アイデムが安島太佳由「沖縄、ペリリュー等激戦地」展、戦後75年

【銀座新聞ニュース=2020年7月29日】求人広告・企画会社のアイデム(新宿区新宿1-4-10、アイデム本社ビル、03-5269-8711)が運営する写真ギャラリー「シリウス」(アイデム本社ビル2階、03-3350-1211)は7月30日から8月5日まで安島太佳由さんによる写真展「太平洋戦争激戦地慰霊景-沖縄・サイパン・ペリリュー・フィリピンを辿る」を開く。

アイデムの写真ギャラリー「シリウス」で7月30日から8月5日まで開かれる安島太佳由さんの写真展「太平洋戦争激戦地慰霊景-沖縄・サイパン・ペリリュー・フィリピンを辿る」に展示される作品。

戦争の傷跡を取材撮影している写真家の安島太佳由(やすじま・たかよし)さんが敗戦後75年目にあたる今回、太平洋戦争(大東亜戦争)で戦死した多くの兵士や戦闘に巻き込まれて命を落とした民間人への慰霊の思いを込めて激戦地の沖縄、サイパン、ペリリュー、フィリピンを訪ね、戦死者を慰霊するための碑やモニュメント、戦闘を伝える資料館の展示物、戦闘地の跡や洞窟、朽ち果てた武器の残骸など、過去を想像しながら五感を通して感じるままに撮影した写真、カラー45点を展示する。

安島太佳由さんはこのほど、写真集「太平洋戦争激戦地慰霊景-沖縄・サイパン・ペリリュー・フィリピンを辿る」(1500円)を刊行し、それを記念した写真展となっている。

ウイキペディアによると、大東亜戦争(Greater East Asia War)は1941(昭和16)12月10日の大本営政府連絡会議で支那事変(1937年7月7日以降)と「対米英戦争」を合わせた呼称として「大東亜戦争」呼称が確認され、12月12日の閣議決定で「大東亜戦争(Great East Asia War)」とし、戦時分界時期は1941年12月8日1時30分と決定した。同日内閣情報局は、アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指す「大東亜新秩序建設」を戦争目的とした。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が1945年9月19日に発令したプレスコード(SCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」)により、「大東亜戦争」の使用を避けるように指令し、12月8日(開戦4周年)以降、新聞各紙でGHQ民間情報教育局作成の「太平洋戦争史-真実なき軍国日本の崩壊」の掲載から正式に「太平洋戦争」が使われるようになった。

さらに、12月15日の神道指令で、軍国主義・国家主義を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を公文書において禁止した。1946年、法律や勅令の文言は「今次ノ戦争」と改められ、1960年頃から一種のタブー扱いとされ、「大東亜戦争」はメディアでの使用は控えられ、日本政府はGHQの政策以降、現在まで公的には「今次戦争」や「先の大戦」あるいは「第2次世界大戦」などを用いている。ただし2006年から2007年(平成18年度)の政府見解では「大東亜戦争」や「太平洋戦争」の定義を定める法令はないとされている。

1952年4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)によって、GHQの「大東亜戦争」呼称廃止覚書は失効している。

連合国においては、主戦場が太平洋地域であったことから「パシフィック・シアターPacific Theater(太平洋戦域)」が使用され、「the War in the Pacific (Theater)」や「WW II-Pacific Theatre」や「the Pacific Theatre in the Second World War」など第2次世界大戦の戦線・戦域名が用いられ、戦時中は「太平洋戦争」という名称が使われたことはなかった。

大東亜戦争(1937年7月からの支那事変を除く)は1941年12月8日未明(日本時間)に日本陸軍が英国領マレー半島攻撃(マレー作戦)により始まり、8日3時19分(ハワイ時間7日7時49分)に日本海軍がアメリカ軍のハワイ基地を攻撃して(真珠湾攻撃)はじまった。

しかし、8日4時20分(ワシントン時間7日14時20分)に、来栖三郎(くるす・さぶろう、1886-1954)特命全権大使と野村吉三郎(のむら・きちさぶろう、1877-1964)大使がコーデル・ハル(Cordell Hull、1871-1955)国務長官に交渉打ち切りを通告する最後通牒「対米覚書」を手交し、宣戦布告した。

英国には8日7時30分に外務省が駐日大使のロバート・クレイギー(Robert Leslie Craigie、GCMG、CB、PC、1883-1959)を呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡し、宣戦布告した。この結果、米英に対し、宣戦布告前に攻撃するという不意打ちを行う形となった。8日、オランダは日本に宣戦布告した。

ただし、アメリカは日本海軍の暗号解読によって、日本による対米交渉打ち切り期限を3日前には予想し、対米覚書に関しても外務省より手渡される30分前には全文解読を済ませていた。

その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に12月10日に蒋介石(しょう・かいせき、1887-1975)の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、支那事変も包括する戦争となった。また、12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告した。

1942年5月の珊瑚海海戦までは日本が勝利していたが、6月に行われたミッドウェー海戦で大敗し、この後はほとんどの戦いで敗戦が続き、1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れて日本の敗戦が決定し、9月2日にアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、英国、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の下、日本政府全権重光葵(しげみつ・まもる、1887-1957)外務大臣と、大本営全権梅津美治郎(うめづ・よしじろう、1882-1949)参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、戦争が終結した。

激戦地の沖縄戦(連合軍ではアイスバーグ作戦=Operation Iceberg=、氷山作戦)は1945年3月26日から6月23日までの戦い(ただし、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日)で、沖縄本島と周辺島嶼、海域が激しい戦闘が展開され、連合軍は日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、日本本土進攻の補給基地の確保が目的だった。

日本軍は、大本営(主に日本海軍軍令部)が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという「一撃講和」をめざす一方で、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(持久戦)を意図するという不統一な状況だった。

日本側の犠牲者(人的損害)が陸軍戦死者が6万7900人、海軍戦死者1万2281人、捕虜が1万人、沖縄県民死者(含む行方不明)12万2228人(内民間人9万4000人)とされている(1976年3月に沖縄県が発表)。

アメリカの人的損害は総死者が2万195人(内戦死者1万2520人から1万4006人)、戦傷者5万5162人(戦闘外傷病者2万6211人)、英国の人的損害が死者85人、戦傷者82人とされている。

激戦地サイパン戦は1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘で、斎藤義次(さいとう・よしつぐ、1890-1944年7月6日)中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス(Holland M.Smith、1882-1967)中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日と20日)が発生した。

戦力は日本軍が3万1629人、アメリカ軍が6万6779人で、人的損害は日本側が戦死約3万人、捕虜が921人、民間人死者が8000人から1万人、アメリカ側が戦死3441人、戦傷が1万1685人だった。

激戦地ペリリュー戦は1944(昭和19)年9月11日から11月27日にかけペリリュー島(現パラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘で、アメリカ側の作戦名は「ステールメイトⅡ作戦(Operation Stalemate Ⅱ)」と呼ばれた。

日本側人的損害が戦死1万0695人、捕虜202人、最後まで戦って生き残った者34人、アメリカ側が戦死2336人、戦傷8450人、戦病者2500人以上。

日本側は要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術にアメリカ軍が苦しめられ、師団長は従軍記者らに戦闘は激しいが4日で終わるという楽観論を述べていたたが、最終的に73日もかかり、ペリリュー戦については、アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのかという疑問が今日でも投げかけられている。

激戦地フィリピン戦はアメリカ、フィリピン(フィリピン・コモンウェルス、ユサッフェ、フクバラハップ)、オーストラリア、ニュージーランド、英国、メキシコと日本、フィリピン第二共和国(1943年から1945年8月17日まで存在した)の間で、1944年10月から1945年8月まで戦闘が展開され、フィリピン奪回を目指す連合国軍が勝利した。

主な戦力はアメリカ軍が125万人、フィリピン・コモンウェルス(フィリピン連邦軍)が26万0715人、日本軍が52万9802人、フィリピン第二共和国(比島愛国同志会)が約5600人。主な人的損害はアメリカ陸軍が戦死1万6043人、戦傷が5万5531人、戦病が9万3422人以上、海軍が死傷者7270人、フィリピン連邦軍が多数、フィリピン一般市民犠牲者が約100万人、日本軍が戦死・戦病死約43万人と、大東亜戦争で日米とも最大規模の犠牲者が出た戦いとなった。

この間、1944年7月22日に東条英機(とうじょう・ひでき、1884-1948)内閣が倒れ、小磯国昭(こいそ・くにあき、1880-1950)内閣が誕生した。

安島太佳由さんは1959年福岡県生まれ、1981年に大阪芸術大学写真学科を卒業、大日本印刷写真部、広告制作会社などを経て、1993年に「安島写真事務所」を設立、フリーとして活動、1995年「日本の戦争」をテーマに戦跡取材をはじめ、2010年に「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」プロジェクトを開始している。1994年度に文化庁芸術インターンシップ研修員に選ばれている。2002年に第8回平和・協同ジャーナリスト基金賞の奨励賞を受賞している。

開場時間は10時から18時(最終日は15時)。2日は休み。入館時にマスク着用、手指の消毒などが必要。1回あたり25人までしか入れない。