永谷商事が田辺一邑と歩く「樋口一葉と酉の市」、鬼子母神も

【銀座新聞ニュース=2019年11月1日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸上野広小路亭」(台東区上野1-20-10、上野永谷ビル、03-3833-1789)は11月8日に田辺一邑さんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

11月8日に開かれる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「樋口一葉記念館と酉の市(一の酉)」を案内する田辺一邑さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画で、その後、お江戸上野広小路亭で定席を鑑賞する。

今回は真打の講談師の田辺一邑(たなべ・いちゆう)さんが「樋口一葉記念館と酉の市(一の酉)」と題して、東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」から「樋口一葉旧居跡」(台東区竜泉3-15-3)、「樋口一葉記念館」(台東区竜泉3-18-4、03-3873-0004、入館料300円)とまわる。

そこから「飛不動(とびふどう、龍光山正宝院=りゅうこうざん・しょうほういん)」(台東区竜泉3-11-11)、「鷲神社(おおとりじんじゃ)」(台東区千束3-18-7)、「入谷鬼子母神(いりやきしもじん、真源寺=しんげんじ)」(台東区下谷1-12-16、03-3841-1800)と歩いて、その後、お江戸上野広小路亭で定席を鑑賞する。

ウイキペディアによると、樋口一葉(本名は夏子、戸籍名は奈津)は1872(明治5)年3月25日東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現東京都千代田区)の長屋で生まれ、父は樋口為之助(ひぐち・ためのすけ、則義=のりよし)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第5子で、一葉は次女。姉のふじ、兄に泉太郎(せんたろう)、虎之助(とらのすけ)がおり、妹くにが生まれている。

樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現山梨県甲州市塩山)の長百姓で、祖父の八左衛門(やざえもん)は1871年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しみ、横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手している。父の則義も農業より学問を好んだ。多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。

則義は蕃書調所使用人となり、1867(慶応3)年に同心株を買い、幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、1876(明治9)年に免職され、1877(明治10)年には警視庁の雇となり、1880(明治13)年には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れ、職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていた。

一葉は1877(明治10)年に本郷小学校に入るも、幼少のためにほどなく退学し、私立吉川学校に入学し、1881(明治14)年に次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りし、同年には下谷区御徒町へ移ったため、一葉も11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。

一方、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄(わだ・しげお)のもとで和歌を習わせ、1886(明治19)年に中島歌子(なかじま・うたこ、1845-1903)の私塾「萩の舎」に入門、和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学び、源氏物語などの王朝文学が、一葉の初期作品のモチーフになっている。

萩の舎は当時、公家や旧大名などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾で、一葉は士族とはいえ元農民出身であったため、「ものつつみの君」と呼ばれ、正月の新春恒例の発会が近づくと、親が借りてきた古着で出席した。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回、引っ越しをし、1888(明治21)年に長男の泉太郎が死去、父を後見に相続戸主となり、1889(明治22)年に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去した。

則義と同郷で上京後の則義を支援した真下晩菘(ました・ばんすう、1799-1875)は明治後に私塾「融貫塾」を営み、武蔵国南多摩郡原町田(東京都町田市)の渋谷仙次郎(しぶや・せんじろう)宅にその出張所があり、仙次郎の弟が晩菘の孫にあたる渋谷三郎(しぶや・さぶろう、後に阪本三郎、1867-1931)で、1885(明治18)年に一葉と三郎許婚の関係にあった。しかし、その婚約は、1889(明治22)年の則義の死後に解消される。則義の死後、樋口家には多額の借金があり、渋谷三郎から高額の結納金を要求されたことが原因とされる。

一葉は次男の虎之助を頼ったが、母と虎之助の折り合いが悪く、17歳にして戸主として一家を担う立場となり、1890(明治23)年には「萩の舎」の内弟子として中島家に住み、塾の手伝い料として月2円をもらう。同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り、母と妹と3人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられた。

一葉は「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃(たなべ・かほ、1869-1943)が小説「薮の鶯」で多額の原稿料を得たのを知り、1889年頃より小説を書くことを決意し、1891(明治24)年に数え20歳で「かれ尾花一もと」を執筆し、同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。同年4月には東京朝日新聞専属作家の半井桃水(なからい・とうすい、1861-1926)に師事し、指導を受け、1892(明治25)年3月に半井が「武蔵野」を創刊し、一葉は図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表した。

桃水はその後も一葉の面倒を見続けるも、次第に一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになり、そのため2人の仲の醜聞が広まり、一葉は桃水と縁を切り、幸田露伴(こうだ・ろはん、1867-1947)風の理想主義的な小説「うもれ木」を雑誌「都之花」に掲載し、出世作となる。その後、「雪の日」などの作品を「文学界」に発表した。吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉1丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、1894(明治27)年5月に店を引き払い、本郷区丸山福山町(現文京区西片1丁目)に転居し、この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となっている。

同年12月に「大つごもり」を「文学界」に発表し、1895(明治28)年に半井桃水から博文館の大橋乙羽(おおはし・おとわ、1869-1901)を紹介され、「文芸倶楽部」に「にごりえ」や「十三夜」などを発表、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14カ月」と呼ばれている。1896(明治29)年に「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が掲載されると絶賛を受けた。

しかし、肺結核が進行しており、8月に医師により「回復が絶望的」と診断され、11月23日に丸山福山町の自宅において、24歳と6カ月で死去した。葬儀は11月25日に身内だけで質素に築地本願寺で行われた。墓は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のち杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所へ移された。法名は「智相院釋妙葉信女」。1922(大正11)年には一葉の27回忌が行われ、この時、妹のくにが一葉の文学碑建造を計画し、地元有志らの出資により、東山梨郡大藤村中萩原(甲州市塩山)の慈雲寺境内に建てられ、同年10月15日に除幕式が行われた。

下谷竜泉寺に移り住んだのは1893(明治26)年で、7月20日に本郷菊坂町より引っ越しし、駄菓子・荒物屋を始めるも、商売がうまくいかず、1年後の1894年に終焉の地、本郷区丸山福山町(現在西片1丁目)へ移った。下谷竜泉寺の界隈を背景にして「たけくらべ」や「わかれ道」の題材を得ており、碑の位置は樋口一葉宅の左隣り酒屋の跡で、同じ番地の西端に近く碑より東方6メートルが旧居に当たる。

「たけくらべ」の舞台となった龍泉寺町(現竜泉)の人々は、その文学業績を永く後世に遺すべく、「一葉協賛会」を結成し、1949年に戦災で失った「一葉記念碑」を再建し、1951年に一葉記念公園に「一葉女史たけくらべ記念碑」を建設、1960年に旧居跡に「樋口一葉旧居跡碑」を建立した。

さらに、記念館建設をめざし、会員の積立金をもとに現在の用地を取得し、台東区に寄付をして記念館建設を要請し、1961年5月12日に開館した。その後40年余りを経て、老朽化が進んだことや樋口一葉が新5000円札の肖像に採用されたことを機に、2006年11月1日にリニューアルオープンした。

「飛不動」は1530年に本山派修験僧の正山上人(せいざんしょうにん)によって開かれた修験系天台宗の単立寺院だ。正山上人が和歌山県熊野から奈良県吉野にいたる大峯山で修行後、諸国を巡歴し、竜泉の地で村人に宿を施してもらい、ある日、正山上人が一筋の光と共に立ち昇る龍の夢を見、龍の夢は不動さまのご加護を象徴しており、正山上人が村人の息災延命と自らの旅の安全を祈って不動さまを刻み、この地に奉安した。

寺号は、龍が光を放ち空へ昇った夢に従い、「龍光山三高寺正宝院(りゅうこうざん・さんこうじ・しょうぼういん)と名付けた。以来、旅人の守り本尊として、災厄消除の祈願寺として信仰されている。

これに対して、創建後まもなく、寺の住職が、本尊のお不動さまを笈(おい、必要なものを入れて背負う箱)で背負い、大峯山まで修行にでかけたところ、本尊が留守の江戸の寺に不動さまの分身を携えた人々が集まり、不動さまを観想して一心に祈ると、不動さまが一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えてくれたといわれている。以来、「空を飛び来て、衆生を守りたもうお不動さま」といわれ、「飛不動尊」と呼ばれるようになった。

江戸時代の地図を見ると寺号より「飛不動」と記されているものが多く、「飛不動」は古くより、旅人の守り本尊として、旅先まで飛んできて守ってくださる「空飛ぶお不動さま」とされ、病魔や災難などを飛ばしてくださる「厄飛ばしのお不動さま」として信仰されてきた。

近代に入り、航空機の発達と「飛不動」が人々の間で結びつき、航空関係に携わる人たちや海外旅行などで飛行機を利用される人たちが、航空安全や道中安泰、旅行安泰を願い参拝している。また、航空安全はすなわち「落ちない」ということで、受験合格の祈願でお参りする人もいる。不動さまの縁日は28日で、本尊の開帳は12年ごとの酉歳に行われている。

「鷲神社」は創建については不明だが、祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られている。天照大御神が天の岩戸にかくれ、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞をまうと、楽器の弦を奏でられた。

命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸を開くと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまり、その様子を固唾をのんで見守っていた八百万(やおろず)の神々は、その光景を世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)として、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称した。天日鷲命は、開運、開拓の福神として鎮座されている。

祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征の帰途、鷲神社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをした日が、11月の酉の日であったことからその日に神さまをなぐさめる祭が行われるようになり、酉の市のはじまりとされ、酉の市に縁起物として熊手が売られている。鷲神社は寿老人を祀っており、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されている。

また、2019年の酉の市は一の酉が11月8日、二の酉が20日となっている。午前0時から24時まで1日開かれる。熊手が「かっこめ」といわれ、福運や財を「かき込む」という縁起から開運、商売繁盛のお守りとされ、熊手の店が並ぶ。

「入谷鬼子母神(真源寺)」は1659年に光長寺20世の日融(にちゆう)が法華宗本門流の寺院を開山したのがはじまりで、鬼子母神をまつっていることから「入谷鬼子母神」の名称で知られている。大田南畝(おおた・なんぽ、1749-1823)の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名である。また、江戸後期頃から朝顔栽培が盛んになり、それを人々に見せるために敷地内で栽培農家が披露したことが朝顔市のはじまりで、明治時代に入ってから有名になり、7月の七夕の前後に境内で開かれている。

真源寺の朝顔は全国でも指折りのできで、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人で混雑したが、その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり、1913(大正2)年になって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れた。しかし、1948年に地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後3日間(7月6日、7日、8日)に真源寺と付近の商店街で開かれている。

田辺一邑さんは1961年静岡県浜松市生まれ、1984年に横浜市立大学文理学部文科独語独文学専攻を卒業、日航情報開発などで10年以上システムエンジニアとして勤め、1997年に田辺一鶴(たなべ・いっかく、1929-2009)に入門して前座名が「一邑」、2000年に「二ツ目」、2009年に「真打」に昇進、2010年10月に静岡県浜松市「やらまいか大使」に就任、2016年11月に浜松市芸術文化奨励賞を受賞している。

時間は10時から12時(定席を鑑賞する場合は16時過ぎ)で、10時に東京メトロ日比谷線三ノ輪駅前に集合する。昼までにお江戸上野広小路亭に移り、11時50分から16時過ぎまで定席を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

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