主人公の異様なまでのすさまじい熱量に満ちた「狂武蔵」(297)

【ケイシーの映画冗報=2020年9月3日】日本の近現代史におおきな影響を与えた2.26事件(1936年)に参加した青年将校のひとりが処刑の直前、このような一首を遺したと伝えられています。
「我レ狂カ愚カ知ラズ、一路遂ニ奔騰スルノミ(ナリ)」

現在、公開中の「狂武蔵」((C)2020 CRAZY SAMURAI MUSASHI Film Partners)。

ここでの“狂”はマイナスの要因ではなく、“一意専心”なのだと思います。“愚”も同様でしょう。自分の母校の創立者も“バカになれ、バカになれ、大馬鹿に”という一文を教え子に送っていました。

本作「狂(くるい)武蔵」の“狂”も、上記のような意味合いでのネーミングであることにちがいありません。

慶長9(1604)年、乱世の戦国から太平の江戸時代へと時代が動いていた時期。宮本武蔵(みやもと・むさし、1584-1645。演じるのはTAK∴、坂口拓=さかぐち・たく)は、剣術の名門である吉岡一派400人との決闘に赴きます。武蔵の奇襲によりはじまった1対400の戦い。その決着は如何に・・・。

世界でもっとも名前の知られたサムライが宮本武蔵であることに異論はないでしょう。“武士の典型”ともされますが、実際に武士として仕えた(録=給料を得た)のは、晩年の数年間だけで、漂泊流浪の武芸者としての生涯であったといわれています。

そのため、実情を記した資料は乏しく、我々の宮本武蔵像は、本人の没後に出た史書や、近代のエンターメイメント作品によるイメージが中心です。「だれもが知る人物なのに、実像がつまびらかではない」、そこがまた、想像の翼を広げる余白となっているのでしょう。

確たる自信はないのですが、本作の“武蔵”は寡黙で、ほとんどセリフらしいセリフはなく、ひたすら多数の敵と渡り合い、斬り結び、斃していきます。本編91分のほとんどが武蔵が刀を振るう姿に費やされていますが、その圧巻は77分間のワンシーン、ワンカットで表現された剣術シーンでしょう。

思いつくことができても、実際に撮影し、映像作品として仕上げていくのは、まさに至難だったはずです。実際、このシーンが撮影されたのは7年前で、タイトルも監督も異なった映画作品でした。

この作品が動き出したのはさらに2年前で、準備期間を充分にとっていたところ、撮影寸前になって、頓挫してしまったのだそうです。

「このまま映画が潰れてしまうのはつらすぎる」(2020年8月2日読売新聞)という主演である坂口の主張から、当初の計画の「10分間ノーカット、事前の取り決めナシ」が「70分以上のノーカット、1日で録り終えるためにワンカットで」とさらなるハードルを課しての撮影となったのです。

こう記すと、なみなみならぬ決意とか挑戦心、悲壮感を想像してしまいますが、ご本人は、「長回しをやったのは、ただ単純に僕がイカれているからです」と肩すかしのようなコメントをされています。

「だって本番前に斬られ役の“カラミ”たちに『本当に俺を殺しに来なかったら、撮影関係なくお前らを殺すよ!』と言ったところ、全員で俺を殺しに来て、開始5分で指の骨が折れてもそのまま最後までやりきりましたからね」(「映画秘宝」2020年10月号)

さらに「体力は5分でゼロ。もうできないと思った」にもかかわらず撮影は続き、終盤ではあばら骨も折っているそうです。「敵役とぶつかったときにバキッと音がした」、撮影が終わったときは「これ以上やったら、あとは死ぬしかない。限界でした」(以上、前掲紙)という極限状態だったというのですから、本当に“一路遂ニ奔騰”の588人斬りを結実させたのでした。

本来なら、撮影という、ある種の“約束ごと”が前提となっていなければならない世界のはずですが、「お前たちを殺すよ!」という宣言下での撮影。さぞかし殺伐とした雰囲気かと思いきや、「斬る相手への思いやり、リスペクト、けがをさせない」(スポーツ報知2020年8月20日)が自身のルールだそうです。

「殺すよ!」宣言と矛盾している、という指摘もあるやも知れませんが、個人的にはどちらもありだと考えています。本質的に“演技”や“表現”というものは、相手(観客)に伝わらなければ意味がないからです。もっともそのルールに「この状況下なら映画の中で殺し合ってもいい、と考えているんで」とつづくのですが。

「偉そうに聞こえるかもしれませんが、勝新太郎(かつ・しんたろう、1931-1997)さんら偉大な先人を超えるサムライ映画を作ることが、僕たち映画人の使命だし、それができると信じている。全てはそのための『予告編』です」(2020年8月9日読売新聞)

こう語る坂口ですが、決して予告編などではなく、異様なまでの、すさまじい熱量に満ちた一本となっています。次回は「ミッドウェイ」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:宮本武蔵と足利将軍家の剣術師範を務める剣術流派である名門の吉岡家との戦いについては、資料が少ない。ウイキペディアによると、伝記作家で医師の福住道祐(ふくずみ・ どうゆう、1625-1689)が貞永元(1684)年に著した「吉岡伝」によれば京都所司代の屋敷で宮本武蔵との試合が行われ、この時の勝負では武蔵が大出血したことから4代目当主の吉岡直綱(よしおか・なおつな、生没年不詳)の勝利、あるいは両者引き分けの両判定があったと書かれている。

また、ウイキペディアの「吉岡家との戦い」では、宮本武蔵の養子・宮本伊織(みやもと・いおり、1612-1678)が宮本武蔵の菩提を弔うために、承応3(1654)年に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した「小倉碑文(こくらひぶん)」によると、宮本武蔵は木刀の一撃で吉岡清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。吉岡清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、吉岡清十郎は回復したが、兵術をやめ出家したとある。

その次に弟の吉岡伝七郎と洛外で戦い、吉岡伝七郎の五尺(約1.5メートル)の木刀を、その場で宮本武蔵が奪い、それで撃ち倒し、吉岡伝七郎は死亡した。吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では宮本武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎(吉岡伝では吉岡重賢)と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、一条寺下り松で宮本武蔵を襲撃するも、宮本武蔵の獅子奮迅の活躍により敗北を喫したとされている。

「吉岡伝」においては重賢は吉岡兄弟の末弟(もしくは従弟)と記されている。また、宮本武蔵は吉岡の門下生数百人のことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破ったと「小倉碑文」には書かれている。

「学校で教えない教科書 面白いほどよくわかる五輪書」(入野信照監修、日本文芸社、2009年)によると、兵法の修業をしていた宮本武蔵は21歳のころ、京都へ向かい、名門の吉岡家に挑戦状を送り、吉岡家の当時の当主、吉岡清十郎が洛外・蓮台野で宮本武蔵と戦い、宮本武蔵の一撃を受け、一命はとりとめたが、再起を図るのが難しい状態で、以降、剃髪して仏門に入ったとされている。

このため、吉岡伝七郎が宮本武蔵に試合を申し込んだが、試合に敗れた。吉岡家では足利将軍家の指南役の面目丸つぶれで、再度、宮本武蔵に決死の覚悟で勝負を挑んだ。吉岡一門の門弟百数十人が宮本武蔵暗殺計画を練ったが、宮本武蔵は一人で戦い、名声を得るほうをとったと書いている。

ウイキペディアでは、吉岡清十郎が4代目の吉岡直綱で、吉岡伝七郎が吉岡直綱の弟、吉岡直重(よしおか・なおしげ)という証拠はないとしている。

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