丸善日本橋で岡本太郎、草間弥生版画展、村上隆らも

【銀座新聞ニュース=2019年9月2日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は9月4日から10日まで3階ギャラリーで「コンテンポラリ-アート展 岡本太郎と草間弥生 版画特集」を開く。

丸善・日本橋店で9月4日から10日まで開かれる「コンテンポラリ-アート展 岡本太郎と草間弥生 版画特集」に出品される草間弥生さんの「かぼちゃ」(シルクスクリーン)。

今回は、前衛芸術家2人のコラボレーション企画で、岡本太郎(おかもと・たろう、1911-1996)と、世界でもっとも注目されている作家、草間弥生(くさま・やよい)さんの版画作品約20点を展示販売する。また、元永定正(もとなが・さだまさ、1922-2011)、村上隆(むらかみ・たかし)さんら現代美術家の作品も紹介する。

ほかに出品するのは、アメリカの画家、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928-1987)、ドイツの彫刻家、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921-1986)、建築家の黒川紀章(くろかわ・きしょう、1934-2007)、菅井汲(すがい・くみ、1919-1996)ら。

ウイキペディアなどによると、岡本太郎は1911年神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現神奈川県川崎市高津区二子)で、マンガ家の岡本一平(おかもと・いっぺい、1886-1948)、歌人で小説家のかの子(おかもと・かのこ、1889-1939)との長男として生まれる。慶応義塾普通部を卒業、1929(昭和4)年に東京美術学校に入学し(半年で中退)、1930年に父親の一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議を取材することになり、岡本太郎も東京美術学校を休学後、親子3人にかの子の愛人の青年2人を加えた一行で渡欧した。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごした。

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活し、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ(Victor Basch、1863-1944)教授に美学を学び、1938年頃からマルセル・モース(Marcel Mauss、1872-1950)の下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。1932(昭和7)年、両親が先に帰国し、パリで見送るが、母親のかの子は1939(昭和14)年に逝去したため、これが今生の別れとなった。

1932年、ジャン・アルプ(Jean Arp、1886-1966)らの勧誘を受け、美術団体「アプストラクシオン・クレアシオン協会」のメンバーとなり、1940(昭和15)年、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国、滞欧作「傷ましき腕」などを二科展に出品して受賞した。

1942(昭和17)年に大東亜戦争下で、補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征した。最下級の陸軍2等兵扱いで、この頃、上官の命令で師団長の肖像画を描いている。1945(昭和20)年に敗戦になると、長安で半年ほどの俘虜生活を経たのち帰国し、佐世保から東京に到着するも、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、制作に励み、1947年に新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年に花田清輝(はなだ・きよてる、1909-1974)らとともに「夜の会」を結成、この頃、平野敏子(ひらの・てるこ、1926-2005)と出会い、敏子は後に秘書・養女となり、岡本が逝去するまで支え続けた。1950年に「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」を創立、1954年に東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、1960年代後半にメキシコを訪れ、滞在中に現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受け、「明日の神話」を制作した。

1970年に大阪で万国博覧会が開かれることになり、国からテーマ展示のプロデューサー就任を要請され、承諾すると、出来上がったのが「太陽の塔」だった。1975年に「太陽の塔」の永久保存が決定し、現在も大阪のシンボルとなっている。1950年代からバラエティ番組やクイズ番組などに出演し、1970年代以降には日本テレビバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」にレギュラー出演している。1984年、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章した。

1989年にフランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章、1991年、80歳で自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈し、市は美術館建設を計画、1996年1月7日に患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶応義塾大学病院にて死去した、享年84歳。葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、1997年2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれ、1998年に青山の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。1999年10月30日に川崎市岡本太郎美術館が開館した。

草間弥生さんは1929年長野県松本市生まれ、1945年に大戦下に疎開してきた画家たちが立ち上げた「第1回全信州美術展覧会」に16歳で入選、松本高等女学校(現長野県松本蟻ヶ崎高校)を卒業、京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業、絵画技法を身につけるも、旧弊な日本画壇に失望し、松本の実家で毎日数十枚以上を描いた。

1957年にアメリカにわたり、ニューヨークを中心に活動、ハプニングと称される過激なパフォーマンスを実施し、ベネチア・ビエンナーレにも参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとり、平和・反戦運動にも携わった。1968年に自作自演の映画「草間の自己消滅」で第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞、第2回メリーランド映画祭でも受賞した。

1973年に体調を崩し日本へ帰国、入院し、1978年に処女小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表、1983年に小説「クリストファー男娼窟」で第10回野性時代新人文学賞を受賞、1993年にベネチア・ビエンナーレに日本代表として参加、2000年に第50回芸術選奨文部大臣賞、2001年に朝日賞、2002年に紺綬褒章、2006年に旭日小綬章、ライフタイムアチーブメント賞、高松宮殿下記念世界文化賞、2009年に文化功労者、2013年に東京都新宿区に個人美術館を建て、2014年に安吾賞、2016年に文化勲章を受章している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)。入場は無料。

注:「草間弥生」の「弥」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。