「2020年」(3.凋落<高井秀明(クリニック院長)の場合>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2020年11月6日】高井秀明は30年近く、井の頭線沿いの小駅で整形外科のクリニックを経営してきた。生まれは富山県、父が内科医、母が眼科医の代々医者の家系に育った。

兄が一人いて、実家の医院を継いでいる。が、この10年ほど音信不通で、兄弟とはいうものの、どうも反りが合わない。

だから、たまに帰郷しても、顔を合わせることはなく、高校時代の恩師やクラスメートとの旧交を温めるだけだった。

しかし、3月来、コロナ禍の悪影響を被って患者数が激減している今、疎遠になっている兄のことがさすがに、少し気になった。

腕のいい高井内科医院の2代目院長だけに、地元客から絶大な信頼を勝ち得て繁盛していたはずだが、4月の緊急事態宣言発令で、同じように窮地に追い込まれているはずだった。

土台、兄は亡父に似て、無愛想でぶっきらぼう、患者に高飛車な態度に出るところまでそっくり受け継いだ。俺は偉い医者で悪いところを治してやるんだという居丈高な態度は、保守的な富山だからこそ、現代まで通用してきたが、コロナ下のご時世で患者が来ない今、改めてしかるべきだった。

偉ぶった父を見て育った秀明は、僕が医者になったら、絶対にもっと患者に優しくするぞと、子ども心にも決意させるに至った。中高時代は大学ノートに詩を書いたりする文学少年だったが、レールに乗ったように医家の道を進み、東京のマンモス大学の医学部に入った。

優秀な兄と違って、国立大学に受かる自信のなかった秀明は、二流の私立大に進学、田舎を離れて東京に出たかったため、合格したときは大いに喜んだ。が、勉強そっちのけで恋や遊びにのめり込んだため、留年を繰り返し、見かねた父に呼び戻された。

そのとき、秀明は、一人の女子大生に入れ揚げ、貢ぎまくった挙句に逃げられ、失恋の傷を癒すため、のめり込んだ賭け麻雀で500万円以上の借金を作っていた。相手がヤーさんと、悪かった。

毎日、目白のマンションに取り立て屋が押しかけ、脅された。自分の人生で最悪のどん底の一時期で、借金催促を避けて、街中を夢遊病者のようにうろつき回ったが、通行人が皆、自分より幸福に見えて、世界で一番落ち込んでいるのは俺だ、俺よりどん底の奴は一人もいないと思わされたもんだ。

大学は自主休講、ヤケクソでにっちもさっちもいかなくなっている窮状を見かねて、やはり上京して同じ大学の芸術学部に通っていた郷里の幼なじみが、実家に密告したのである。

渡りに船の助けで、借金を親に肩代わりしてもらった秀明は、父の命令に従って都落ち、兄の監視のもとに猛勉強させられ、翌年、隣県の私立医科大学に受かり、一から医者の道を歩み直すことになったのだった。

帰郷3カ月前に知り合った薬学部の女子大生とはUターン後も、電話や文通越しの交際が続いていたが、彼女の卒業を待って結婚した。

秀明はまだ医学部の1年生だったが、在籍中に子どもが生まれたため、出来の悪い次男坊に甘い父は相好を崩し、一軒家をプレゼントしてくれた。

家庭を持った秀明は、真面目に勉強に打ち込み、留年することなく6年制を卒業、医師の国家試験に通ったのである。大学病院での初期研修後、専門を何にするかと考えて、結局、内科でなく、整形外科を選んだのは、兄の次の進言あってのことだった。
「お前のような出来のよくない奴は、人が死なない整形外科が一番だよ。誤診で死なせて、訴えられても困るだろう」

カチンときたが、その通りだった。

東京出身の妻は田舎を出ることを望んでいたため、家を売却して上京、大学病院に10年勤めたあと、父の援助を主に貯金やローンを足して億の資金繰りの算段をし、井の頭線沿いにクリニックを開業するに至ったのである。

薬剤師になっていた妻をパートナーに始めたクリニックは最初、患者も少なく、赤字で苦しかったが、節税メリットのある一般社団法人化して以来黒字に転じだした。患者の間で優しい先生との評判が口コミで広がり、繁盛したのだ。父や兄が反面教師となって、患者に親切に接したことが、人との触れ合いに飢える都会では受けたのである。

決して名医ではなかったたが、己が不得手とする膝疾患等の分野は、別の知り合いの医者を紹介するなどして、切り抜けてきた。

リハビリ専門のスタッフにも、恵まれた。が、何と言っても、妻のサポートが大きかった。妻との間には一男一女を設け、夫婦仲も悪くなかったが、経済的に潤ってくると、ベンツを乗り回し、愛人も作った。

自分のような医師失格の落第生がこの29年、ほんとにいい思いをさせてもらってきたとしみじみ思う。自分ごときが医者でございとのさばっているのは常々、申し訳ないような気がしてきたが、いよいよ焼きが回ったようだ。

60代後半になる秀明は、いつかはと引退を考えないわけでなかったが、息子が整形外科医として一人前になり、クリニックを継ぐまでは、もうひと踏ん張りするつもりだった。

まさか、こういう形で、リタイアを余儀なくされようとは。辞めても、自分はコネで大学病院のパートにでも雇ってもらうことも可能だが、長年尽くしてくれた職員のことを思うと、頭が痛い。

皆年だし、解雇となったら、路頭に迷う者も出てくるだろう。何より、影に日向にこれまで支えてきてくれた妻にすまない。女性問題では随分泣かせてきたが、できた女で、年取ってから、とち狂われると、厄介だから、今のうちにせいぜい遊んでおきなさいねと、涼しい顔をしていた。そのくせ、裏でこっそり泣いていたのを、知っている。

が、その代償に、これまで贅沢させてやってきた。田園調布に豪邸も買ってやったし、海外旅行や美食、子どもたちにも甘い父親で、長女には家、次男にはベンツも、プレゼントしてやった。

息子は今、大学病院の整形外科に勤務している。2子とも既婚で、孫も3人いて、年賀状には、元旦に一家揃って記念撮影した写真を使うのが、毎年恒例だった。俺はこんなに円満な家庭で幸福だと、誰にともなく見せつけたかったのかもしれない。

その日も患者がほとんど来ずに、手持ち無沙汰だった。院長室の愛用椅子にもたれて嘆息をついていると、カウンター番をしていた妻がいきなり、ノックもせずに駆け込んできた。

「ねえ、あなた、前年比30%以上の減収なら、政府が月50万円家賃を援助してくれる法案が通りそうよ」

月95万円と決して安くない家賃に4人の職員の人件費と、算段に頭を悩ませてきたこの3カ月、貯金を切り崩してどうにかこれまで持ちこたえてきたが、夏まで持つかどうか、危うかった。贅沢三昧だった食費も質素に切り詰めていた昨今だったのだ。

それだけに、妻の藁にも縋りたい気持ちはわからないでもなかったが、秀明は一言、冷ややかに、
「政府の補償なんて、まったく当てにならんよ」
と吐き捨てた。何より、自分の矜恃が許さなかった。全部こここまで自分の力でやってきたんだ。今さらお上に頼る気は毛頭ない。赤字政権がいったい、何をしてくれるというんだ、税金を絞り取るだけ取りやがって、還元するというなら、話は別だが。

秀明は、現政権に関しては、辛口派だった。無学歴のバカの集まり、無能政府だと日頃からこき下ろしていた。

特別定額給付金にしろ、国民に恵んでやるていのはした金、実に馬鹿げた政策で、10万円ぽっちでいったいなんの恩恵があろうか。この先も、政府の支援には、露ほども期待していなかった。

それにしても、医療崩壊とやたら騒いでいるが、患者が激減しているクリニックも、医療崩壊の一種じゃないか、うちだけじゃない、町医者は皆、あおりを食らって存亡の危機に瀕しているんだ、何も大病院だけが医療機関のすべてじゃない。

できれぼ、クリニックは息子に継いでもらいたかったが、2年ほど前1キロ圏内に整形外科クリニックが3軒も開業したこともあって、患者の流出は止められず、それも減収の一因になっていた。それでも、どっこいどっこい何とがやっていけるかと、目算していたところに、このコロナ禍だ。予想外に足元を掬われるとはまさに、このことだ。

もう、この商売はなんの旨みもない、お前はあてにせずに自力でやれと、ついこの間も電話で息子に言い聞かせたばかりだ。患者からのコロナ感染リスクなんて、屁でもない、感染したら、運が悪かっただけだ。

兄貴は、どうしているのだろう、国立大の医学部出身の娘は優秀で地元の大学の准教授に就任したと風の便りに聞いたが。電話してみようか、いや、今さら、向こうも迷惑なだけだ。せいぜい金の算段と邪推されるだけだ。お袋が死んだとき、親父以上に金を遺したのに、独り占めして、1銭も分け与えなかった守銭奴だ。

ああ、あのときの遺産が今、少しでも手元にあればな、窮地を凌げるのに。

秀明は、兄への憎悪を感じた。スマホの番号を押しかけた指先がぴたりと止まる。兄へのわだかまりは、あれ以来、よりいっそ強くなった。

それから、秀明は、俺はこの30年、本当に幸せだったのかと、自問した。愛妻と可愛い2児に恵まれ、何不自由ない贅沢な生活を満喫してきた。絵に描いたような幸福な家庭、医者としての成功、子どもたちも成人して家庭を持ち、幸せに暮らしている。

これ以上、望むものは何もない。なのに、この虚しさはなんだ、なんで俺は幸せじゃないんだ、胸の奥深いところから、湧き上がってくるものがある、どろどろした、蓋をして密封した、抑圧してしまった感情、俺を裏切った女のことを、いまだに忘れられないのか、あんなアバズレと結婚してたら、俺は間違いなく破滅だった。

あの頃の俺は、当時流行っていたグループサウンズの人気ボーカルに似ているとモテモテだったのだ。今は禿げ上がってしまったが、ふさふさの長髪、マッシュルームヘアが可愛いと引っ張りだこだった。それを、しょうもない女に引っかかって青春を台無しにした。

あのしよんべん臭い田舎娘に磨きをかけて、垢抜けた都会の女に変身させてやったのは、俺なのに、掌を返すような仕打ちをしやがって。年下の学生に走って、俺には許さなかった体をあっさり明け渡しやがった。3年間貢ぎまくって奴隷のように仕えてきた俺の愛の奉仕を泥靴で踏みにじったんだ。45年たった今ですら、あのときのことを思うと、屈辱で胸が震える。胃の腑が焼け爛れて苦しくなる。

俺の偏愛を避けて逃げ惑うあいつを、地の果てまでも追いかけてやると、妄執に駆られた俺は追跡し続け、捜索の過程で知り合った同じ薬学部の女子学生が、今の女房だ。彼女は、あいつとは、直接の交流はなく、顔見知り程度だった。

気違いじみた殺意衝動すら覚え、あいつを絞め殺したかったあのとき、狂った青春。ほんとに、あの頃の俺は尋常じゃなかった。

そんな俺の前に現れた女房は天使、まさしく救世主だった。自暴自棄の俺を、穏やかな愛情で包み込み、裂けた傷口を埋めるように明るい笑顔で癒してくれた。あいつと違って、薬剤師としての自立を目指しながらも、家庭的な女だった。

今の成功は、女房の内助の功なしにはありえなかった、まさしく上げマン、彼女と結婚したことで運が転回したのだ。ラッキーマスコット、なのに、満たされないのは、何故なのか。

ある夜、妻に聞いたことがある。お前、俺と結婚して、幸せかいと。妻は淡々と、自分が選んだ人だもの、そんなこと、今さら考えても、しょうがないでしょ、と答えた。肩透かしを食らって、結局のところ、俺は、女房の掌中で転がされているだけのことかもしれないなと、思った。

理系に進んだが、本当のところ、繊細でナイーブなところのある俺は文系人間だったのかもしれない。俺の青春の原点、傷について書きたかったな。

秀明は、休日の家酒にしたたかに酔って、ソファーに倒れ込んだ。かみさんは今日は、娘のところだ。あいつにも、気苦労をかけてすまない、クリニックの赤字経営で、このところ心労が絶えないのだ。家賃に職員給与、貯金であと、どれくらい持つだろう。

秀明はこのまま、目覚めなければいいと思い、目をつむった。

眠るように死ぬことを希望して、翌朝、意に反して、しっかり目覚め、生きていることに、安堵とも失意ともつかぬ思いを抱いた。

兄が心筋梗塞で急死したとの、訃報が届いたのは、それから3日後のことだった。(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。