ノエビアギャラリーで林忠彦「銀座」展、太宰治ら

【銀座新聞ニュース=2020年1月10日】国内化粧品業界第7位のノエビアホールディングス(兵庫県神戸市中央区港島中町6-13-1)傘下のノエビア(東京本社・中央区銀座7-6-15、03-5568-0300)が運営するノエビア銀座ギャラリー(中央区銀座7-6-15、ノエビア銀座ビル)は1月14日から3月27日まで林忠彦による「林忠彦の銀座 戦後の記憶」を開く。

ノエビア銀座ギャラリーで1月14日から3月27日まで開かれる「林忠彦の銀座 戦後の記憶」のフライヤー。

戦中・戦後を通じ第一線で活躍した写真家の林忠彦(はやし・ただひこ、1918-1990)が戦後の混乱期から復興期において、銀座の地で撮影した作品を展示する。

林忠彦は1918年山口県徳山市(現周南市)生まれ、祖父が1897(明治30)年に開いた林写真館の長男、1935(昭和10)年に徳山商業学校を卒業、大阪市の写真館で修業し、1936(昭和11)年に肺結核のため帰省し入院、1938(昭和13)年に上京し、オリエンタル写真学校に入学し、同年に卒業、その後、帰郷するも放蕩ぶりが問題になり、1939(昭和14)年に再度上京し、東京光芸社に入社した。

1941(昭和16)年に日本報道写真協会に入会、1942(昭和17)年に中国に渡り、石津良介(いしづ・りょうすけ、1907-1986)、大竹省二(おおたけ・しょうじ、1920-2015)、1936年に東京工芸社を設立した加藤恭平(かとう・きょうへい、1909-1983)らと在北京日本大使館の外郭団体として「華北弘報写真協会」を設立し、日本の宣伝写真を撮影した。

1946年に北京で敗戦を迎え、徳山へ復員、すぐに上京し、撮影活動を再開、11月25日に銀座のバー「ルパン」で織田作之助(おだ・さくのすけ、1913-1947)、太宰治(だざい・おさむ、1909-1948)、坂口安吾(さかぐち・あんご、1906-1955)らと知り合い、撮影した。1947年に秋山庄太郎(あきやま・しょうたろう、1920-2003)、石津良介らと写真家集団「銀龍社」を結成した。

1950年に日本写真家協会の創立に参加、1953年に秋山庄太郎、大竹省二、早田雄二((はやた・ゆうじ、1916-1995)と「二科会」に写真部を創設、1955年にミスユニバース日本代表選考会を撮影した「日本代表誕生」がバヤリース・フォト・コンテストの1等となり、日本代表の高橋敬緯子(たかはし・けいこ)さんらとともに初めてアメリカに渡り、ミス・ユニバース世界大会を取材し、その後、ニューヨークなどを撮影した。

1961年に日本写真家協会副会長、1971年に日本写真協会年度賞を受賞、日本写真協会理事、1972年に二科展に「織田広喜」を出品し、総理大臣賞、1980年に日中写真文化交流の復活のため日本写真文化訪中団に参加し訪中、1981年に日本写真家協会副会長を辞任、名誉会員、全日本写真連盟理事、1983年に紫綬褒章、1986年に4男の林義勝(はやし・よしかつ)さんの助けを借りて、最後のライフワーク「東海道」の撮影をはじめ、札幌市で脳内出血により倒れる。

1988年に勲4等旭日小綬章、日本写真協会功労賞、1989年に徳山市市民文化栄誉賞、1990年に個展「林忠彦の時代」のオープニングセレモニーで倒れ入院するも、12月18日0時27分に死去した。享年72歳。1991年に徳山市と徳山市文化振興財団によりアマチュア写真家振興の目的で「林忠彦賞」が創設され、周南市美術博物館には林忠彦記念室が設けられている。

開場時間は10時から18時(土・日曜日、祝日は17時)まで。入場は無料。

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