけるも、旧弊な日本画壇に失望し、松本の実家で毎日数十枚以上を描いた。

1957年にアメリカにわたり、ニューヨークを中心に活動、ハプニングと称される過激なパフォーマンスを実施し、ベネチア・ビエンナーレにも参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとり、平和・反戦運動にも携わった。1968年に自作自演の映画「草間の自己消滅」で第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞、第2回メリーランド映画祭でも受賞した。

1973年に体調を崩し日本へ帰国、入院し、1978年に処女小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表、1983年に小説「クリストファー男娼窟」で第10回野性時代新人文学賞を受賞、1993年にベネチア・ビエンナーレに日本代表として参加、2000年に第50回芸術選奨文部大臣賞、2001年に朝日賞、2002年に紺綬褒章、2006年に旭日小綬章、ライフタイムアチーブメント賞、高松宮殿下記念世界文化賞、2009年に文化功労者、2013年に東京都新宿区に個人美術館を建て、2014年に安吾賞、2016年に文化勲章を受章している。

元永定正は1922(大正11)年三重県生まれ、1938(昭和13)年に三重県上野商業学校(現三重県立上野商業高校)を卒業、大阪に転居し、機械工具店に就職、当初はマンガ家を志し、当時からマンガ作品の投稿をはじめ、その後、国鉄に転職、同社の関西各営業所で勤務、1944(昭和19)年に地元の三重県上野町に帰郷し、同郷の洋画家、浜辺万吉(はまべ・まんきち、1902-1998)に師事し、1946年に浜辺万吉が局長を務めていた上野愛宕町郵便局に就職、それをきっかけに本格的な油彩画を開始、これに先立ち、1940年に大阪市の中之島洋画研究所(現専門学校中の島美術学院)で洋画を学んでいた。

帰郷時に地元で開催されていた各種文化活動にも参加、入選し、同時期に雑誌などにマンガの連載を持し、1950年に郵便局を辞し、転職した山東林業も1952年に退職、弟のいた兵庫県神戸市に転居した。神戸に移ってからも転職を繰り返す一方で、西宮美術教室に通学、西宮市の美術展に出品していたが、その後、芦屋市の芦屋市展に出品し、絵画分野のほかに、彫刻、写真などを出品した。

当時の芦屋市展(1953年、1955年にホルベイン賞、1955年に日本油絵具賞(彫刻)では多くの抽象画が出品されており、元永定正も抽象画家に転向し、8回展に出品した抽象画「宝がある」は同展主催の吉原治良(よしはら・じろう、1905-1972)に絶賛された。1955年に具体美術協会に入会した(1971年に脱会)。芦屋市展には渡米中の1967年、阪神淡路大震災による影響で中止となった1995年の2回を除き、2002年の第55回展まで連続出品を続けた。

関西を主軸に活動していたことから、前例のない絵本づくりを志し、活動初期は抽象画を用いた絵本に対し、抗議の手紙が多かったことも2011年のインタビューで述懐している。1957年に後に妻となる造形作家の中辻悦子(なかつじ・えつこ、1937年生まれ)さんと西宮美術教室で出会い、1958年より日本画のたらし込み技法にヒントを得、キャンバス上に絵の具を流した絵作りをはじめている。

1960年からアメリカ・ニューヨークの画廊やイタリアのトリノにある国際美学研究センターと契約を結び、1961年に東京の画廊で個展を開いたことをきっかけとして東京の作家および評論家と交流した。1964年第6回現代日本美術展で優秀賞(1966年も優秀賞)、1966年にジャパン・ソサエティの招聘により妻の中辻悦子さんを伴ってニューヨークに渡米し、その際に同じく招聘された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう、1931年生まれ)さんと知り合う。1967年に帰国するまでにニューヨークで絵画技法に試行錯誤を重ね、新たな作風を確立した。

帰国後、1970年に大阪万国博覧会の具体美術祭りに参加するも、新規参加メンバーを多く加えた同協会に違和感を覚え、1971年10月に具体美術協会(1972年に解散)を脱退した。1970年より絵本の制作をはじめ、1973年に初の絵本(英文)「ポアン・ホワンけのくもたち」(アクリルとエアブラシを用いたユーモラスな画風)を刊行した。

1980年代以降は具体美術協会の再評価に伴い、国内外を問わず開催された関連展覧会に参加、絵本原画展も数多く開催し、2001年に中辻悦子さんと共作として、全長30メートルの巨大アスレチック遊具型阪神淡路大震災復興モニュメント「ゆめ・きずな」を制作した。2007年以降は中辻悦子さんの作品も展覧した「もーやん えっちゃん ええほんのえ」展を各地で巡回した。1991年と2009年に三重県立美術館で大規模な回顧展を開催、2011年10月3日に前立腺がんのため、兵庫県宝塚市の病院で死去した。享年88歳。

開場時間は9時から21時(最終日は16時)。入場は無料。

注:「草間弥生」の「弥」、「浜辺万吉」の「浜辺万」は正しくは旧漢字です。原則として名詞は常用漢字を使用しています。

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