永谷商事が神田紅佳と隅田川、浜離宮巡り

【銀座新聞ニュース=2019年7月5日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は7月11日に神田紅佳さんによる「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

7月11日に開かれる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「隅田川水上バス-初夏の浜離宮庭園散歩」を案内する神田紅佳さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談を鑑賞する。

今回は二ツ目の講談師、神田紅佳(かんだ・べにか)さんと一緒に「隅田川水上バス-初夏の浜離宮庭園散歩」と題して、水上バスを使って隅田川ライン下りの後、浜離宮恩賜庭園を案内し、その後、「カレッタ汐留」を散歩して、お江戸日本橋亭に移り、昼食後に「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

コースは東京メトロ銀座線「浅草駅」に集合して、浅草吾妻橋乗船場(台東区花川戸1-1-1)から東京都観光汽船(とうきょうみやこかんこうきせん)の水上バスに乗って「隅田川十二橋巡り」を経て、「東京都立浜離宮恩賜庭園」(中央区浜離宮庭園1-1、03-3541-0200)を歩き、「カレッタ汐留」(港区東新橋1-8-1)を散歩してからお江戸日本橋亭に移る。

「隅田川十二橋巡り」とは吾妻橋(あづまばし)、駒形橋(こまがたばし)、厩橋(うまやばし)、蔵前橋(くらまえばし)、両国橋(りょうごくばし)、新大橋(しんおおはし)、清洲橋(きよすばし)、墨田川大橋(すみだがわおおはし)、永代橋(えいたいばし)、中央大橋(ちゅうおうおおはし)、佃大橋(つくだおおはし)、勝どき橋(かちどきばし)の12橋を下ることをいう。

吾妻橋は1774年に架けられた橋で、それまでは「竹町の渡し」という渡し舟があった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋で、1786年の大洪水で永代橋、新大橋が流され、両国橋も大きな被害を受けたが、吾妻橋だけ無傷だった。初めは「大川橋」と呼ばれていたが、明治になって1876年に「吾妻橋」という名称が決まった。現在の橋は1931年に架け替えられた。

駒形橋はかつて「駒形の渡し」があった場所に関東大震災(1923年)後の1927年に架けられた橋で、橋の名は、橋の西にある「駒形堂」から付けられた。

厩橋は江戸時代の元禄期(1688年から1703年まで)から「御厩(おうまや)の渡し」とされた場所に、1874年に架けられた橋で、橋の名は「御厩河岸」という浅草蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があったことから付けられた。1872年に花見客を乗せた渡し舟が転覆(てんぷく)した事故が起こり、橋が架けられ、関東大震災後の1929年に現在の橋が完成した。

蔵前橋はかつて「富士見の渡し」の渡船場があった場所に、関東大震災後の1927年に架けられた。名称は「蔵前通り」から付けられている。橋全体が黄色に塗装されており、1954年から1984年まで蔵前国技館があったため、高欄には力士などのレリーフが施されている。

両国橋は1659年から1661年ころに架けられた橋で、千住大橋(せんじゅうおおはし)に続く隅田川2番目の橋だ。当初は「大橋」と名づけられたが、武蔵国と下総国(しもうさのくに)の2国を結ぶことから俗に「両国橋」と呼ばれ、1693年に「新大橋」が完成すると、正式に「両国橋」とされた。

江戸幕府は隅田川には千住大橋しか認めていなかったが、1657年の明暦の大火により、橋がなく逃げ場を失った人が亡くなり、その数は10万人とされた。このため、両国橋が架けられた。その後、何回か架け直され、今の橋は1932年に震災復興事業として架けられた。橋の途中に円形のバルコニーがあり、土俵になっていて俵も回してある。高欄の柱や車道・歩道の分離柵にも行司の軍配をデザインしている。

新大橋は元禄時代の1693年に架けられた隅田川3番目の橋で、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644-1694)がこの橋のことを俳句に詠んでいる。新大橋は破損、流出、焼落などにより20回以上も架け替えられ、享保年間(1716年から1735年)には幕府が廃橋を決めたが、町民衆の嘆願により、諸経費を町方がすべて負担することを条件に1744年に存続が許された。

橋の中央近くに江戸時代、明治時代の新大橋のレリーフと橋のいわれが記された銅板がはめこまれている。この橋は、関東大震災や1944年から1945年にかけての東京大空襲の際にも、隅田川に架かる5大橋(永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住橋)の中で、唯一被災しなかった橋で、「人助け橋」ともいわれている。現在の橋は1977年に完成している。

清洲橋はかつて「中州の渡し」という渡船場があった場所に、震災復興事業として永代橋とともに計画され、1927年に深川の清澄町と日本橋の中洲町を結ぶ橋として建設され、名称は公募した上で両方の町名から採られた。建設当時、「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるように設計され、そのモデルはドイツのケルン市にあった大吊り橋を基にしている。

墨田川大橋は首都高速道路の建設にあわせて1979年に架けられた橋で、隅田川では唯一の2層式構造となっている。

永代橋はかつて「深川の渡し」のあった場所に1698年に江戸幕府5代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)の50歳を祝って建設された隅田川4番目の橋だ。新大橋と同様、幕府は1719年に永代橋の廃橋を決めるも、町民衆の嘆願により、諸経費を町方がすべて負担することを条件に存続を許された。

しかし、1807年に深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こし、1500人以上が落下で亡くなった。1897年に鉄橋が架けられたが、道路橋として日本では初めてだった。関東大震災で被災し、1926年に現在の橋が再架橋された。

中央大橋は1993年に完成した斜張橋で、隅田川がフランスのセーヌ川と1989年に「友好河川」を提携したことから、設計をフランスのデザイン会社に依頼、主塔および欄干部分に日本の「カブト」を意識した意匠が施されている。

また、上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長から東京都に友好の印として贈られ、ベラルーシ・ビテプスク生まれの彫刻家、オシップ・ザッキン(Ossip Zadkine、1890-1967)の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が座している。夕刻から22時まで白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされる。その特徴的な橋の形は遠くからでも見分けられる。

佃大橋は江戸時代から320年以上も続いた隅田川最後の渡船場「佃の渡し」があった場所に架けられた橋で、1964年に完成した。1964年の東京オリンピック開催に備えた橋として、戦後初めて隅田川に架橋された。当時、佃島と月島を隔てていた佃川はこのために埋め立てられ、島であった佃島は地続きとなり、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となった。

勝どき橋は1905年に「日露戦争」における旅順陥落祝勝記念として「勝どきの渡し」が設置され、1929年に「東京港修築計画」に伴って、架橋計画が策定され、1940年に迎える「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定だった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画により、日本の技術力を世界に誇示するため、アメリカ・シカゴにある跳ね橋をモデルにし、すべて日本人の手で設計施工された。

日本万博は中止されたが、勝どき橋は1940年に完成された。建設当時は隅田川を航行する船舶が多かったため、3000トン級の船舶が航行できるよう、可動橋として設計され、跳開(ちょうかい)により大型船舶の通航を可能とした。完成当時は「東洋一の可動橋」といわれたが、その後、隅田川を航行する船舶が減少し、1970年11月29日の開閉を最後に「開かずの橋」となっている。

また、当初から路面電車用のレールが敷設され、1947年から1968年まで橋上を都電杉並線が通行した。橋の名称は「勝どきの渡し」からつけられ、「勝どきの渡し」は1940年に廃止された。2007年6月に都道府県の道路橋として初めて清洲橋、勝どき橋、永代橋が国の重要文化財(建造物)に指定されている。

「東京都立浜離宮恩賜庭園」は江戸時代の当初、将軍家の鷹狩の場であったが、1654年に甲府藩主で、徳川家光(とくがわ・いえみつ、1623-1651)の3男、徳川綱重(とくがわ・つなしげ、1644-1678)がこの地を拝領(はいりょう)し、埋め立てて別邸を立てた。

その後は甲府藩の下屋敷として使用され、徳川綱重の子である徳川家宣(とくがわ・いえのぶ、1662-1712)が6代将軍になると、将軍家の別邸とされ、「浜御殿」と呼ばれ、大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園が整備された。幕末には外国人接待所として石造洋館である「延遼館(幕府海軍伝習とん所)」が建設された。

明治維新後も「延遼館」は鹿鳴館(ろくめいかん、現大和生命ビルの地)が1883年に完成するまでは迎賓館として使用され、明治に宮内省の管轄となり、名前も「浜離宮」と改められ、1945年に東京都に下賜され、1946年に都立庭園として開園され、1952年に旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定された。

カレッタ汐留は電通が1997年に国鉄清算事業団が実施した汐留貨物駅跡地の公開入札に応募し、落札した。1999年秋に着工、2002年11月1日に竣工、12月1日に開業した。敷地面積は1万7244平方メートル、 電通本社ビルが地下5階、地上48階で高さが210メートル、汐留アネックスビルが地下3階、地上9階、高さが61メートル。総延床面積(全施設計)約23万2290平方メートル。

電通本社ビルのうち、地下2階から地上3階までと46階と47階はレストラン・ショッピングゾーン「カレッタ汐留」と呼んでいる。46階と47階には無料展望台があり、10時から23時まで一般に開放されている。低層部北側は電通四季劇場「海」が入っているほか、地下1階と地下2階にはアドミュージアム東京があり、広告やマーケティングに関する展示を行っている。

神田紅佳さんは福岡県生まれ、2013年5月に神田紅(かんだ・くれない)さんに入門、2017年10月に二ッ目に昇進している。

時間は10時に東京メトロ銀座線「浅草駅」に集合して、昼ころにお江戸日本橋亭に移り、神田紅佳さんらの寄席を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円。水上バス代(1040円)、浜離宮庭園(入園料は一般300円、65歳以上150円)などは自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からの日本橋お江戸寄席は前座の立川幸太(たてかわ・こうた)さん、二ツ目の三遊亭好吉(さんゆうてい・こうきち)さん、神田紅佳さん、真打の三遊亭遊之介(さんゆうてい・ゆうのすけ)さん、法律トークのミスター梅介(みすたー・うめすけ)さん、真打の昔昔亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)さんが出演する予定だ。