丸善日本橋で静岡の工芸展、駿・遠・豆州の流れ、実演も

【銀座新聞ニュース=2019年8月20日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は8月21日から27日まで3階ギャラリー特設会場で「静岡県郷土工芸品振興会」(静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)による「『ふじのくに』に伝わる匠の技 静岡県の郷土工芸展」を開く。

丸善・日本橋店で8月21日から27日まで開かれる「『ふじのくに』に伝わる匠の技 静岡県の郷土工芸展」のフライヤー。

「静岡県郷土工芸品振興会」(静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)が静岡県に点在する工芸品をまとめて展示販売する。

静岡県は駿州(すんしゅう、駿河国で駿府といわれた今の静岡市)、遠州(えんしゅう、遠江国=とおとうみのくに=で、現在の浜松市あたり)、豆州(ずしゅう、伊豆国で現在の沼津市付近)の3州が1871(明治4)年の廃藩置県(第1次府県統合)で足柄県の管轄になり、1876(明治9)年の第2次府県統合に今の形の静岡県が成立した。

静岡県郷土工芸品振興会によると、駿州では、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)隠居城である駿府城に隣接する浅間神社造営に際し、優れた名工や図工を全国各地から招へいし、その優れた技術が今日の静岡市の伝統工芸のルーツといわれている。

また、浜松を中心とした遠州では、昔から織物産地として有名であり、その中から優れた伝統工芸織りが誕生した。現在、静岡県では、自動車、楽器、家具、精密機械などの地場産業が発達しており、その温床となったのが、こうした伝統工芸であったとされている。

こうした流れを汲んで、静岡には多彩な伝統工芸品があり、優雅で雅やかな雛具、雛人形、蒔絵、漆器、自然の風合を生かした織り、染物、日常雑貨の価値を持ちつつ洗練された美しさを有する陶器、指物・各種木工芸製品など、それぞれが伝統技法にそって現在も脈々と受け継がれているとしている。

もう一つの地場産業である家具製造は、浅間神社造営の際の名工の技術を伝承したものであり、静岡県の伝統工芸品は、その作品が優れているというにとどまらす、静岡の産業のルーツでもあるという側面を持っている。

同じく出展者を紹介したフライヤー。

今回、出店しているのは、「駿河竹千筋細工(するが・たけせんすじ・ざいく)」(静岡竹工芸協同組合・静岡県静岡市葵区五番町3-11、:054-252-4924)、雛具の生産では全国の90%のシェアをもつ「駿河雛具」(静岡雛具人形協同組合・静岡県静岡市駿河区中野新田723、054-281-8432)、「駿河雛人形」(駿河雛人形伝統工芸士会・静岡県静岡市駿河区東新田4-10-21、にんぎょっ子内、054-257-3983)。

「下田脂松細工(しもだ・やにまつざいく)」(静岡県下田市大賀茂1057-2、0558-22-6689)、「熱海楠細工(あたみ・くすざいく)」(熱海楠家具工芸組合・静岡県田方郡函南町桑原1300-269、055-974-3731)、「井川メンパ」(静岡県静岡市葵区神明町9-11、054-271-8224)。

「静岡挽物(しずおか・ひきもの)」(静岡挽物組合・静岡県静岡市葵区片羽町8、白鳥工房内、054-271-0502)、「賤機焼(しずはたやき)」(秋果陶房・静岡県静岡市葵区柳町95、054-271-2480)、「駿河指物(するがさしもの)」(静岡木工芸組合・静岡県静岡市葵区幸町1-8、054-254-8702)。

「駿河漆器(するがしっき)」(静岡漆器工業協同組合・静岡県静岡市葵区田町7-71、054-253-8707)、「駿河塗下駄(するがぬりげた)」(静岡塗下駄工業組合・静岡県静岡市葵区清閑町9-22、054-253-4917)、「駿河張下駄(するがはりげた)」(静岡木製はきもの張加飾組合・静岡県静岡市葵区土太夫町21-1、054-255-4335)。

「駿河蒔絵(するがまきえ)」(静岡蒔絵組合・静岡県静岡市葵区桜木町3-9、054-255-5313)、「駿河和染(するがわぞめ)」(静岡市染色業組合・静岡県静岡市葵区川越町4-19、054-252-6092)、「焼津弓道具(やいづきゅうどうぐ)」(静岡県藤枝市仮宿1595-3、054-643-4912)。

「藤枝桐箪笥(ふじえだきりたんす)」(藤枝タンス商工業会・静岡県藤枝市本町1丁目5-16、054-641-3800)、「志戸呂焼(しとろやき)」、「掛川手織葛布(かけがわ・ておりくずふ)」(掛川手織葛布組・静岡県掛川市掛川551-2、掛川商工会議所内、0537-22-5151)、「遠州鬼瓦(えんしゅうおにがわら)」(鬼秀・静岡県袋井市堀越1-1-7、0538-42-2077)。

「森山焼(もりやまやき)」、「ざざんざ織」(あかね屋・静岡県浜松市中区中島2-15-1、053-461-159)、「浜松注染そめ」(浜松注染そめの会・静岡県浜松市東区将監町38-3、053-461-1883)、「みくりや染織」(小原屋・静岡県御殿場市萩原676、0550-82-0511)だ。

静岡県郷土工芸品振興会によると、「駿河竹千筋細工」は1840(天保11)年に岡崎の藩士、菅沼一我(すがぬま・いちが、?-1856)が静岡に立ち寄り、宿泊先「はなや」の息子、清水猪兵衛(しみず・いへえ)に技術を教えたのが始まりとされ、清水猪兵衛は多くの門弟を育て、菓子器や虫籠を作って、世間に広めたといわれている。1873(明治6)年4月にウィーンで開かれた国際博覧会に、日本の特産物として出品され、竹ひごのかもしだす繊細な雰囲気、東洋特産の竹の妙技は好評を博し、これを契機に多くの製品が海外へ輸出された。1976年に竹千筋細工は、伝統的工芸品の指定を受けた。

「下田脂松細工」は、江戸時代の下田・加賀屋から出た職人たちの優秀な技術と伊豆の山中から切り出された黒松を活かし、硯箱や銘々皿、小引き出しなど上品な指物細工として、現在まで受け継がれている。

黒松は木目が美しい木材だが、木によって堅さが異なり、木目も複雑な上、始末に悪い松やに(油分)がひじょうに多いため、細工をするのに手間がかかり、製品として作り上げるためには独特の技術が必要とされている。下田脂松細工は黒松のなかでも特に脂分の多い部分を使うことで、作品に透明感を活かし、木目の美しさが強調されている。しかも、全国でも黒松だけを指物として加工している工芸品は下田脂松細工だけという。

「熱海楠細工」は伊豆一円で豊富に生育している楠を素材に、天然漆で仕上げられ、木目の美しさ、香り、防虫効果が特徴としている。発祥は、1837(天保8)年頃、熱海不動沢で楠の巨木が倒れ、地元の村人がその木目の美しさから、楠を材料に日用品を作ったのが始まりといわれている。

熱海は温泉客の多い土地柄なので、楠で作った膳や盆、椀、小箱などを湯治客相手に販売したところ、好評を得て、箪笥から煙草盆まで注文に応じて幅広く作られた。しかし、戦後、観光資源の急激な変化と、プラスチックなどの新材料を素材にする競合製品の追い上げで、小物類の受注量は大幅に減り、一時は34もあった事業所も現在は3事業所のみになっている。

「井川メンパ」は、今でいえば弁当箱のことで、天然漆の美しい光沢と長年の使用に耐える丈夫さにある。幅の広い山桜の皮で縫い止め、板と板の継ぎ目には漆を塗って固め、これによって丈夫さが増し、古くなっても漆を塗り直せば何年でも使えるという利点がある。

その起こりとなった井川の曲物は、鎌倉時代から作られ、室町時代に井川には金山が栄え、金山の水替えに杓(ひしゃく)や曲桶が必要とされたため、井川の小河内あたりでは盛んに曲物が作られたといわれている。

江戸時代末期になると、井川メンパは山村農民の生活用具としてでなく、農村の副業生産物として近隣へ販売され、井川の曲物に漆塗りの技術が加わり、現在の井川メンパが誕生した。井川メンパは、大きさによって男持ち、女持ち、菜メンパの3種類があり、形は丸形と小判型がある。

「静岡挽物」は銘木商の酒井米吉(さかい・よねきち)が1864(元治元)年に静岡市下石町で挽物業を開業したのがはじまりとされている。酒井米吉が箱根山で足に怪我をし、たまたま通りかかった小田原の米穀商、戸倉常次郎に助けられたが、足の怪我はひどく、銘木商を続けることができなくなり、戸倉常次郎より箱根湯本の挽物職人を紹介され、挽物技術を習得し、多くの人に技術を修得させ、現在まで伝承されてきた。

当時は、足の力でろくろを回転させながら作業を行っていたが、1897年(明治30)年頃より蒸気機関が導入され、静岡では1907(明治40)年頃に機械化され、1914(大正3)年には蒸気機関から電動機に転換された。静岡における木工挽物旋盤の保有は、1945(昭和20)年頃までは10社たらずだったが、1950年頃からアメリカ向け輸出用挽物の生産が始まると増加した。

「賤機焼」は交跡(こうし)焼といって、温度が約900度で釉薬と土との馴染みが悪く、脆かったため、製品として残るものは少なかったが、江戸時代から現在まで続くものに「鬼福」という意匠がある。

徳川家康が駿府に在城の頃、賤機山麓(現在の浅間神社のある山麓あたり)に25石の朱印地と賤機焼の称号をもらい、徳川家の御用窯として太田七郎右衛門(おおた・しちろうえもん)が賤機焼をはじめた。数百年にわたり徳川家の御用窯として保護をうけ、代々駿府城や久能山東照宮、浅間神社の御用窯として栄えたといわれている。

賤機焼は、文政(1818年から1831年)の終わり頃に急に衰退した。これは安倍川が大氾濫し、そのとき窯場も流れ去ったためとされている。一時途絶えた賤機焼は、明治に入り、太田万治郎(おおた・まんじろう)の手で再興されたが、かつてほどの盛況は蘇えらせることはできず、明治中期、静岡県は郷土産業の一つとして賤機焼の再興を考え、八番町に窯を築いていた青島庄助(あおしま・しょうすけ、?-1912)を招いた。

2代目の青島五郎(あおしま・ごろう)は、常滑(とこなめり)の技術を導入し、従来の賤機焼に創意を凝らし、新しい焼物を試み、3代目青島秋果(あおしま・しゅうか)の手によって、地方色豊かな焼物に生まれ変わった。

蒔絵は漆器に漆などを塗り、金銀の粉などを蒔(ま)き、絵や模様などを描いたものをいうが、「駿河蒔絵」は1828(文政11)年頃、信州飯田の画伯天領(がはく・てんりょう)が駿府に住む塗師、中川専蔵(なかがわ・せんぞう)に蒔絵の技術を教えたのがきっかけと伝えられている。

1830(天保元)年に江戸から小林留吉(こばやし・とめきち)、弟の小林遷次郎(こばやし・せんじろう)の兄弟が駿府を訪れ、漆器蒔絵の技術を伝授したことから当時の蒔絵技術が向上していった。この2人から教えをうけた人たちによって、後に駿河蒔絵の流派が生まれ、それぞれに特徴をもった蒔絵が生みだされた。

色粉蒔絵、トントン錆上(さびあげ)、高一(たかいち)、型紙など量産のための技巧と、平蒔絵、研ぎ出し蒔絵、錆上蒔絵、高蒔絵などの技法は他の産地の追随を許さないものがあるという。

「駿河和染」は今川時代(今川義元=いまがわ・よしもと、1519-15660=を中心とする時代)には木綿が盛んに作られ、八幡織木綿、中島紬などの織物の名もみられ、織物とならんで染色業も発達し、紺屋町ができ、型染や手描きの紋染が行われ、近郊農村では染料の藍の栽培が盛んに行われた。

江戸時代には、武家のために幟(のぼり)、旗差物(はたさしもの)、町家のためにのれん、伴天、作業衣など、また、祝儀物として筒描きによる定紋入り風呂敷などが染められ、旧安倍川の川筋に沿って多くの紺屋が繁盛したといわれている。

明治になると、交通の発達から他産地からの進出、機械染色の出現など近代化の波のなかで、紺屋の仕事も減少したが、大正後期に起こった民芸運動で、芹沢けい介(県工業試験場技師、人間国宝、せりざわ・けいすけ、1895-1984)が静岡やその他の地域に残る染色技術と芸術性の発掘に努力し、その成果が実って、新たな静岡における和染興隆の端著となった。

「焼津弓道具」は甲斐武田の家臣が今川時代、静岡に転居し、矢師を始めたのが最初といわれている。その後、この一帯は徳川幕府の直轄地となり、幕府は平民にも弓を持たせ、時折神社などに人々を集め競いあわせ、天下の大事に備えていた。このため職人も多く集まり今日に及んでいる。

弓は武道として武士の教育として生き残り、大正・昭和にかけては学校体育としてクラブ活動により発展し、戦後一時禁止されたが、その後、各地で弓道場が復活し、学生スポーツとして普及している。

「志戸呂焼」は、渋みがあり、深みがある古式豊かな風情を漂わせているのが特徴で、志戸呂焼が誕生したといわれる室町時代前から焼き物が盛んだったようで、多くの窯跡が残っている。

昔、大井川の西金谷の宿一帯が「志戸呂郷」と呼ばれており、そこで作られた焼き物であったことから、「志戸呂焼」と名付けられた。小堀遠州(こぼり・えんしゅう、1579-1647)に好まれ、「遠州七窯」の一つに数えられている。

志戸呂焼は第1期が15世紀後半で鉄釉(てつゆう)、灰釉(はいゆう)により天目茶碗、水注などが焼成された。第2期は16世紀後半で筒茶碗、徳利、香炉、小皿などがつくられた。第3期は17世紀前半から明治時代までとされ、黒釉を用いて壺、甕(かめ)、碗、皿などが生産された。

志戸呂焼は、大部分が褐色または黒釉を使った素朴な釉調で、いずれも古代色豊かな雰囲気を持っているのが特徴とされている。志戸呂焼に使う陶土は金谷一帯でとれ、鉄分が多く、なおかつ堅く焼けるので、湿気を嫌う茶つぼには、最適の土といわれている。

「掛川手織葛布」は、葛布が山野に自生するマメ科の植物葛の靭皮(じんぴ)繊維を織り上げた布のことで、地元では「カップ」と呼ばれ、掛川が葛布の特産地として歴史的に初めて認識されたのは鎌倉時代といわれ、武士の乗馬袴地に用いられた。

戦乱の時代には沈滞し、徳川の治世となると、葛布業も次第に回復し、掛川は東海道の宿場町としても栄え、時の藩主が葛布を掛川の特産品として保護奨励し、丈夫で水に強い葛布は裃地(かみしもち)や袴地、道中合羽などに珍重された。

明治に入ると、葛布は武家階級の転落と生活様式の急転によって大打撃を受けたが、襖地(ふすまち)として蘇り、明治30年代、襖からヒントを得て作った壁紙が「カケガワ・グラス・クロス」としてアメリカの壁紙界で好評を得た。

しかし、原料の葛苧(くずお)をほとんど韓国から輸入に頼っており、1965(昭和40)年過ぎ、韓国が日本への葛苧の輸出を禁止したため、掛川葛布は衰退した。

「遠州鬼瓦」は良質な土を使い、作る工程の中で、金ベラを使って何度も磨き上げることで銀色の独特の光沢が生まれてくる。駿府城築城の折、三河の瓦職人が移住し、巴川(清水)の良質な粘土を原料に、いぶし瓦を生産したのが始まりとされrている。その後、大井川、太田川、天竜川などの良質な粘土を産出する地域が産地として発展し、特に天竜川、太田川沿岸の県西部地区の瓦は、「遠州瓦」の名で高い評価を得た。

名倉勇八(なくら・ゆうはち)が明治初期、大東町で瓦と鬼瓦の製造を始め、2代目紋太郎(もんたろう)が浜松市で、3代目秀三(しゅうぞう)が袋井市に工房を作り、一時浜松に移ったものの、1946年より現在地において鬼瓦を制作し、4代目の孝(たかし)は1949年から3代目に弟子入りし、現在まで鬼瓦を制作している。

「森山焼」は1909(明治42)年、初代中村秀吉(なかむら・しゅうきち)によって始められた焼物で、森山焼の名称は、森町森山の地名を取って命名され、遠州七窯の一つ、志戸呂焼の流れを汲み、現在4つの窯元がある。

創始者、中村秀吉は森山の土が陶器に適していることから志戸呂より初代鈴木静邨(すずき・せいとん)を招き、陶業を始めた。最初は、粗陶器(土管、水瓶など)から出発し、失敗を重ねるうちに、一般家庭用の茶器、花器、酒器、食器などの小物を焼き、1915(大正4)年、天皇即位奉祝のために花瓶と置物を献上したところ、御嘉納となり、破格の感謝状を与えられた。

その後も良器の生産に努め、各地の陶磁器展に出品し、一段と声価を高めて「森山焼」の存在を世に知らしめた。

「ざざんざ織」はいわゆる紬(つむぎ)の織物で、創作者は平松実(ひらまつ・みのる)で、1928(昭和3)年に、柳宗悦(やなぎ・そうえつ、1889-1961)が提唱した民芸運動に深く共鳴し、自ら民芸運動の一翼をになって工芸的織物の創作を始めた。平松の家は、代々織物業を営んでいたが、機械によらない織物を創意工夫し、1929(昭和4)年に「ざざんざ織」を完成させた。

ざざんざは「颯々」とも書き、松風の音を表現したもので、古くに有名な松があり、足利将軍義教(あしかが・よしのり、1394-1441)が、その松の下で宴を催した折、「浜松の音はざざんざ…」と詠んでから、「ざざんざの松」と呼ばれるようになり、歌川広重(うたがわ・ひろしげ、1797-1858)の「東海道五十三次絵」(1833年)にも描かれている。1978年に静岡県無形文化財に指定された。

ざざんざ織は、紬の織物だが、一般の紬との違いは、ざざんざ織は、絹糸そのものがあるときは玉糸であり、あるときは手引糸で、これらの糸から引いた紡糸は太さ細さの変化があり、糸自体の出すムラがざざんざ織の持ち味とされている。

「浜松注染そめ」は、浴衣(ゆかた)と関係がある。浴衣の起こりは、平安時代、貴族たちが湯殿で着た湯帷子(ゆかたびら)が原型といわれている。やがて、湯上がりに涼を楽しむ庶民の着物になり、藍で色づけして町着、散歩着として愛用された。

浴衣産地浜松のルーツは、古く1887(明治20)年以降の手拭い染めに求めることができる。その技術を活かした形で、大正の初めごろから浜松で「浴衣染め」が始まり、これがいわゆる注染の始まりとなる。

当時、浴衣の生産は、江戸期以来の伝統を有する東京と大阪が中心だったが、1923(大正12)年の関東大震災を機に、首都圏から職人たちが水が豊富に流れ、強い風が吹き、染め物の生産に適した静岡県西部に流入しはじめ、注染技法による「浴衣染め」が普及した。

その後、浜松注染ゆかたは、その時折々の流行を取り入れ、白地に紺、あるいは紺地に白といった古来のシンプルなものから、多色染め、抜染染めなどの多くのデザインの変更が伴った。

期間中、職人が実演する。
21日から23日が「掛川手織葛布」の川出千通(かわで・かずゆき)さんが「糸つなぎ」を実演する。

24日と25日は「駿河竹千筋細工」の杉山茂靖(すぎやま・しげやす)さんが「編みまたはひご作り」を実演する。

26日と27日は「駿河塗下駄」の佐野成三郎(さの・せいざぶろう)さんが「卵殻張り」を実演する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)。

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