日本橋三越で水谷八重子、河合雪之丞ら新派出演者が新年鏡開き

【銀座新聞ニュース=2019年12月31日】国内最大手の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングス(新宿区新宿5-16-10)傘下の三越伊勢丹(新宿区新宿3-14-1)が運営する日本橋三越(中央区日本橋室町1-4-1、03-3241-3311)は2020年1月2日に本館1階レセプションで三越劇場初春新派公演の出演者による「鏡開き」を開く。

日本橋三越の三越劇場で1月2日から20日まで開催される初春新派公演のフライヤー。

三越劇場で1月2日から20日まで新派による「明日の幸福」と「神田祭」が公演されるが、その初日に、出演する水谷八重子(みずたに・やえこ)さん、波乃久里(なみの・くりこ)さん、栗山航(くりやま・わたる)さん、河合雪之丞(かわい・ゆきのじょう)さん、喜多村緑郎(きたむら・ろくろう)さんらが鏡開きを行う。

劇団新派によると、「明日の幸福」は作家の中野実(なかの・みのる、1901-1973)が1954年に新派にむけて書いた戯曲で、毎日演劇賞と芸術祭賞を受賞した。今回、演出は成瀬芳一(なるせ・よしかず)さんが担当している。

「明日の幸福」は昭和30年頃のこと、経済同友会の理事長を務める松崎寿一郎の家ではその息子寿敏と妻恵子、孫の寿雄と富美子の3組の夫婦が同居しており、寿一郎は当時の家族らしく一家の権力者として君臨していた。ある日、寿一郎が国務大臣に決まりそうだとの知らせがきたので、寿一郎は推薦してくれた政治家に家宝の埴輪を贈ろうとする。

寿一郎の妻、淑子が大反対するも、寿一郎はそれをものともせず埴輪を蔵から出させるが、結局大臣の話は雲行きが怪しくなり、埴輪は恵子が蔵にしまう。そのときに落として脚を壊してしまう。

それから1カ月後、寿敏のもとに考古学者が埴輪を見たがっているとの連絡があり、快諾した寿敏に恵子はすべてを打ち明けることを決意するが、考古学者が途中で怪我をしたとの連絡が入り、告白する機会を失ってしまう。恵子のかわりに今度は富美子が埴輪をしまうが、突然帰ってきた寿雄に驚いて箱を落としてしまう。

ある日ついに埴輪の件が寿一郎の知るところとなる。自分が割ったと思い覚悟した富美子は正直に告白し、それをかばう寿雄の姿を見て、恵子は自分が割ったと名乗り出る。その時、淑子が泣きながら自分が割ったと告白する。埴輪を割ったことを告白できない家庭環境からどんなにつらい毎日を送っていたかと思い、恵子は家族の明日の幸せのために埴輪を叩き壊す。そこへ寿一郎が本当に大臣になったと新聞記者が押しかけ、女3人は高らかに笑いあった。

「神田祭」は江戸の3大祭の1つで、「天下祭」として知られる神田祭の祭礼の様子を清元の舞踊にした一幕で、1839(天保10)年に江戸三座の一つ・河原崎座(かわらさきざ、今の銀座のあたりにあった)で5代目市川海老蔵(いちかわ・えびぞう、1791-1859)により初演された。

江戸の風情が残る粋でいなせな鳶頭と芸者が登場し、祭の様子を踊って見せたり、色模様を見せたりと、情緒のある華やかな舞踊としている。

ウイキペディアによると、新派は1888(明治21)年に始まった日本の演劇の一派で、明治時代に始まった「壮士芝居」や「書生芝居」などをもとに歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達し、「旧派」の歌舞伎に対し「新派」と称された。

1888年(明治21年)12月、角藤定憲(すどう・まさのり、1867-1907)が大阪で「大日本壮士改良演劇会」を起こして不平士族の窮状を訴えた「壮士芝居(そうし しばい)」を始めた。新派では、これをもってその発祥とみなしている。1891(明治24)年3月には川上音二郎(かわかみ・おとじろう、1864-1911)が堺で「改良演劇」を謳った一座を興して「書生芝居(しょせい しばい)」を始めた。

壮士劇はすぐに廃れたが、自由民権運動の広告塔のような役割を果たした書生劇の方は大評判をとって、やがてこれが新派の骨格の一部として成長した。同年11月には伊井蓉峰(いい・ようほう、1871-1932)が浅草で「男女合同改良演劇」を謳った「済美館(せいびかん)」を旗揚げしたが、これが純粋に芸術を志向する演劇の嚆矢(こうし)となった。

1892(明治25)年7月に山口定雄(やまぐち・さだお、1861-1907)の一座が浅草に登場したが、ここで育成されたのが河合武雄(かわい・たけお、1877-1942)や喜多村緑郎(きたむら・ろくろう、1871-1961)らの女形だった。新派は離合集散を繰り返しながら人気を高めた。新派は歌舞伎の牙城歌舞伎座でも興行し、歌舞伎役者が新派の演目に出演することもあった。歌舞伎が「旧劇」や「旧派」であるのに対する呼称として「新派」と呼び分ける習いも1900年代初め(明治30年代)には定着した。

1939(昭和14)年に「劇団新生新派(しんせい しんぱ)」が結成されると、「本流新派(ほんりゅう しんぱ)」と「演劇道場(えんげき どうじょう)」が鼎立したが、1942(昭和17)年に本流新派と演劇道場は解散した。1945年10月から劇団新生新派が興行を再開し、1949年1月に一度分裂して乱れたが、収拾されて1951年12月に単一の「劇団新派」に統一された。

鏡開きは11時20分から。