NUKAGAで、藤田嗣治「ヌード」展、「バラ」も

【銀座新聞ニュース=2019年9月28日】NUKAGA GALLERY(中央区銀座2-3-2、03-5524-5544)は9月26日から10月11日まで、藤田嗣治による「Nude」を開いている。

ぬかがギャラリー(NUKAGA GALLERY)で10月11日まで開かれている藤田嗣治の「ヌード(Nude)」に展示されている「横たわる裸婦(ユキ)」(1924年)。

レオナール・フジタと称し、フランス・パリで活躍した藤田嗣治(ふじた・つぐはる、1886-1968)が1920年代から1930年代前半に描いた裸婦像を中心に、同時代に描かれた静物画やデッサンを展示している。親友であったモディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884-1920)の死以降、その遺志を継ぐように裸婦を描き始め、1921年に開かれた第14回サロン・ドートンヌに大判の横たわる裸婦像を出品した。

後に「素晴らしき乳白色」と称えられる独特の白色下地に、鈴木春信(すずき・はるのぶ、1725-1770)や喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ、1753?-1806)らの浮世絵から発想を得た「黒く繊細な輪郭線で描かれた裸婦像はパリの観衆から絶賛され、以降、種々のサロンへの出品、画廊での展覧会を通してその名声を確立して」(ぬかがギャラリー=NUKAGA GALLERY)いった、としている。

同じく展示されている「横たわる裸婦(マドレーヌ)」(1932年)。

今回の出品作品「長い髪のユキ」(1923年)や「横たわる裸婦(ユキ)」(1924年)は、まさに藤田嗣治がこの真新しい技法でパリ画壇の寵児に上り詰める絶頂期の作品になる。モデルは藤田嗣治がその美しく雪のように白い肌から「ユキ」と呼んだ、3番目の妻リュシー・バドゥ(Lucie Badoud、1903-1966?)。

「横たわる裸婦(マドレーヌ)」(1932年)では、1930年代を通して藤田嗣治のミューズであったマドレーヌ・ルクー(Madeleine Lequeux、1906-1936)のしなやかな肢体が、伝統的な横たわる裸婦の構図で描かれている。

これらの裸婦像と同時に、本展では藤田嗣治の静物画の代表作「バラ」(1922年)、「マッチ箱のある静物」(1923年)も展示している。花瓶やその下に敷かれた「ジュイ布」、そしてマッチ箱といったパリ市民の身近な日常生活にあるものを、あるいはヨーロッパ絵画の伝統的主題である裸婦像を、乳白色の下地と墨を用いた細い輪郭線という西洋美術の文脈にない独自の様式で描き、新奇な質感とモノの見え方を藤田嗣治は提示した。

「やわらかい、押せばへこむやうな皮膚を通して画のもつとも重大な条件である『質』をかくことにした」と自身が述べたように、藤田嗣治が絵画に求めたものは、色彩でもモノの形態でもない、「質」という。ぬかがギャラリーでは、「本展では1920年代から1930年代前半にかけて、藤田が芸術の都パリで独自の技法と表現を確立し、新たな絵画言語を構築した時代の作品に集中して展示することにより、藤田が追求した『質』を見つめ直します」としている。

ウイキペディアなどによると、藤田嗣治は1886年東京都生まれ、1910年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を卒業、1913年にフランスへわたり、パリのモンパルナスに住み、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)らと交遊し、1917年に初めての個展を開催、1919年に「サロン・ドートンヌ」に初入選し、会員に推挙され、1925年にベルギーのレオポルド勲章を受勲した。

1931年にパリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由してアメリカへわたった。1933年に帰国、1934年に二科会会員となり、1938年から1年間従軍画家として中国大陸にわたり、1939年に日本に帰国した。その後、パリへ戻るが、第2次世界大戦が勃発し、1940年にドイツに占領される直前パリを離れ、再度日本に帰国した。

帰国後は戦争画を制作し、敗戦後の1949年にニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれた。1950年にパリへ移り、1955年にフランス国籍を取得、その後、日本国籍を抹消し、1957年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与された。1968年1月29日にスイスのチューリヒでガンのため81歳で死去、遺体はパリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに葬られ、 死後に日本政府から勲1等瑞宝章が授与された。

1935年に一時帰国した際に藤田君代(ふじた・きみよ、1911-2009)と出会い、1936年に3度目の結婚(過去2人はフランス人でいずれも離婚)をし、1939年にパリに戻り、1940年に帰国し、戦争画を「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」(藤田嗣治)が、戦後それをもとに戦争協力を批判され、パリに戻った後、フランス国籍を取得し、1959年から夫婦で洗礼を受け、「レオナール・フジタ」と名乗り、2度と帰国しなかった。

藤田君代はその後、パリ郊外の旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館したが、日本で「正しく評価しない以上、忘れてほしい」と出版物の刊行などを一切拒否してきた。近年、藤田君代監修で画集が発売されたり、2006年に国立近代美術館で戦争画が展示されたりしている。産経新聞2009年4月25日号によると、4月2日に東京で死去した藤田君代の遺骨はフランスのランスにあるレオナール・フジタが眠るフジタ礼拝堂に埋葬された。
開場時間は10時から18時。入場は無料。日曜日は休み。

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