石川酒造が東京の米と水で造った「八重菊」、江戸時代のラベル

【銀座新聞ニュース=2020年4月17日】石川酒造(福生市熊川1、042-553-0100)はこのほど、東京の地で収穫された米、東京の地下水で仕込んだ「純米生酒 八重菊」を数量限定で発売した。

純米生酒八重菊。

1863(文久3)年に創業した石川酒造は江戸時代に小川村(現あきる野市)の「森田酒造」(現在は酒造りをしていない)の蔵を借りて、酒造りをはじめた関係で、当時の森田酒造の「八重菊」にちなんで「八重桜(やえさくら)」という創業銘柄で出荷した。

こうした縁で、今回は現在でも石川酒造の創業家の石川家と縁戚関係にある森田家やあきる野市の農家が現在の田園風景を残したいという思いと、あきる野市産の米で醸した日本酒を造り、飲んでみたいという要望に対して、石川酒造が2019年より米造り、2020年に酒を仕込み完成させたのが江戸時代の「森田酒造」の銘柄を使った「純米生酒 八重菊」という。

石川酒造では、東京産の米、水、空気、技、蔵のすべてを使って造り、ラベルも江戸時代に実際に「森田酒造」が使っていたものを復刻した。

ウイキペディアと石川酒造によると、創業家、石川家は武蔵国多摩郡福生村(現福生市)一円を仕切る「庭場」と呼ばれる公職を務めた庄屋で、農家を営んでいた。13代目当主・石川和吉(旧姓・指田、1835年に石川家の養子、いしかわ・わきち、1813-1886)は農業に軸足を置きながら在郷商人として、青梅産の縞織物の販売を通じて、酒造業への転換の準備を始めた。

1863(文久3)年9月1日に多摩郡小川村の森田酒造の蔵を借り、石川和吉が酒造りを開始したのが石川酒造の始まりとされている。1880(明治13)年、小川村から熊川(現在地)に移り、酒蔵を建て、1888(明治21)年2月にはビールの醸造もはじめ、近在や東京・横浜などに販売した。1945年に農業と酒造業の二足のわらじが続いたが、農地改革により酒造業に専念した。

その後、一時期ビールの醸造を中止していたが、1998年にビール造りを再開し、現在、18代目当主である社長の石田弥八郎(いしだ・やはちろう、1990年に入社)さんの下、日本酒の「多満自慢(たまじまん)」(1919年に「八重桜」から「八重梅」に変え、1933年に「八重梅」を「多満自慢」にした)、クラフト(地)ビールの「多摩の恵」と「東京ブルース(TOKYOBLUES)」の2ブランドを生産している。

1880(明治13)年に現在地に移転した際に建てられた蔵や門が国の登録有形文化財とされている、1970年代の地酒ブーム以降に増えた見学希望にその都度対応していたが、後に常設の観光施設として受け入れるようにして、史料館などを整備した。見学者は多い年で約1万人(このうち外国人が約2000人)、レストランのみの利用者を含めると約10万人が訪れる。現在、資本金が5000万円で、売上高は約6億円。

敷地内には直営のレストランがあり、できたてのクラフトビールや地酒を飲むことができる。蔵見学も毎日実施(要予約)している。

「純米生酒 八重菊」(720ミリリットル、アルコール分は15%)は価格が税別1500円。

注:「石田弥八郎」の「弥」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。