永谷商事が神田あおいと隅田川下り、浜離宮、汐留巡り

【銀座新聞ニュース=2020年3月28日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は4月3日に神田あおいさんによる「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

4月3日に開かれる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「隅田川水上バス-桜満喫コース(浅草-浜離宮)」を案内する神田あおいさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談を鑑賞する。

今回は真打の講談師、神田(かんだ)あおいさんと一緒に「隅田川水上バス-桜満喫コース(浅草-浜離宮)」と題して、水上バスを使って隅田川ライン下りの後、浜離宮恩賜庭園を案内し、その後、「汐留シオサイト」を散歩して、お江戸日本橋亭に移り、昼食後に「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

コースは東京メトロ銀座線「浅草駅」に集合して、浅草吾妻橋乗船場(台東区花川戸1-1-1)から東京都観光汽船(とうきょうみやこかんこうきせん)の水上バスに乗って「隅田川十二橋巡り」を経て、「東京都立浜離宮恩賜庭園」(中央区浜離宮庭園1-1、03-3541-0200)を歩き、「汐留シオサイト」(港区東新橋1-5)を散歩してからお江戸日本橋亭に移る。

「隅田川十二橋巡り」とは吾妻橋(あづまばし)、駒形橋(こまがたばし)、厩橋(うまやばし)、蔵前橋(くらまえばし)、両国橋(りょうごくばし)、新大橋(しんおおはし)、清洲橋(きよすばし)、墨田川大橋(すみだがわおおはし)、永代橋(えいたいばし)、中央大橋(ちゅうおうおおはし)、佃大橋(つくだおおはし)、勝どき橋(かちどきばし)の12橋を下ることをいう。

ウイキペディアによると、吾妻橋は1774年に架けられた橋で、それまでは「竹町の渡し」という渡し舟があった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋で、1786年の大洪水で永代橋、新大橋が流され、両国橋も大きな被害を受けたが、吾妻橋だけ無傷だった。初めは「大川橋」と呼ばれていたが、明治になって1876年に「吾妻橋」という名称が決まった。現在の橋は1931年に架け替えられた。

駒形橋はかつて「駒形の渡し」があった場所に関東大震災(1923年)後の1927年に架けられた橋で、橋の名は、橋の西にある「駒形堂」から付けられた。

厩橋は江戸時代の元禄期(1688年から1703年まで)から「御厩(おうまや)の渡し」とされた場所に、1874年に架けられた橋で、橋の名は「御厩河岸」という浅草蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があったことから付けられた。1872年に花見客を乗せた渡し舟が転覆(てんぷく)した事故が起こり、橋が架けられ、1929年に現在の橋が完成した。

蔵前橋はかつて「富士見の渡し」の渡船場があった場所に、1927年に架けられた。名称は「蔵前通り」から付けられている。橋全体が黄色に塗装されており、1954年から1984年まで蔵前国技館があったため、高欄には力士などのレリーフが施されている。

両国橋は1659年から1661年ころに架けられた橋で、千住大橋(せんじゅうおおはし)に続く隅田川2番目の橋とされている。当初は「大橋」と名づけられたが、武蔵国と下総国(しもふさのくに)の2国を結ぶことから俗に「両国橋」と呼ばれ、1693年に「新大橋」が完成すると、正式に「両国橋」とされた。

江戸幕府は隅田川には千住大橋しか認めていなかったが、1657年の明暦の大火により、橋がなく逃げ場を失った人が亡くなり、その数は10万人とされた。このため、両国橋が架けられた。その後、何回か架け直され、今の橋は1932年に震災復興事業として架けられた。橋の途中に円形のバルコニーがあり、土俵になっていて俵も回してある。高欄の柱や車道・歩道の分離柵にも行司の軍配をデザインしている。

新大橋は元禄時代の1693年に架けられた隅田川3番目の橋で、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644-1694)がこの橋のことを俳句に詠んでいる。新大橋は破損、流出、焼落などにより20回以上も架け替えられ、享保年間(1716年から1735年)には幕府が廃橋を決めたが、町民衆の嘆願により、諸経費を町方がすべて負担することを条件に1744年に存続が許された。

橋の中央近くに江戸時代、明治時代の新大橋のレリーフと橋のいわれが記された銅板がはめこまれている。この橋は、関東大震災や1944年から1945年にかけての東京大空襲の際にも、隅田川に架かる5大橋(永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住橋)の中で、唯一被災しなかった橋で、「人助け橋」ともいわれている。現在の橋は1977年に完成している。

清洲橋はかつて「中州の渡し」という渡船場があった場所に、震災復興事業として永代橋とともに計画され、1927年に深川の清澄町と日本橋の中洲町を結ぶ橋として建設され、名称は公募した上で両方の町名から採られた。建設当時、「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるように設計され、そのモデルはドイツのケルン市にあった大吊り橋を基にしている。

墨田川大橋は首都高速道路の建設にあわせて1979年に架けられた橋で、隅田川では唯一の2層式構造となっている。

永代橋はかつて「深川の渡し」のあった場所に1698年に江戸幕府5代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)の50歳を祝って建設された隅田川4番目の橋だ。新大橋と同様、幕府は1719年に永代橋の廃橋を決めるも、町民衆の嘆願により、諸経費を町方がすべて負担することを条件に存続を許された。

しかし、1807年に深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こし、1500人以上が落下で亡くなった。1897年に鉄橋が架けられたが、道路橋として日本では初めてだった。関東大震災で被災し、1926年に現在の橋が再架橋された。

中央大橋は1993年に完成した斜張橋で、隅田川がフランスのセーヌ川と1989年に「友好河川」を提携したことから、設計をフランスのデザイン会社に依頼、主塔および欄干部分に日本の「カブト」を意識した意匠が施されている。

また、上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長から東京都に友好の印として贈られ、ベラルーシ・ビテプスク生まれの彫刻家、オシップ・ザッキン(Ossip Zadkine、1890-1967)の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が座している。夕刻から22時まで白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされる。その特徴的な橋の形は遠くからでも見分けられる。

佃大橋は江戸時代から320年以上も続いた隅田川最後の渡船場「佃の渡し」があった場所に架けられた橋で、1964年に完成した。1964年の東京オリンピック開催に備えた橋として、戦後初めて隅田川に架橋された。当時、佃島と月島を隔てていた佃川はこのために埋め立てられ、島であった佃島は地続きとなり、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となった。

勝どき橋は1905年に「日露戦争」における旅順陥落祝勝記念として「勝どきの渡し」が設置され、1929年に「東京港修築計画」に伴って、架橋計画が策定され、1940年に迎える「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定だった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画により、日本の技術力を世界に誇示するため、アメリカ・シカゴにある跳ね橋をモデルにし、すべて日本人の手で設計施工された。

日本万博は中止されたが、勝どき橋は1940年に完成された。建設当時は隅田川を航行する船舶が多かったため、3000トン級の船舶が航行できるよう、可動橋として設計され、跳開(ちょうかい)により大型船舶の通航を可能とした。完成当時は「東洋一の可動橋」といわれたが、その後、隅田川を航行する船舶が減少し、1970年11月29日の開閉を最後に「開かずの橋」となっている。

また、当初から路面電車用のレールが敷設され、1947年から1968年まで橋上を都電杉並線が通行した。橋の名称は「勝どきの渡し」からつけられ、「勝どきの渡し」は1940年に廃止された。2007年6月に都道府県の道路橋として初めて清洲橋、勝どき橋、永代橋が国の重要文化財(建造物)に指定されている。

「東京都立浜離宮恩賜庭園」は江戸時代の当初、将軍家の鷹狩の場であったが、1654年に甲府藩主で、徳川家光(とくがわ・いえみつ、1623-1651)の3男、徳川綱重(とくがわ・つなしげ、1644-1678)がこの地を拝領(はいりょう)し、埋め立てて別邸を立てた。

その後は甲府藩の下屋敷として使用され、徳川綱重の子である徳川家宣(とくがわ・いえのぶ、1662-1712)が6代将軍になると、将軍家の別邸とされ、「浜御殿」と呼ばれ、大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園が整備された。幕末には外国人接待所として石造洋館である「延遼館(幕府海軍伝習とん所)」が建設された。

明治維新後も「延遼館」は鹿鳴館(ろくめいかん、現大和生命ビルの地)が1883年に完成するまでは迎賓館として使用され、明治に宮内省の管轄となり、名前も「浜離宮」と改められ、1945年に東京都に下賜され、1946年に都立庭園として開園され、1952年に旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定された。

汐留シオサイトのある汐留地区は江戸時代以前は海辺の湿地帯だったが、江戸幕府の開幕後に徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が発令し、3代将軍徳川家光(とくがわ・いえみつ、1604-1651)の代に至るまで続いた「天下普請」(諸大名の財力を用いた、奉仕による城下町建設事業)により汐留の埋立地が完成した。その結果、汐留は周辺の新橋、銀座、築地などと並び、大名屋敷を有する武家屋敷街となった。

その後、明治政府によって屋敷は接収され、1872年に日本初の鉄道が横浜との間に開設された際、起点となる新橋駅がこの汐留に建設され、東京の玄関となった。しかし、1914年に東京駅が完成し、東海道本線の起点が東京駅に変更されると、元の新橋駅は「汐留貨物駅」に改称され、貨物専用駅となり、その後の汐留は、小運送店の集まる貨物ターミナルとされた。

やがてトラック輸送の増加やそれに伴う鉄道貨物輸送の変化などにより、1986年に「汐留駅」は「東京貨物ターミナル駅」に機能を譲る形で廃止された。その後、31ヘクタールにも及ぶ駅跡地が日本国有鉄道清算事業団の保有する広大な空き地のまま残っていたが、1995年になって東京都の都市基盤整備と民間のプロジェクトにより都市再開発が始まった。

2002年に再開発地区としての区画整理が終了し、汐留シオサイトという愛称がつき、都営地下鉄大江戸線とゆりかもめの「汐留駅」が開業した。2003年から2008年にかけて13棟の超高層オフィスビルと4つのホテルや数多くのレストラン、ショップなどが地下通路とペデストリアンデッキでつながる6万人の複合都市として生まれ変わった。2011年12月22日に国から国際戦略総合特区の一つである東京都提案の「アジアヘッドクオーター特区区域」に指定された。

神田あおいさんは埼玉県岩槻市(現さいたま市)生まれ、18歳から演劇集団円研究所、月蝕歌劇団演劇に携わり、2002年に神田(かんだ)すみれさんに入門、2003年に前座「あやめ」で初高座、2008年に「二ツ目」に昇進、「あおい」に改名、2016年4月に真打に昇進している。

時間は9時15分に東京メトロ銀座線「浅草駅」に集合して、昼ころにお江戸日本橋亭に移り、神田あおいさんらの寄席を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円。水上バス代(1040円)、浜離宮庭園(入園料は一般300円、65歳以上150円)などは自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からの日本橋お江戸寄席は前座の昔昔亭全太郎(せきせきてい・ぜんたろう)さん、二ツ目の春風亭昇々(しゅんぷうてい・しょうしょう)さん、神田あおいさん、真打の滝川鯉昇(たきがわ・りしょう)さん、青木イサム(あおき・いさむ)さんと服部健治(はっとり・けんじ)さんの「コント青年団」、真打の昔昔亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)さんが出演する予定だ。

注:「滝川鯉昇」の「滝」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

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