丸善丸の内・日本橋で九谷焼展、吉田美統、山本篤、浦陽子、高聡文ら

【銀座新聞ニュース=2020年9月1日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ、03-5288-8881)と丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は9月2日から8日まで「第2回現代加賀九谷焼作家展-継承と進化、多様なる色絵の世界」を開く。

丸善・丸の内本店と丸善・日本橋店で9月2日から8日まで開かれる「第2回現代加賀九谷焼作家展-継承と進化、多様なる色絵の世界」のフライヤー。

丸善ジュンク堂書店と現代加賀九谷焼実行委員会(加賀九谷陶磁器協同組合、九谷焼伝統工芸士会)が共催するイベントで、日本の色絵陶磁の代表的な「九谷焼(くたにやき)」は江戸時代前期、九谷村(現石川県加賀市)で生まれ、360年を超える歴史と、現代に続くさまざまな絵付け様式がある。

今回は丸の内本店4階ギャラリー・特設会場と日本橋店3階ギャラリー・特設会場で、次世代を担う若手作家たちの多彩な作品と、揺るぎない重鎮の作品を幅広く展示販売する。

丸の内本店側の出品者は今回は加賀九谷理事長で、同連合会副理事長、九谷焼伝統工芸士会会長の山本篤(やまもと・あつし)さん、その兄で、加賀九谷陶磁器協同組合理事長で、石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会副理事長の山本長左(やまもと・ちょうざ)さん。

石川県陶芸協会理事長、九谷焼技術保存会会長、九谷焼振興協会会長で、石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会相談役、「九谷焼釉裏金彩」の重要無形文化財保持者(人間国宝)の吉田美統(よした・みのり)さん、日本伝統工芸士会副会長、石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会相談役の福島武山(ふくしま・ぶざん)さん。

北出太郎(きたで・たろう)さん、山本芳岳(やまもと・ほうがく)さん、その長男、山本浩二(やまもと・こうじ)さん、その次男の山本秀平(やまもと・しゅうへい)さん、山本篤さんの子息、山本高寛(やまもと・たかひろ)さん。

堀江祐夫子(ほりえ・ゆうこ)さん、苧野直樹(あさの・なおき)さん、針谷絹代(はりや・きぬよ)さん、清水一人(しみず・かずと)さん、早助千晴(はやすけ・ちはる)さん、小林恵子(こばやし・えいこ)さん、米谷彰能(こめや・あきよし)さん。

丸善・日本橋店に出品される宮本雅夫(みやもと・まさお)さんの「緑彩鳥文陶筥(りょくさいとりもんとうばこ)」。

島田寿楽(しまだ・じゅらく)さん、寺前瑛生(てらまえ・えいしょう)さん、道場八重(どうば・やえ)さん、浦陽子(うら・ようこ)さん、西田和美(にした・かずみ)さん、前田昇吾(まえだ・しょうご)さん、山下一三(やました・いちぞう)さん。

日本橋店は宮本直樹(みやもと・なおき)さん、福田良則(ふくだ・よしのり)さん、、山口義博(やまぐち・よしひろ)さん、山中国盛(やまなか・くにもり)さん、打田幸生(うちだ・ゆきお)さん、仲田錦玉(なかだ・きんぎょく)さん、三浦晃禎(みうら・てるただ)さん、高聡文(たか・そうぶん)さん、木戸優紀子(きど・ゆきこ)さん、山近泰(やまちか・やすし)さんら。

ウイキペディアなどによると、九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器で、大聖寺藩領の九谷村(現石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、加賀藩の命により、藩士の後藤才次郎(ごとう・さいじろう、1634-1704)を佐賀・有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年ころ)、藩の殖産政策として、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりとされる。

しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然、廃窯となり、窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っており、この間に焼かれたものは、現在「古九谷(こくたに)」と呼ばれている。

古九谷の廃窯から、約1世紀後の1807年に加賀藩が京都から青木木米(あおき・もくべい、1767-1833)を招き、金沢の春日山(現金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。

同じ頃、能美郡の花坂山(現小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、1819年に磁器を、1820年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

1832年ころに小野窯に陶匠として招かれる、寺井村(現能美市寺井町)生まれの九谷庄三(くたに・しょうざ、1816-1883)は能登の火打谷(現志賀町)で、「能登呉須」と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与え、1840年ころに故郷に戻り、寺井窯を開いた。ヨーロッパから入った顔料を早い時期から取り入れ、彩色金欄手(さいしょくきんらんで)を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後にヨーロッパに輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のオーストリア・ウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時にヨーロッパの技法も入り込んだ。1872年ころから型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年ころから、獅子を始めとする置物の制作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。

また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平(すなこ・きちへい、生没年不詳)、初代諏訪蘇山(すわ・そざん、1851-1922)らの参加を得て成果を上げ、1876年には「石川県勧業場」と名を改めた。1887年に金沢工業学校(現石川県立工業高校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

現在、九谷焼は陶器と磁器があり、上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」と呼んでいる。陶器は原料が陶土(粘土)で、温かみがあり、全体に厚くぽってりした感じで、指ではじくと、鈍い音がする。一方の磁器は原料が陶石(石の一種)で、白く堅い感じがあり、薄くて軽くて丈夫で、指ではじくと「チン」と金属質の音がする。

また、茶わんの「わん」の漢字は「苑」の「草かんむり」のない字と「皿」を合わせる、「石」と「宛」を合わせる、「土」と「宛」を合わせる、「木」と「宛」を合わせる4種類があり、「皿」を合わせた「わん」は基本的にフタがない茶碗をさし(後世にはフタ付もある)、「抹茶わん」などに使われている。「石」の茶わんはフタ付の磁器、「土」の茶わんは素焼きでフタ付の器、「木」は木製のフタ付の漆器をさしている。

開場時間は丸の内本店が9時から21時、日本橋店が9時30分から20時30分(最終日はいずれも15時)、入場は無料。

注:「小林恵子」の「恵」、「島田寿楽」の「島」、「山中国盛」の「国」はいずれも正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。