丸善日本橋で欧州「植物画」展、絶滅鳥や馬も、ルドゥーテら

【銀座新聞ニュース=2020年7月6日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月8日から14日まで3階ギャラリーで「ヨーロッパアンティーク版画展 ボタニカルアートから西洋古典版画まで」を開く。

丸善・日本橋店で7月8日から14日までまで開かれる「ヨーロッパアンティーク版画展 ボタニカルアートから西洋古典版画まで」に出品されるルドゥーテの「紫陽花」。

ヨーロッパで17世紀から19世紀にかけて書物の中に描かれた図譜は、版画技術の発達と共に発展し、その細密さや手彩色の美しさは、今も魅了するとされている。今回はボタニカルアートでもっとも著名なベルギー出身で「バラの画家」として知られたピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redoute、1759-1840)の美しい手彩色版画「紫陽花(あじさい)」、ロスチャルデイアナ(Rothschildiana)の「絶滅鳥類図譜」より珍しい「ドードー鳥」、15世紀の銅版画「馬」など歴史を経た作品を展示販売する。

女子美術大学版画研究室などによると、ヨーロッパでは1300年代後半からキリスト教の教義を広める目的で、主に修道院や巡礼地、教会で聖地巡礼の記念や護符などを木版で作っており、これらの版画は、教義を説くだけでなく、無病息災、商売繁盛、家畜や旅の安全、五穀豊穣などを祈る「お守り」として家の入り口や台所、家畜小屋などに張られる実用品だった。

現存の一番古い版木は1370年頃の「プロタの版木」と呼ばれ、フランス中央部の都市、マコン(Macon)で階段の板として用いられていた。初期の木版画は1370年から1380年頃にフランスのディジョン(Dijon)で始まったと伝えられている。ヨーロッパ最古の木版画は1418年の「聖母マリア」で、刷り方は印鑑を押すようにしたり、平らな木ぎれやナイフで紙の裏からこすったりしていた。

15世紀後半にはフランス・ストラスブルグ(Strasbourg)でワイン製造用のブドウ搾り機のようにネジで締めあげて圧力をかけて刷る平圧式プレス機が用いられるようになり、この圧力を利用する印刷方法が後に凹版印刷、銅版画に発展することになる。

その後、フランスやオランダ・フランドル地方(Flandre)では100年戦争(1339年から1453年)が起こり版画も作られなくなるが、ライン川上流(バーゼからストラスブルク)の地域で1400年頃作られた版画が残っている。1400年から1430年頃になると多くの木版画が登場し、木版本が作られるようになり、大工のギルドに属した職人により版木が彫られた。木版本は文字を木版で刷り挿し絵は手描きのものや、木版に手彩をほどこしてある。

同じく出品されるロスチャルデイアナの「絶滅鳥類図譜」より「ドードー鳥」。

印刷の分野で版画が普及するにつれて、1500年はじめには、もっと精巧なものが要求されるようになり、木版画の技術が発展し、ルネサンス美術の影響で技術的に優れたものが多く作られるようになり、1500年頃には最盛期に達した。1400年半ば頃から銅版での凹版画が登場し、1500年頃には技術的にも優れたものが多く作られ、木版画から銅版画の時代へと移った。普通の木版画は1500年代末頃から衰退したが、これは銅版画の方が精緻で克明な表現が可能だったことと、線描中心のデッサンを木版画にする場合の労力の大変さからきたのではないかと考えられている。

活版印刷以前に作られた本は、僧侶や貴族のための祈祷書などで羊皮紙に手書きされた豪奢なものだったが、その後、木版画が多く作られるようになると、トランプカードや宗教を題材としたものが多く作られ、民衆の間に広まっていった。1500年頃から木版画、銅版画ともに絵画の代わりに売買の対象となり、絵画はまだ宗教界や貴族たちだけのものだったが、版画は貴族たちだけでなく、一般の人々の収集の対象となった。

有名なものは、イタリアのライモンディ(Raimondi)でラファエロ(Raffaello Santi、1483-1520)の原画をもとに製版し、銅版画を作り、ラファエロと親交のあったバヴィエロ・カロッチ(Baviero Caroti)が版元となって出版した。このような版元制度は、フランドル地方のアントワープ(Antwerp)でもH・コック(Hieronymus Cock、1510-1570)が1548年に店「四方の風」を開いており、この後、1500年後半、アントワープはヨーロッパ最大の版画制作の地となった。

1600年代になるとアントワープにクリストフ・プランタン(Christophe Plantin、1520ころ-1589)がヨーロッパ最大の印刷所を開設し、版画を制作し、同時に教会用印刷物を供給した。1600年代になると、彫刻凹版は次第に複製版画の傾向が強くなり、この頃盛んに行われたエッチング(腐刻凹版)と併用された。この方法は1700年代まで複製版画の方法としてよく行われた。1700年代末には英国やフランスで木口木版が行われ、版木の特殊性から大きな作品が少なく、小品が主で、書籍のさし絵などに使われた。その後の写真の普及とともに衰退した。

1798年にリトグラフが発明され、19世紀はリトグラフの時代といわれた。リトグラフはその後、イメージが主要な役割を演じるようになった新聞雑誌の発展に結びついた。1800年代半ばになるとフランスでそれまで印刷や絵画の複製に用いられていた版画の芸術性を見直す運動がおこり、多くの版画家が生まれた。1900年に入り、多くの画家が版画を手がけるようになった。

ウイキペディアによると、ボタニカルアート(植物画)とは古代エジプトや中国などで薬草を見分けるために図譜が作られたのがはじまりで、大航海時代になって、ヨーロッパ各国が世界各地を探検するようになり、植物学者と画家が一緒に組んで珍しい植物の詳しい絵が本国に送られ、それらの絵が英国やフランスで19世紀に大流行した。植物の姿を正確で細密に描く植物図鑑のための絵画とされている。

博物画は動物、植物、鉱物などの観察対象の姿を詳細に記録するために描かれる絵で、植物画(botanical art)と動物画(zoological art)に大別され、動物画はさらに外形を描く肖像画(portait)と内部を描く解剖画(anatomical art)に区分されている。

科学性が重視され、正確な観察には博物学や解剖学の知識も不可欠であり、学者の指示によって作画された。屋外で素早く写生する必要性から速乾性のガッシュが用いられ、後にこれを銅版画に起こし、点描で陰影をつけ手彩色も行われるようになった。19世紀に写真が登場しても、描いた者の手と認識を通した写真にはない説明性と抽象化があるため、今日でも図鑑や医学書などではイラストレーションが用いられ続けている。

ルドゥーテは1759年南ネーデルラント生まれ、1784年から1785年にかけて「新種植物の記述」を出版し、その挿し絵を担当し、1789年に王妃マリーアントワネット(Marie-Antoinette-Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d’Autriche、1755-1793)の蒐集室付素描画家の称号を得た。

1793年に自然史博物館付植物画家、1802年から1816年にかけて「ユリ科植物図譜」を出版、1817年から1821年にかけて「バラ図譜」を出版、1822年に自然史博物館付図画講師、1827年から1833年にかけて「名花選」を出版した。1840年の没後の1843年に「王家の花束」が刊行された。

ドードー鳥 (dodo) は、マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していた絶滅鳥類で、1507年にポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見され、1598年に8隻の艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。

隔絶された孤島の環境に適応して天敵らしい天敵もなく生息していたドードーは、1)空を飛べず地上をよたよた歩く、2)警戒心が薄い、3)巣を地上に作る、など外来の捕食者にとって都合のいい条件がそろっていた。侵入してきた人間による乱獲と人間が持ち込んだ従来モーリシャス島に存在しなかったイヌやブタ、ネズミなどに雛や卵が捕食され、森林の開発により生息地が減少し、急速に個体数が減少した。

オランダ、英国、イタリア、ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは1681年の英国人の目撃を最後に姿を消し、絶滅した。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。