13日から銀座通り「ホコテン」を再開、2カ月ぶり

【銀座新聞ニュース=2020年6月11日】銀座通連合会(中央区銀座4-6-1、銀座三和ビル、03-3561-0919)と築地警察署(中央区築地1-6-1、03-3543-0110)はこのほど、6月13日から銀座通り(中央通り)の「歩行者天国(ホリデープロムナード)」を再開することを決めた。

6月に入って車が増えている銀座通り。13日から週末の歩行者天国が再開される。

銀座では、銀座通りの1丁目から8丁目まで、毎週土・日曜日の12時から18時(10月から3月は17時)まで車両規制して、歩行者に開放してきたが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、国と東京都が3月から週末の外出自粛を要請したことから、警視庁では4月4日から歩行者天国を中止していた。

その後、4月7日に政府が「緊急事態宣言」を発令し、5月25日に首都圏が解除されるまで、「歩行者天国(ホコテン)」の中止を継続し、その後、連合会と築地署が話し合い、6月13日から再開を決めた。

銀座通りの歩行者天国は銀座通り口交差点から銀座8丁目交差点までの間約1100メートルで実施されている。

ウイキペディアによると、歩行者天国は1960年代から1970年代にかけて、欧米をはじめとして世界各地で市内の中心道路を歩行者専用道路(カー・フリー・ゾーン)とする政策が実施された。初めて実施されたのは、1970年のアメリカ・ニューヨークの五番街の一部で、毎週土曜日に同所の道路を歩行者に開放した。

銀座(中央)通りで週末に1000メートルにわたって実施される歩行者天国の範囲(画像は警視庁のHPから)。

日本では高度経済成長時代の当時、自動車の急増による事故の増加(いわゆる交通戦争)や環境問題への配慮により、道路交通を車優先から歩行者中心の交通への転換が求められ、そのきっかけとしてスタートした。

「歩行者天国」という名称が一般的になる前から、裏通りを中心に何回か実施されており、1950年には新宿駅東口前通りで自動車が締め出され、1958年には神田の東紺屋町で日曜日・祝日に道路を柵で仕切り、子どもたちの遊び場として提供した「遊戯道路」というものが設けられたこともある。

大規模なものは1969年8月6日から12日間、北海道旭川市平和通で実験的に実施され、東京都内では、当時の都知事の美濃部亮吉(みのべ・りょうきち、1904-1984)の提唱により、1970年8月2日に銀座、新宿、池袋、浅草で初めて実施された。1972年6月1日には、日本初の恒久的な歩行者天国として旭川市平和通買物公園が開設された。

その後、東京・原宿では「竹の子族」や「ローラー族」、ストリートパフォーマーなど、若者文化の発信地となり、街全体に活気を与えたが、1980年代末からはホコ天発のバンドブームに伴って多数のバンドが路上演奏をするようになり、彼らの出す騒音や見物人の出すごみに対して地元から苦情が出され、のちに歩行者天国が廃止に至る原因のひとつとなった。

また、秋葉原では2005年ころから路上パフォーマンスが増え、それを取り囲むカメラや見物人が通行の妨げになっているとして問題となった。さらに、2005年4月2日に仙台アーケード街トラック暴走事件が発生、同年12月25日に発生した仙台市第二のアーケード暴走事件、2008年6月8日の秋葉原通り魔事件などで、大勢の通行人が犠牲となり、仙台ではアーケードに車両の乗り入れができないようにし、秋葉原では防犯カメラを設置する一方で、歩行者天国を休止していたが、2011年1月23日に再開された。

また、かつては銀座地区から上野駅まで連接した中央通り5.5キロにわたって実施され、東洋一の長さを誇る歩行者天国だったが、1999年頃にオフィス街で主な集客施設もなく閑散としていた神田地区を皮切りに上野地区(上野駅から外神田5丁目交差点)、秋葉原地区(万世橋交差点から須田町交差点)、神田・日本橋地区(須田町交差点から銀座通り入口交差点)で廃止されている。