丸善日本橋でピカソ、シャガール、ユトリロ、マティスら版画展

【銀座新聞ニュース=2020年9月30日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は9月30日から10月6日まで3階ギャラリーで「ピカソと20世紀の巨匠版画展」を開く。

丸善・日本橋店で9月30日から10月6日まで開かれる「ピカソと20世紀の巨匠版画展」に出品されるパブロ・ピカソの「ピカドール2」(リトグラフ、1961年)。

スペインの画家、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)は青の時代(1901年から1904年)、ばら色の時代(1904年から1907年)、キュビズムと変化を続け、晩年まで独創性に富んだ作品を残した。ピカソは絵画だけでなく、版画の分野でも高い質と先駆的な作品を発表した。

今回は、ピカソと同時代に活躍したロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家、マルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)、スペインの画家、ジョアン・ミロ(Joan Miro i Ferra、1893-1983)、フランスの画家、モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo、1883-1955)、アンリ・マティス(Henri Matisse、1869-1954)らパリを愛した画家たちの作品も同時に展示する。

パブロ・ピカソはジョルジュ・ブラック(Georges Braque、1882-1963)とともに、キュビスムの創始者として知られ、生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点のさし絵、300点の彫刻と陶器を制作し、もっとも多作な美術家として「ギネスブック」に掲載されている。

ウイキペディアによると、パブロ・ピカソは1881年10月25日スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市生まれ、1895年にバルセロナに移り、美術学校に入学、入学制作を1日で完成させ、1897年にマドリードの国展で佳作、マラガの地方展で金賞、同年秋にマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学するも、中退し、プラド美術館に通い、名画を模写し、1899年にバルセロナで店のメニューをデザインしたり、アールヌーボー調のポスターを描いた。

1901年に雑誌「若い芸術」の編集に携わり、「青の時代」(1901年から1904年)の始まりとされ、1902年にパリに住み、1904年に「洗濯船」と名付けられたモンマルトルの建物に住み、「ばら色の時代」(1904年から1907年)のはじまり、1907年から1908年まで「アフリカ彫刻の時代」とされ、1912年にモンパルナスへ移り、1918年にロシアの将軍の娘で、貴族の血を引く、バレエダンサーのオルガ・コクローヴァ(Olga Khokhlova、1891-1955)と結婚、パリに移り、1918年から1925年まで「新古典主義の時代」に入り、1926年に「シュルレアリスムの時代」、1928年から彫刻に専心し、1930年にカーネギー賞を受賞した。

1932年にマリ・テレーズ・ヴァルテル(Marie-Therese Walter、1909-1977)と共同生活をはじめ、1936年に人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任、1937年に「ゲルニカの時代」とされ、1944年にパリ解放後最初のサロン・ドートンヌに80点の作品を特別展示、1946年にフランソワーズ・ジロー(Francoise Gilot、1921年生まれ)さんと共同生活、1954年にジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque、1927-1986)と共同生活(後に結婚)した。

1968年に版画に専心、6カ月間で347点を制作、1970年にアヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展、バルセロナにピカソ美術館を開館、1973年4月8日頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去した。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。