ギャラリーセラー、概念芸術家・松沢宥の実像を探る展

【銀座新聞ニュース=2019年10月11日】ギャラリーセラー(中央区京橋3-9-2、宝国ビル、03-6225-2466)は10月15日から11月13日まで「松沢宥展《Sarira 還り骨》2019」を開く。

ギャラリーセラーで10月15日から11月13日まで開かれる「松沢宥展《サリア(Sarira)還り骨》2019」に出品される「Ψ(ぷさい)のマンダラのためのエスキース」(1966年)。

コンセプチュアル・アーティスト(概念芸術家)の松沢宥(まつざわ・ゆたか、1922-2006)について「没後12年 いま蘇る Ψ(ぷさい)の自然と超自然/宥池会(ゆうちかい)コレクションから」との副題で、松沢宥自ら「オブジェを消せ」、「人類よ、消滅しよう」、「美術の終焉(しゅうえん)」など、センセーショナルなコピーとコンセプトを続けざまにぶち上げ、1970年代には世界のアート・シーンを席巻したという、

1980年代以後は「量子芸術」という異次元の美の概念を提唱するも、12年前に周囲の理解がおよばぬうちに他界した。ギャラリーセラーでは松沢宥が「コンセプチュアル・アートの世界的な創始者」として祭り上げられているが、本当に松沢宥とは一体何ものだったのか?今後、何ものであろうとしているのか?あらためて、みなさんと自分自身に問いたい」としている。今回は二死を視よ、見えない予、ああニル荒野におけるなど20数点を展示する。

ギャラリーセラーでは、宥池会(ゆうちかい)との出会いがあり、この結社は、1850年代に設立され、2004年まで松沢宥の営為を物心両面で全面的にサポートし、「アイディアや情報を提供」し、「制作補助・資料整理・文献の蒐集(しゅうしゅう)また分析」などを続けてきたシンクタンクとでも呼べる存在という。

同じく出品される「Ψ 旅の九名物」。

特に、1998年の長野県内での松沢宥大回顧展以後は、「Ψ2 胎蔵」という未公開作品群を一種の危機管理から分散して保管しており、2006年の松沢宥没後は、仕事の意味をより正しいかたちで世界に普及させる方法を模索していた。

今回は、宥池会の協力により、「宥池会-松沢コレクション」から、長らく秘められてきた松沢宥の仕事の一端を展示紹介し、松沢宥の実像に迫ろうとする企画は、今後、数年にわたって開催予定としている。

松沢宥は長野県諏訪郡下諏訪町生まれ、1946年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業、1949年から諏訪実業高校定時制下諏訪分校で数学の教諭、1952年に第4回読売アンデパンダン展、第12回美術文化協会展に出品し、1954年に美術文化協会を脱退、1955年にアメリカ・ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招へいされ、1956年から1957年までコロンビア大学にて現代美術、宗教哲学を研究し、帰国した。

1964年に「オブジェを消せ」という啓示を受けたとされ、1966年に「人類よ、消滅しよう行こう行こう」という言葉を生み出し、垂れ幕にして会場に展示するなどのパフォーマンスを続けた。1970年の第10回日本国際美術展「人間と物質」展に参加し、1971年に樹上小屋「泉水入瞑想台」を完成させ、従来の発表活動からも離れた、独自の創作活動を続けた。

1976年のベネチア・ビエンナーレ、1977年のサンパウロ・ビエンナーレに参加、1988年に「量子芸術宣言 芸術のパラダイム・シフト」を刊行、1994年に山口県立美術館、1997年に斉藤記念川口現代美術館、2004年に広島市現代美術館で個展を開いた。自宅でもある下諏訪の「プサイ(ギリシャ語のψ)の部屋」と名付けられたアトリエは、過去に制作された情念的なオブジェなどで埋まり、半世紀近くにわたり東洋的な宗教観、宇宙観、現代数学、宇宙物理学などを組み入れながら思考を深め、そこから導き出された思想、観念そのものを芸術として表現しようとした。

コンセプチュアル・アートの先駆者の1人として、欧米にもその名を知られ、2006年10月15日に郷里の長野県下諏訪で84歳の生涯を閉じる。草間弥生(くさま・やよい)さんが頻繁に訪ね、師と仰いでいる。1922年2月2日生まれということから「2」という数字にこだわり、東京国立近代美術館でのパフォーマンスも2月22日に行っている。

15日17時からオープニングレセプションを開く。

開場時間は12時から18時。日・月曜日、祝日は休み。

注意:「松沢宥」の「沢」、「草間弥生」の「弥」はいずれも正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。