丸善日本橋で砥部焼展、梅山窯や春秋窯、貞山窯等9窯

【銀座新聞ニュース=2019年7月10日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月10日から23日まで3階ギャラリー特設会場で「砥部焼展-暮らしを彩る『用と美』の器」を開く。

丸善・日本橋店で7月23日まで開かれる「砥部焼展-暮らしを彩る『用と美』の器」に出品される作品。

愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器「砥部焼(とべやき)」を今もつくり続ける「梅野精陶所」の作品や、かつて「梅野精陶所」で制作し、現在は「春秋窯(しゅんじゅうがま)」(愛媛県伊予郡砥部町五本松888、089-962-2608)を構える陶芸家、工藤省治(くどう・しょうじ)さんら「砥部焼協同組合」(愛媛県伊予郡砥部町大南604、089-962-2018)に所属する9の窯元の作家の作品約2000点を展示販売する。

「梅野精陶所」の「梅山窯(ばいざんがま)」(愛媛県伊予郡砥部町大南1441、089-962-2311)は梅野政五郎(うめの・まさごろう、生没年不詳)が1882年に開窯し、今も地元では最大規模の窯元で、現在は岩橋和子(いわはし・かずこ)さんが代表を務め、約50人が制作などをしている。

ほかに、「春秋窯」や「岩田製陶所(貞山窯=ていざんがま)」の岩田健二(いわた・けんじ、1969年生まれ)さん、「雲石窯(うんせきがま)」の山田雅之(やまだ・まさゆき、1964年生まれ)さん、「永立寺窯(えいりゅうじがま)」の西岡秀典(にしおか・しゅうてん、1939年生まれ)さん。

梅野精陶所で修業した「岡田陶房」の岡田威(おかだ・たけし、1962年生まれ)さん、梅野精陶所で修業した「工房芥川」の芥川正明(あくたがわ・まさあき、1950年生まれ)さん、「勝部製陶所(東吉窯=とうきちがま)」の勝部東一(かつべ・とういち、1942年生まれ)さん、梅野精陶所で修業した「中田窯」の中田正隆(なかた・まさたか、1946年生まれ)さんが出品する。

ウイキペディアや砥部町観光協会、砥部焼協同組合によると、「砥部焼」は大洲藩(おおずはん)9代藩主の加藤泰候(かとう・やすとき、1760-1787)の時代に、藩の財政を立て直すため、砥石くずを使った磁器づくりを命じたことが起源とされている。

奈良・平安時代から、砥部・外山の砥石山から切り出される砥石は「伊予砥(いよと)」と呼ばれ、東大寺の「正倉院文書」には「観世菩薩像造立」の材料に、「伊予の砥」を用いたことが記されている。また、平安時代編さんの「延嘉式」にも伊予国産物として「外山産砥石」を随用すると記録されている。

しかし、伊予砥の生産の際に、砥石の切出しのときに出る砥石屑の処理が重労働で、その作業に御替地(伊予市)の村人が動員されていたが、負担が大きすぎて、村人は動員の免除を大洲藩に願い出るまでになった。

その頃、伊予砥の販売を一手に引き受けていた大阪の砥石問屋、和泉屋治兵衛(いずみや・じへえ、生没年不詳)が天草の砥石が磁器の原料となることを知り、大洲藩に伊予砥の屑石を使って磁器を生産することを進言した。和泉屋からの進言を受け入れ、加藤泰候は1775(安永4)年に家臣の加藤三郎兵衛(かとう・さぶろうべえ、生没年不詳)に「磁器」の生産を命じた。

加藤三郎兵衛は麻生村(現砥部町)の豪農、門田金治(かどた・きんじ、生没年不詳)に資金を出させ、現場の監督者に組頭の杉野丈助(すぎの・じょうすけ、生没年不詳)を選び、肥前の長与窯から5人の陶工を招き、五本松の上原に登り窯を築き、何回か試焼を行い、本焼も行ったが、地肌に大きなひびが入るなど、失敗の連続で、肥前の陶工は帰郷し、残された杉野丈助は本焼を続けた。最後には、赤松の薪もなくなり、家の柱や畳まで窯にくべたといわれている。

その様子を見ていた筑前の陶工、信吉(しんきち、生没年不詳)が釉薬原料の不良にあることを教え、杉野丈助は筑前に出かけ、新しい釉薬を探し、1776(安永6)年に白地に藍色の焼き物作りに成功した。これ以降、焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられた。

やや厚手の白磁に、呉須(ごす)と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴で、一般に食器、花器などに使われ、別名「喧嘩器」とも呼ばれている。

明治以降、砥部焼は中国などの外国に「伊予ボール」の名で輸出され、向井和平(むかい・わへい、1842-1904)が制作した「淡黄磁」が、1893(明治26)年にシカゴ世界博覧会で1等賞を受賞し、砥部焼の名は世界に知られるようになり、大正期に入ると、砥部焼は輸出が7割を超えるまでになった。

しかし、大正末期から昭和初めの不況などにより、砥部焼の生産や販売は落ち込み、一方で、瀬戸や美濃などの陶器は、石炭を使った倒焔式の窯や機械ロクロや石膏型、絵付けでの毛筆から銅板印刷へと新しい技術が導入され、砥部は近代化の波から取り残された。戦後になり、1953年に民芸運動の推進者である柳宗悦(やなぎ・むねよし、そうえつ、1889-1961)らが砥部を訪れ、手仕事の技術が残っていることを高く評価した。

1956年に陶芸家の富本憲吉(とみもと・けんきち、1886-1963)も訪れ、砥部焼の近代的デザインを後押しし、それに刺激を受けた若手陶工を中心に手作りのよさを生かして、ロクロや絵付けなどの技法向上に取り組み、1976年に砥部焼が国の伝統的工芸品に指定され、1995年に砥部焼の地球儀が国連ヨーロッパ本部に設置され、2005年に砥部焼が愛媛県の無形文化財に指定されている。

砥部焼協同組合は1888(明治21)年に「下浮穴・伊予両郡陶器業組合」として創立され、1903(明治36)年に重要物産同業組合法が公布され、輸出に力を入れるため「伊予陶磁器同業組合」に改組され、1934(昭和9)年に工業組合法の施行により、「伊予陶磁器工業組合」に改組され、1944(昭和19)年に商工組合の規定に従い、「伊予陶磁器工業統制組合」に移行された。

1947年に商工協同組合法が公布され、「伊予陶磁器工業協同組合」に改組され、組合員数が40人以上になり、1949年に中小企業協同組合法により、「伊予陶磁器協同組合」に改組され、2003年に「砥部焼協同組合」に変更された。

工藤省治さんは1934年青森県生まれ、1953年に岩手県立水沢高校を卒業、1957年に砥部焼「梅野精陶所」に入所、1964年に第1回丸善クラフトセンター賞を受賞、1974年に研究工房「春秋窯」を設立、1989年に第17回国井喜太郎(くにい・きたろう、1883-1967)産業工芸賞を受賞した。

1992年に伝統産業展生活産業局長賞、2001年に経済産業大臣デザイン功労者として表彰され、2004年に「卓越した技能者」として表彰され、2007年に黄綬褒章、2015年3月に愛媛県無形文化財砥部焼技術保持者に認定されている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。入場は無料。税込で1万円以上購入すると、送料無料で配達してくれる。

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