「2020年」(2.たかかウイルスされどウイルス<安藤武雄の場合>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2020年8月21日】緊急事態宣言が発令されたとのニュースを、安藤武雄は神保町のオフィスのテレビで観て、吸いかけの煙草を苛々と灰皿に押し付けて揉み消すと、いまいましげに舌打ちせずにはおれなかった。

たかが感染症で、国をあげての緊急事態宣言とはあまりにも馬鹿げていると、開いた口が塞がらなかった。喫煙が高血圧気味の自分によくないことはわかっていたが、これが吸わずにいられようかと腹立たしかった。

政府は一体、何を考えているのだろう。何が不要不急の外出を避けろだ、俺はこれからだって、誰にはばかることなく、取り立てて必要でも、急ぎでもない外出を続けてやる。

土台、この騒ぎの元がからきし、わからなかった。コロナかなんか知らんが、たかが風邪のウイルスだろう、治療薬がない新型だからって慌てるにも程がある。死者数は極少なのに、何をやたら大騒ぎしてるのか。面白がって大袈裟に伝えるメディアの報道合戦に踊らされているとしか思えなかった。

洗脳された大方の国民は、マスクを着けて外出自粛、企業もテレワークを採り入れて在宅勤務推奨、しかし、たかが感染症と歯牙にもかけない武雄にとって、自宅勤務はまったく意味をなさなかった。

独り経営の零細出版社を自転車操業で回している武雄にとって、自宅のパソコンを使えば、在宅勤務は不可能でなかったが、緊急事態宣言が出されて以降も、日曜以外は皆勤していた。貧乏暇なし、社長兼編集者かつ雑用まで独りでこなさなければならないため、うちでのほほんとしていられなかったのだ。

つい2年前までは小さな出版社に勤務していたのだが、長年の出版不況の煽りを食らってついに倒産、40歳独身の男盛りで失職の憂き目を見たのである。が、根が楽天的な武雄は挫けなかった。若い頃から出版社設立の夢を抱いていただけに、これを絶好の機会と捉え、思い立ったが吉日の素早さで、なけなしの貯金をはたいて独立したのだ。

最初は不安だったが、19年の編集経験で培ったコネをフルに活かし、作家にも恵まれて、主に実用書だが、月1、2冊の割で刊行、そこそこ売れて何とか独り出版社は回っていた。秋まで出版リストが目白押しで、コロナなんて訳の分からぬ騒動に気を取られている暇もない程忙殺に明け暮れていた。

マスクも着けずに、Tシャツ・綿パン姿で小金井市の賃貸アパートとオフィスの往復、編集業務の合間に打ち合わせに飛び回っていたが、さすがに体面上、人と会うときはマスク着用の背広姿、ソーシャル・ディスタンスとやらの面倒な距離を保って口元を覆っての面談、でないと、相手から白い目で見られたり、嫌な顔をされるので、しょうがなかった。

「僕の本は、予定通り刊行されるんでしょうか。コロナ下、大手の出版社など、発売日を遅らせているところもあるようですが」

神経質な著者に心配そうに聞かれることもしばしばだったが、武雄は至って快活に、
「もちろんですよ。藤武(ふじたけ)出版は取次ぎなしの直販ですから。印刷会社とも、出版社勤務時代からの長い付き合いで、納期に関しては無理が効くんです」
「外出自粛で本屋さんに来る人も減っていますよね」
「ネット通販があるし、小さな町の本屋はかえって繁盛してますよ。みんな、暇ですからね。うちに限ってはコロナの影響は毛筋程もありませんから、安心してください」

確約して、著者の不安をなだめるのが常だった。なぜ、みなそれ程にも気にするのかと、歯がゆかった。単なる社会現象のひとつ、気にしなければ、余計な悩みもないし、もうその時点で問題は解決しているのである。

大騒ぎして、ドラマに入り込むから、問題が大きくなるんだ。

独り出版社は、外の騒ぎをよそに、順調にその月出す予定だった本を発売し、ラッキーなことに2週間とたたぬうちに、増刷がかかった。

武雄は、売れ行きが好調なことに気をよくして、著者を小料理屋で接待した。この分なら、ベストセラーも夢でない。

出版社時代からの顔見知りの著者は、順調な滑り出しに嬉しそうだった。
「徹夜して頑張った甲斐がありましたよ。今日はちょっと風邪気味なんですけど、安藤さんが一席設けて祝ってくれるとあっては、無理を押しても出席しないことにはね。緊急事態宣言も解除されたことだし」

チェーンスモーカーの著者は、咳に咽びながらも煙草を吹かし続け、武雄が注(つ)ぐビール、続いて日本酒をうまそうに乾した。武雄もつい釣られて喫煙、たちまち灰皿は山盛りになり、お銚子が何本も空いた。紫煙のもうもうとこもる換気の悪い密室で、武雄は声を大にして著者を褒めたたえ、祝宴が終わっのは、夜の11時過ぎだった。


2週間後、神保町の小さな雑居ビルの前に人だかりがしていた。ビルの入口の前で40代前半の男がうつ伏せになって、倒れていた。

意識があるかどうかわからない。距離を置いて見守っていたマスク顔の群衆の間から、1人の若い男が前に飛び出し、倒れている男の黒いTシャツの肩に触れようとした。その途端、甲高い叱咤が飛んだ。

「触るな。染つるぞ」

その声を合図に、群れていた人々は、潮が引いたように、怖々と後ずさった。恐怖心も露わに、ほうほうの体で逃げ去っていく者もあった。

路上に投げ出された鞄の中から、藤武出版がひと月前刊行しベストセラーになった本がこぼれ落ちていた。

救急車のサイレンの音が物々しく、間近に迫っていた(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。

コメントは受け付けていません。