永谷商事、田辺いちかが佃島を散歩

【銀座新聞ニュース=2019年10月17日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸上野広小路亭」(台東区上野1-20-10、上野永谷ビル、03-3833-1789)は10月21日に田辺いちかさんによる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が10月21日に開く「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で、「江戸情緒・佃島をぐるり散歩」と題して、佃島を散歩しながら案内する田辺いちかさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談を鑑賞する

今回は2ツ目の講談師、田辺(たなべ)いちかさんが「江戸情緒・佃島をぐるり散歩」と題して、「佃天台地蔵尊」(中央区佃1-9-6)、「佃波除稲荷神社」(中央区佃1-8-4)、「佃渡し船場跡」(中央区湊3-18)、「住吉神社」(中央区佃1-1-14)、「石川島灯台跡(佃公園)」(中央区佃1-11)、「佃島砲台跡」(中央区月島1-1-8)、「月島もんじゃストリート」(中央区月島9)、「月島観音」(中央区月島3-4-11)を回って、お江戸上野広小路亭に移り、しのばず寄席を鑑賞する。

ウイキペディアなどによると、「佃島」は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師が幕府の許可を得て築造した漁村とされている。徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が1582(天正10)年に京都から堺の地にいた時、本能寺の変が伝えられ、徳川家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟がなく進めなくなった。

そこに現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門(もり・まごうえもん)と彼が率いる漁民たちで、徳川家康らに漁船を提供した。これにより、徳川家康らは生きて岡崎に戻ることができた。後に徳川家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、1613(慶長18)年に「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁ができるようにした。

1644(正保元)年には現在の地に百間四方の土地を埋立てて営造し、故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を「佃島」と命名した

一方、中世において隅田中川の河口部に位置していた島を、1626(寛永3)年、旗本の石川八左衛門重次(いしかわ・やざえもん・しげつぐ、1561-1614)の子孫が徳川家光(とくがわ・いえみつ、?604-1651)から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼ばれた。

「佃天台地蔵尊」は江戸時代の1715(正徳5)年から1738(元文3)年に在住した上野寛永寺崇徳院宮法親王(うえのかんえいじ・すとくいんのみやほう・しんのう)が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き、江戸府内の寺院にたまわり、地蔵尊造立と促されたと伝えられている。

1723(享保8)年に寛永寺の大明院宮(だいみょういんのみや、公弁法親王=こうべんほっ・しんのう、1669-1716)、崇徳院宮、随宜楽院宮(公遵法親王=こうじゅんほう・しんのう、1722-1788)の3代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松を手植えされたので、地蔵寺といわれた。

他方で、浄名院第38世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、8万4000体石地蔵尊の建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられている。

「佃波除稲荷神社」は創建時期、由緒とも不明となっており、扁額に「正一位波除稲荷大明神」」とあり、伏見稲荷大社からの勧請であるとされている。また、中央区内の築地に「波除稲荷神社」があり、そこからの勧請ではないかと見方もある。御祭神は不明だが、「稲荷大神」とも「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」ともされている。

近くには、住吉神社、森稲荷神社があり、森稲荷神社は「佃住吉講」によって管理されており、「佃波除稲荷神社」も佃住吉講が管理している。鳥居脇に置かれた3個の力石(さし石)は、中央区有形民俗文化財に指定されている。楕円形の安山岩で、「さし石」と刻まれている。「さし石」とは、この力石を持ち上げる動作を「さす」とか「あげる」といったことによる。佃島の若い漁業従事者らが、大正から昭和初期頃まで力競べを行っていたという。

中央区によると、「佃渡し船場跡」は、徳川家康が摂津国佃村から漁民を呼び寄せ、干潟を埋め立てさせ佃島と命名し住まわせた時から始まり、この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に1645(正保2年)に通ったのが佃の渡しだ。

1876(明治9)年には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、1926年(大正15)年に東京市の運営に移り、1927(昭和2)年3月に無賃の曳船渡船となった。「佃島渡船」の石碑は、佃と対岸の湊にあり、東京市が渡船場の諸施設の完成と、手漕ぎを廃止して曳舟渡船を開始した1927(昭和2)年に建てられた。1964年8月に佃大橋完成により、三百余年の渡船の歴史を閉じた。

「住吉神社」は天正年間(1573年から1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して徳川家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は徳川家康から西国海上隠密の用を受けたり、「大坂の役」(1614年から1615年)の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、大坂の役家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。

1590(天正18)年、徳川家康が関東下降の際、佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、1645(正保2)年には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180メートル)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。

この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃島」、村は「佃村」)と命名し、1646(正保3)年には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。

元禄7年(1694年)には、佃嶋(現・佃一丁目)に居住する男子からなる講組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって近現代に及ぶ。

明治時代には、月島と新佃島、昭和時代には晴海と豊海が埋め立てられ、また、人足寄場や監獄として利用されていた石川島が、1896(明治29)年に監獄移転に伴って、工業・居住の地となり、これらを含めた全島が氏子中に編入された。

1947年には、講組織「佃島氏子中」が「佃住吉講」と改称し、3年に一度の例祭(神幸祭)を執り行うようになった。獅子頭宮出し、宮神輿宮出し、古から行われていた神輿の海中渡御と船渡御は1962年に廃止されたが、1990年には28年ぶりに船渡御が復活し、現在でも例祭中重要な行事の一つとされている。特に、住吉神社が所有する神輿は関東では珍しい八角形のものであり、「八角神輿」や「八角」などと呼ばれている。また、古来、この祭りの際には高さ20メートルに及ぶ6本の大幟が立つ。

「石川島灯台跡」は石川島の灯台が1866(慶応2)年に石川島人足寄場(にんそくよせば=江戸時代に設けられた軽罪人の自立支援施設)奉行の清水純畸(しみず・じゅんき)が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので、6角2層の灯台だった。1990年から2000年にかけて「リバーシティ21開発」が行われたのと並行して整備された佃公園のモニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重(あんどう・ひろしげ、1797-1858)の浮世絵をレリーフしたものが3台設置されている。

「佃島砲台跡」は1864(元治元)年に佃島の南側に江戸湾の防衛施設として、砲台が建設された。東西約70メートル、南北約72メートルのほぼ正方形だったといわれており、その後、月島第1号埋め立て地の起点となり、埋め立て工事の過程で姿を消した。

「月島もんじゃストリート」は「月島もんじゃ振興会協同組合」に加盟している約70店舗で構成されている通りをいう。ウイキペディアによると、「もんじゃ焼き」は1819(文政2)年刊の「北斎漫画」に「文字焼き屋」のさし絵があり、この時代に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことがわかっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字(もんじ)焼き」と呼ばれ、これが訛って「もんじゃ」となったとされる。

現在に繋がるもんじゃ焼きのスタイルは戦後の昭和20年代に誕生し、東京都台東区浅草近辺が発祥地とされることが多いようである。当時盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈である東武伊勢崎線、旧奥州街道である国道4号などの集積地であるこの付近を基点に、関東の他の地域に伝播したと言われている。

都内全域に分布しているわけではなく、古くからの店が残るのは墨田区、江東区、台東区、葛飾区、足立区、荒川区などの下町に限られ、山の手地区においても繁華街でもんじゃ焼きを提供する店は月島と浅草とされている。

中央区月島の「西仲通り商店街」は「もんじゃ焼きの街」とか「もんじゃストリート」と呼ばれ、歴史のある店は数店であり、ほとんどは1980年代後半の「もんじゃブーム」で他の商店からくら替えしたものとされている。大半の店はもんじゃ焼きだけではなくお好み焼きも提供している。

東京都中央区の歴史によると、「月島観音」は1951年に地元の篤志家、柴崎家により寄進を受け、長谷川高次郎(はせがわ・こうじろう)の秘蔵の観世音菩薩を信州善光寺大本願において入魂した上で、一光三尊如来と共に下附され、安置された小さな堂が路地の奥に建てられたのが始まりで、2001年に再開発によって建てられた現在のビル内の以前とほぼ同じ場所に移設された。正式名称は「信州善光寺別院本誓殿 月島開運観世音」といい、開運、祈願成就、遺失物発見、病気平癒にご利益があるとされている。毎月27日に縁日が開かれている。

田辺いちかさんは福岡県北九州市生まれ、2001年に京都府立大学文学部国文学中国文学科を卒業、、2000年に在学中に中国・長安大学の日本語教師に就任、2001年に京都府立大学を卒業、2001年に帰国し、大阪で演劇を勉強し、2003年に東京のプロダクションに所属し、舞台俳優と声優として活動、2014年に田辺一邑(たなべ・いちゆう)さんに弟子入りし、「田辺いちか」として前座、2019年3月に二つ目に昇進した。

時間は10時に東京メトロ有楽町線月島駅に集合し、12時過ぎにお江戸上野広小路亭に移り、13時から「しのばず寄席」を観賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。希望者は永谷商事まで電話で申し込む。

しのばず寄席は前座の立川幸太(たてかわ・こうた)さん、二ツ目の立川らく人(たてかわ・らくと)さん、真打の桂枝太郎(かつら・えだたろう)さん、バイオリン弾きの福岡詩二(ふくおか・うたじ)さん、真打の桂南(かつら・なん)なんさん、田辺いちかさん、太神楽の丸一小助(まるいち・こすけ)さん、小時(ことき)さん、真打の三遊亭楽之介(さんゆうてい・らくのすけ)さんが出演する予定だ。